目を覚ましたときはまだ辺りは薄暗かった。暖かい温もりに包まれているのを布越しに感じ、瞬きをする。随分と早い時間に起きてしまった、もう一度寝なおす時間はあるだろうと冷たい空気から逃れるように顔を布団の中に潜り込ませた。一度大きく息を吸ったところで、ある違和感に気が付いた。布団に仄かについた体臭とでもいうのだろうか、けして嫌な匂いではなかったのだがいつもと異なっているのである。つまり、ここは自室ではない。別の場所で寝ていたということに眠気が一気に吹き飛んで、ぐるぐると頭が忙しく思考し始めた。昨晩の記憶を呼び覚ます。そういえば確か、色の実習をしていたような気がする。布団から顔をこっそりとだし辺りを伺うえば、隣の布団に立花が寝転んでいた。綺麗な笑顔で微笑まれる。 「おはよう」 血の気が引くとはこのことである。がばりと身体を起こして違和感がないか確かめた。身なりはきちんとしていたので実習以外、何もされていないらしい。狼狽しているの反応が想像通りだったのかくつくつと喉を鳴らして面白がっていた。と、その又向こう側に冬だというのに毛布一枚で座って眠っている潮江の姿も目に入った。ぴきんと背筋が凍りつく。今度こそ生きた心地がしなかった。二組しか用意されていない布団だったため、彼の寝床を占領してしまっていたらしい。立花の微かな囁きに潮江も目を覚ましたらしく、不眠がちで血走っている目がぎょろりとこちらを捉えた。は慌てて頭を下げた。立花に対してはあまり良い印象を抱いていないであったが、潮江の忍術に対する妥協を許さないほどの姿勢を少なからず好ましく思い、また憧れすら抱いていたのでこの二人の間で態度が異なるのである。 「申し訳ありませんでした!」 「全くだ」 機嫌が悪そうに彼が呟く。身体の底から這い出てきたような低い声に背筋が震えた。いくつになっても彼に怒鳴られることを考えるだけで恐怖が絶えない。彼は確実に正論をついてくるからだ。 「気の知った相手とはいえ、異性の前で無防備に眠るとは。危機感が足りないんじゃないのかお前」 ぐちぐちとした説教ではあるが、も身にしみて感じていたことである。脳内は後悔という言葉一色だ。次第にぼんやりとしていた頭も覚醒し始め、自分の感情の一部を立花に吐き出してしまったことを思いだしてしまった。なんたることだ。正直立花を姿に収めることさえも今のには苦痛でしかない。恥ずかしすぎる。俯いて潮江の話を聞くことが精一杯だった。 「その辺にしておいてやれ文次郎。夜が明ける前に自室へ戻った方がいい」 「……以前から思っていたが、お前、こいつに少々贔屓目ではないか」 「そうか。そんなつもりは全く無いのだが」 潮江の疑わしい視線をひょいと交わしながら、立花はの肩をぽんと叩いた。彼が何故そのような行動に移したのか。恐らくここであえてを庇うことがさらなる苦痛になることを解っているからだ。だから、は彼のことが得意ではないのである。かといってこれ以上ここに居たいわけでもない。着替えも存在しないし、いつまでも寝巻姿のみっともない格好のままこの場に居座り続けるのは拷問である。顔を上げずにもう一度潮江に対して謝罪の言葉を口にして、自室に戻ることにした。辺りに気配がないのを確認しては外に出たが、その際に立花は一言彼女に向ってこう告げた。 「池の前を通って帰るといい。朝練に出てる連中を掻い潜るにはあの道が最も安全だ」 元々、彼女もそちらの道を使用するつもりだった。何故敢えてその様な事を言うのか不信に思う。しかし、人通りが少ない目立たない場所というのは限られているものであり、他の道は危険が伴うのであった。誰かに目撃されると厄介だ。なるべく早く帰宅して同室のくのいちにも弁明しなければならない。一応、色の実習であると告げていたが自然と歩みが速くなった。 丁度、くのいちとにんたまの母屋を遮る壁の前の辺りのことであった。誰かが蠢く気配がした。はとりあえず身近にあった木の上へ登り様子を伺うことにした。寝巻なので身体を動かしにくかったがそれは仕方があるまい。際どいところまで引き上げられた裾を気にしつつも声をひそめて気配が過ぎるのを待った。 「あ」 通り過ぎていったのはずっとの心の中を占領して放さないその人だった。嫌な緊張がに襲いかかる。にんたまにもくのいちと同様に色の実習が行われているのである。不破が朝帰りをしてもなんら不思議ではない。多少、実習内容に男女間の違いはあるだろうが間違いなく他の女性と触れ合っていたのは事実だ。自分もそうなのだから。漏らした声は案外大きく、辺りが静寂に包まれていたせいもあって不破の耳にも届いたようだった。きょろきょろと声の主を探す様に視線を彷徨わせているのが解った。少しでも動くと気配でばれてしまうだろう。冷や汗を流しながら頼むから気が付かないで欲しいとそればかり願った。ただ、心も大きく動揺していたらしく普段ならしないような失態をは犯してしまった。 一瞬ふわりと身体の重心が不安定になり、葉が数枚一気に抜けてひらひらと宙を舞ったのだ。不破はさすがにそれに気が付いて、木の下までやってきた。目が合う。先週の彼との会話を思い出し、そのまま去ってくれればいいのにと望んだがそれは無駄に終わった。動く気が全くないらしくじっと見つめられる。観念したようにはそこから降りた。 「不破、であってる?」 「うん。……まるで鉢屋であってほしかったみたいな言い方に聞こえる」 「私はできることならここで不破と出会いたくなかった」 「僕も同じ気持ち」 当然だ。何処からどう見たって不破はくのいち母屋から、はにんたま母屋からお互いの自室へ帰ろうとしていた。すなわち、どのような実習を行ってきたか双方想定がついており、複雑な心境であるのは間違いない。ましてや、伝わっているかいないかは別であるが、不破はのことを好いておりまたも不破のことを好いていると自覚しているのである。朝の爽やかな空気とは相反する気まずいものが漂った。 「この間は不躾にあんなことを言って、ごめん」 「……もういいよ。そんなに気にしてないし」 神妙な表情で不破は謝罪の言葉を口にする。はちらりと不破の手を盗み見た。昨晩はその手で他の誰かに触れたのだろうか。嫌な事ばかりが頭を駆け巡り、止めようにも想像が広がるばかりであった。目を閉じてしまいたかった。沈黙が漂う。どうこの状況から逃げ出そうか迷っていた。すると、不破が意を決した様な表情で告げた。 「諦めてと言われたけど……僕はがくのいちを目指していようといまいと関係なく君のことが好きだし、仮にがそうしたいのであれば応援するよ」 「本気でいってるの、それ」 の表情が強張った。不破は全然解っていない。の気持ちを理解していない。否、は不破に自分の気持ちを理解してもらおうと思ってはいなかった。一方的に別れを告げたかった。自分の感情を隅々まで吐露してしまうことが無性に恐ろしいのである。 「私は、不破とは付き合えない」 「……じゃあ、なんでそんな表情してるの」 「そんな表情って」 「抱きしめたくなるくらい、傷ついた顔してるよ。自覚なかった?」 心臓がぎゅっと握り潰されたかのような感情を抱いているのだ。自覚がなかったわけではない。冷静であることに勤めていたはずなのに動揺が表情に出てしまっていたとは自分の力の無さを感じた。否、これが任務であったなら簡単に晒してしまうことはなかっただろう。私事で動揺を表に出してしまっているということも誉められたことではないけれど、自分の真意まで冷静に受け止められるような落ち着きがまだ自分には存在しないということだ。素直に受け止めようとは思った。不意に、彼が一歩こちらへと歩みを進める。 「ねえ、は本当はどうしたいの」 責められているような言葉であった。後ろは壁に挟まれていてそれ以上動くことができず、甘んじてその距離を受け入れるしかなかった。真っ直ぐな瞳は毒のようにも思える。純粋で清らかな毒。だからこそ、効果はすさまじく高い。 「私は」 「うん」 「不破を独り占めしたいと思う。苦しくてしょうがない」 ついに本音を言ってしまった。不破に与えられた実習にまでも嫉妬をしてしまう自分が情けなくて仕方がない。苦しんでしまっている自分が悔しい。くのいちになるための器がお前には無いのだと言われているようなものだ。耐えられないのであれば、立花が言ったようにこの道を諦める他ないのかもしれない。たった一人の男にの夢を乱されているのがとても悔しかった。 「僕も一緒だよ。が他人と触れあっているところを想像するだけで苦しい。でも苦しいからいらないとは思えない。だから、二人で、克服していけばいいんじゃないかな」 「理想論だけどね」と不破は苦い表情で言った。 「大好きだよ」 不破はそっとを抱きしめた。泣きそうになるほど、その腕の中は暖かかった。はその身体を抱きしめ返す様なことはしなかった。だからといって突き放すこともできなかった。ただ、されるがまま彼の抱擁を受け止めていた。 |