遠くから、名前を呼ばれた。後ろを振り向くと誰かがこちらへ向って凄い勢いで走ってきていた。目を凝らしてみる。最近よく姿を目にする、彼だった。

「不破?私になにか用……ってなに。本当にどうしたの」

 不破はのことを探していたようだ。目の前までくると疲れ切ったようにはあと大きく息を吐き、膝に手を当てた。首筋にぽたりと一滴の汗が滴り落ち、跳ねる。仄かな汗臭さが鼻を突いた。季節は冬を目の前にしている。こんなに大量の汗をかくとはどれほど長く自分のことを探していたのだろうかと不破のあり様に目を丸めた。

「聞きたい事が、あって……!」

 がしりと両腕を掴まれた。あまりにも真剣なその眼差しにたじろぎながらも控えめに「うん」と相槌を打った。大人しい不破にしては珍しい光景である。怒っているのか、悲しんでいるのか、よくわからない。ただひどく興奮しているのだけは理解できた。

 何がその口から飛び出すのであろう。じっと彼の唇の動きを見守っていたが、不意に後ろからどたばたといった足音が聞こえた。無邪気な一年生が追いかけっこでもしているのだろう、はしゃぐ声がどんどんこちらに近づいてくるのがわかる。不破も焦ってはいたがそれに気が付くだけの冷静さはあったらしく、の手を引いて素早い動きで屋根へと飛び移った。この辺りはさすが双方、忍の卵といったところだろうか。そのまま二人は全員が通り過ぎ、気配がなくなるまで声を殺した。屋根ならば滅多な事がないと人は上がってこない。とりあえずは掴まれていた腕を離すように彼に告げた。慌てて「ごめん」との返答が返ってくる。ぐぐ、と力を入れられ握られていた部分が少しひりひりと痛んだ。見かけによらず力があるようだ。

「何かあったの?」

 不破は暫しの間、沈黙した。告白の際も同じだったが彼はこうやって突撃しそうなほどの勢いでやってきたり、自分から誘い出したはいいものの実際に本人に告げる前になって長い時間頭を抱えて悩んでしまうことが多い。迷い癖のある不破雷蔵、という定評がつくほどなのである程度知ってこそいたが、考え込む様を見ていると何時になれば話し始めるのだろうと少々呆れた気持ちになる。これが急いでる時であったならは不破の言葉を待たずに通り過ぎてしまっていたかもしれない。

 長く静寂が訪れていたがようやく彼は口を開いた。しかし、出てきたのはとんでもない言葉だった。「実習を受けている事実が本当かどうか知りたい」と彼は言ったのだ。ここでいう実習などわかりきっている。色の実習のことだ。は思い切り顔を歪めた。触れてほしくない話題の筆頭である……というかそもそも実習は極秘に行われているものであり、誰がこの実習を受けているかは他言無用なはずである。一部に広まったらそれは秘密主義である忍者の勤めを覆すことになるのだ。問いつめれば、彼は言いにくそうに「見かけたんだよ」とぽつりと呟いた。は実習の出入りの際に誰かの気配を感じてはいなかった。と、いうことは自分に落ち度があったということである。不破ばかりを責めることはできない。

「……実習だとどうして判断できたの。相手と私が個人的に付き合っていた可能性もあるでしょう」
「自分もその実習の帰りだったから、この時期ならもしかしてと思って。もちろん後者の場合も考えたけど。……いや、どちらかというと考えたくはなかったんだけど」

 不破も実習を受けている。不覚にもはそちらの言葉に気を取られてしまった。不破も忍になることを目指しているのだから受けるのが当り前のはずなのに、改めて彼の口からその事実を知らされると妙に心が痛んだ。

「それを確かめて、何になるというの」
「何って?」
「実習。止めてほしいとでも言うの」
「そういうわけじゃないよ」
「じゃあ、何故そんなことを聞くの」
「好きな子が例え実習であろうとそういう状況下にあるかもしれないと聞いたら、事実を確かめたくなるのは……当然だと思う」

 好きだといえば全ての言動が許されるとでも言うのだろうか。は大げさに肩を動かして長く息を吐き、口元に苦笑いを浮かべた。一つ年下の後輩に、彼は似ているのかもしれない。そう考えるとますますは彼に相応しくない存在だった。

「恋人関係に無い不破が私にそれを聞く権利はないし、私の将来に口出しする権利も無いよ」
「……将来?」
「そう。誰もかれもが花嫁修業のためにここにいると思わないで」

 そこではもう一つ、新しい事実に気が付いた。不破は、自分がくのいちになりたいと望んでいることを知らなかったのではないだろうか。不思議なように感じるかもしれないが―なにせ、ここは忍術を教える忍術学校であるのだから―卒業後に実際にくのいちとして働き始めるのは学園で学んでいるくのたまの半数にも満たない。残りは花嫁修業か礼儀習いかどちらかである。よっぽどのこと、例えば実家が忍び里であり生まれながらにしてくのいちになることを望まれた女子であるなどといった事情がなければくのいちとして就職する者は珍しいのである。同学年とはいえほとんど会話をしたことのない不破がそれを知っているとは思えなかった。幾度か組手や実習を共にしたことのある鉢屋や久々知などならそれは別であろうが。

「もう私に話しかけないで。綺麗さっぱり、諦めてほしい」

 はきっぱりとそれを不破に告げると相手の返答も聞かず、そのままの足で鉢屋の元へ訪れた。不破と鉢屋は同室だからいずれ彼がここに返ってくるだろうことを想定して場所を移して話をしたいということを告げる。突然現れた、しかも予期していなかったであろう訪問者に軽く驚いてはいたようだったけれど、鉢屋はの言葉に従いそのまま外に出た。夕日が暮れはじめ、丁度晩御飯の時間帯だったので人気はほとんどなかった。

 先ほど不破と交わした内容をほとんどそのまま鉢屋に伝えた。何故、鉢屋が自分に最初あのような行動を起こしたのかその理由を勘違いして記憶していたが、真実はそうではなかったのかと。不破はが忍を真意に目指していることを知らず、その心構えを持っていなかった。そして、鉢屋は不破がに関心があることも、が本当に忍を目指していることも知っていた。そこから生まれる感情の差異に鉢屋が気が付いていたからあのような忠告を自分にしたのではないかという旨を簡潔に告げた。

 鉢屋は思いの外あっさりとそれを認めた。

「雷蔵は一般の出だから忍の恋人というものをよく理解してはいないような気がしていた。なら、忍云々とは異なった環境の子と最初っから付き合ってた方が問題ないんじゃないかと私は考えたのさ」
「鉢屋は忍の里の出、なの?」
「ああ。確かもそうだろう」
「うちは正確には里ではない、城お抱えの忍一家だけど」
「大して変わんねえよ」

 忍同士の夫婦、恋人というのは一見特殊な役職についている者同士より互いのことに就いて理解でき、どちらかといえば付き合い安い関係ではないだろうかと思われている節があるが、実際はそうとは限らない。もちろん、上手くいく場合もある。だが、一方で理解出来過ぎているために上手くいかなくなる場合も多い。それは特に性に関わることだ。任務で仕方がないとはいえ、好んでいない相手に触れる、触られることがある。場合によっては相手の子を妊娠してしまう可能性もある。そうならないように色を習うわけだけれども、可能性が零かといえばそういうわけではない。一般人相手なら自分だけの背徳感で済む。そういうことをしていると生涯隠し通すこともできる。相手がどのように他の異性に扱われているなどといったことで苦しまなくていいのだ。

 忍であるなら任務と割り切り、好いた相手が他人と性行為を行うという事を耐えろというのだろうか。その言い分は納得できるようでできない。人の心がそれほど柔軟に対応できるほど柔らかくできているわけではないということを、本物の忍が間近にいる環境で育った二人にはよく解っていた。一種の偏った考え方かもしれないが、この場合、と鉢屋の価値観は見事に重なり合っていたのである。

「お節介だと思うか」
「思う。笑えるほど過保護」
「なんとでも言えよ。にはわかんねぇだろ」
「鉢屋の不破に対する感情は正直よくわからない。けど、不破に幸せになって欲しいと自然と私も思うから行動を否定したりはしないよ。超過保護だけど」

 恐らく鉢屋が不破のことを五十知っていたとしたらはその半分以下、否、片手で数えるほどしか彼のことを知らないのではっきりとそうだは言えない。けれど、彼は忍の世界に入るには勿体無い人材のように感じた。彼を見ていると、敢えて過酷な環境に置かれることのない、真綿の様に包まれた世界で、のほほんと生きていてほしいと願わざるを得ない感覚に陥ってしまう。

「お前、やっぱり雷蔵のこと」

 鉢屋が続けようとした言葉は簡単に予測できた。自分自身かもしれないという疑心だったものから確信へと変わっているので、察しのいい鉢屋に気付かれるのはむしろ当然のように思えた。

「言わなくていい」

 は自らの言葉でそれを遮った。はやはり不破のことを好いている。でも、付き合うことはけして無い。手に入れることも無い。この事実を認めてしまうことほど辛いことはなかった。



    
110320