時は流れる。春が過ぎ、暑苦しい夏も過ぎ、過ごしやすい秋がやってきた。今年は夏に適度な雨が降り、実りの秋になってから多くの人達を笑顔にさせた。珍しい豊作の年だった。どこか浮かれる様な雰囲気とは正反対にの心境は日々複雑だった。何故なら、不破がのことを完全に諦めたとは言い難い状況が続いているからだ。週に一回は会話をするような仲になってしまったのである。合同演習が月に一度、委員会も異なり母屋も違う、彼と顔を合わせる機会があるのは食堂か図書室のみ。そんな状況下でいきなりこのような遭遇率になれば不破が意識して行っているとしか思えない。不破はめげなかった。大人しそうな雰囲気を纏っているとばかり思っていたが、実際の彼はどうやらそれほど簡単な男ではないらしい。友達になろうと宣言したのであるから可笑しい行為だとの方からは言えなかった。至って彼は優しく―恋愛等といった分野は遠まわしに避けて―会話をしてくれるのだから尚更のことである。 今日も数人のくのたまと食堂に行き、晩の定食を決めていると背後から柔らかな声が掛った。気配は事前に察していたので驚きはしない。けれど、これだけ人が多ければ避けるわけにもいかず幾分か悔しい気持ちが胸いっぱいに広がった。 「」 振り返れば、やはり不破がいた。忌々しそうな表情でこちらを睨む鉢屋もいる。告白以後もむしろ積極的にに構い始めた不破を見て、鉢屋は「話が違う」と一旦抗議にやってきた。は「不破が望んだことである」と事の経緯を説明を一応はしたのだがどうやら鉢屋は納得がいかなかった様子でこうしてあからさまに自分に視線を送りつけてくるようになった。もちろん、合同演習の相手役としてはあれから一度も共に行ったことが無い。今は代わりにい組である久々知兵助という男と共に行っている。彼は行動が規範通りで読みやすいという難点があるが、頭の回転が速いのでぐずぐずしていたら追い付けなくなるほど忍として優秀な男だった。 はもう慣れたもので背後にひっつくようにしてこちらを伺ってくる鉢屋を完全に視界から消すことができてしまっていた。これも新しい忍としての能力かもしれないと最近は踏んでいる。 「……今日は、どっちの定食にするのかもう決めたの?」 「うん。三郎が右にするっていうから僕は左に。鯖もいいけどやっぱり味噌煮込み饂飩かなって」 「ふうん」 「はどっちにするの」 「私は鯖。魚好きだから」 淡々とした会話に気を悪くすることなく不破は「そうなんだ」と軽く笑みを浮かべながら相槌を打った。態度であまり関わらないでくれと示しているつもりだったのに、不破はそれに淀むことなく真っ直ぐと接してくる。案外、大雑把なのだと段々とは彼の本性に気が付いていった。迷い癖の様な他人の意見や行いに左右されるなどといったところもあるというのに、人の性格とは解らないものである。 「雷蔵、先に食うぞー!」 「僕は秋刀魚とか好きだな」なんて長く続きそうになった不破の言葉を彼と同学年である竹谷が遮った。二人して声のした方向へ視線を向ける。いつの間にか背後に居たはずの鉢屋も、竹谷の隣に座って頬杖をついていた。不機嫌そうな表情は先ほどとは変わりやしない。不破は「じゃあまたね」と苦く笑って去っていった。は思わず小さな溜息を吐きだした。それを聞き咎めていたのは、一つ下の後輩だった。が頼んでいた鯖定食を仏頂面でずいと差し出す。 「先輩は贅沢ですよ」 耳に胼胝ができるほど彼女から言われた台詞だった。もちろんそれは不破のことを指している。と不破の間の隔たりが無くなっているということは、学園という閉ざされた空間では解りやすかった。不破に隠す気が無いのだから当り前だ。どうやら不破がに一方的に好意を持っているというのも数人には伝わっているらしかった。傍から見ればなんとなく友人にも思えそうな様子ではあるが、よく不破を観察すればわかるのだと目の前の彼女は言う。では何故彼女がそれほどまでに不破の様子に注目していたのかといえば、それは不破の近くに彼女の想い人がいるからであった。ここで名前をあげることは止そう。けれど、彼女に好かれるのも解る気がする様な、そんな相手だ。しかし、彼には既に想い人がいて、叶わぬ恋をしているということもは知っていた。自分と不破を重ねてしまっているのかもしれない。だからこそ後輩であるにもかかわらず、こうやってちくちくに小言を述べているのである。 「何を断る理由があるんですか」 「私にもそれなりの考えがあった上での行動なの」 「そんなの解ってますけど、あまりにも相手が可哀相すぎます」 綺麗に魚の骨を取り外して、鯖を口に入れる。後輩はの進歩のない返答に納得がいかないらしく、食べるのを止めて恨めしげにを睨んだ。 「あっちは納得した上でそれでも関係を保とうとしてるんだから心配する必要はないよ」 「でも」 「これ以上は余計な御世話。考え方の違いだから」 「ね」と緩く微笑みながらも強く言い返せば、彼女はたじろいで魚に視線を移した。本当に表情やちょっとした動作に感情が出やすい子だ。一つ年上の食満という用具委員長が委員会の後輩である彼女のことを特別に可愛がっていると聞いたが、こうして会話をしているとその理由がよくわかった。彼女は一途で、まだ恋愛に夢を見ているところがある。そして、殺伐とした鍛錬に足を突っ込み始めた五六年生にはそれがとても眩しくみえる。こういう子がこのままこの場所に残らなければいいなとは考えていた。 「それより好き嫌い直さないとね」 鯖の味噌煮込みの横にあった人参と大根の甘酢和えがこんもりと残っており、そちらを視界に入れては渋い表情を浮かべている後輩の感情の豊かさに苦笑いしながら、は席を立った。「待ってください」と慌てて彼女は口に収めていたけれど、知らぬふりをして食べ終わった食器を片づけ自室へと戻った。これ以上不破についてなにかと言われるのは避けたかったというのが本音だ。 辛いのは不破だと一方的に思われているようだが、事実は異なる。不破がに近づけば近づくほど、も不破に惹かれていた。最初は単なる自分の好みが不破の様な人であると、ただの好みであると考えていたのだが、彼と言葉を交わす回数が増えていくたびに感情が明確になっていった。自分は不破を意識しているかもしれないからそれが確信へと変わっていく様は自分から見ていてもとても滑稽だ。よもや自分の中に恋をする等という機能が備わっていたとは。笑いも起きない。だからこそ、にとって今の状況は壊れかけの橋を命綱無しで渡るに相当するほど危ういものだった。ただ、は自制とするということを知らず知らずのうちに行っており、今まで何度も本音をいうことを回避していたことだけが救いである。 渡り廊下を過ぎ、くの一教室へと続いている方の廊下を歩む。辺りから葉の焼ける匂いがした。この先にある池の付近だろうか。気になりはしたものの、人の気配もあり、騒がしくはなかったため火事ではなく単なる焚火だと判断した。廊下を渡り終えようとしたところで、不意に背後から視線を感じた。声を掛けられる前に振り返る。不破がにこにこした笑顔で立っていた。 「どうかした?」 「焼き芋食べるかって、はっちゃんが。まだ食べれる?いる?」 「いる」 軽く息を吐いて、は不破の跡を追った。近くもなければ遠くもないこの曖昧な距離感を甘んじて受け入れてしまっている自分がいる。愚からしい。 の内情にも気が付かず―もしかしたら気が付かない振りをしているだけかもしれないが―能天気に微笑みながらやってくる不破に対して「これ以上近づかないで」とはどうしても言い返せなかった。 |