そろりと木製の扉から顔を出す。鉢屋の話によれば、今日は不破が図書当番だそうだ。呼びだそうにも接点がないため、は恐らくこの学園内で一番彼に会いやすいであろう図書室にやってきた。通う人が限られているので人に見られる心配も少なく好都合である。きょろきょろと辺りを見渡しながら不破の姿を探した。確かに二、三人しか使用者はおらず静かな空間ではある。しかし、彼の姿が一向に見つからないのだが、一体どういうことだろうか。不信に思い首を傾げていると水色の忍び装束を着た後輩がやってきた。

先輩じゃないっすか」

 小声で話しかけてきたのは一年は組のきり丸だ。図書委員の一年生でもある彼は私語厳禁であるにも関わらず勇敢に話けてくる。四六時中ここにいるせいである程度聞こえない個所や時期があるのを熟知しているのかもしれないし、図書の番人である中在家長次がいないためできる行動であるのかもしれない。鬼の居ぬ間に、とはこのことである。

 きり丸とはある程度顔見知りであった。彼は、日常を過ごしていれば関わり合いになることはあまりないはずの相手だ。委員会も異なるし、学年も大きく開いているので知り合いになることすら珍しいだろう。けれど、馬が合うのであろうか彼とは偶然に知り合いになった以後もばったりと学園内で出会えば会話をすることが多かった。そんな彼が図書当番とは丁度良い。こいこい、と右手で手招きをして呼んだ。きり丸はきょとんとしながらも大人しく両腕に本を抱えとてとてとの近くまでやってきた。

「どうしたんですか」
「あのさ、不破雷蔵っていつ当番かわかる?」
「雷蔵先輩ならまさに今が当番っすよ。倉庫に方にいるんで解りにくいでしょうけど。あそこは委員以外立ち入り禁止なんで……呼んできましょうか」
「うん、お願い」
「お礼はこれでお願いしまっす!」

 うきうきと銭の形を作って催促する彼に半ばあきれながらごそごそと服の物入れを探る。油断するとすぐこれだ。そこがきり丸らしいともいえるのだが、おちおち物も頼めない。運のいいことに家から送られてきたばかりの飴玉がいくらか入っており、そのうち三つを手渡した。「これで勘弁ね」と言えばやや不服そうな顔をしたものの、ころんころんと転がるそれの感触に満足したらしく、にんまりとした笑顔を見せて奥の方へ駆けていった。たったったと軽やかな音がする。「図書室ではお静かに、ではなかったのかきり丸よ」と心の中で呟く。

「雷蔵先輩ー、先輩が呼んでますよ!」

 がたんと大きな物音がした。きり丸の「あちゃー」という声も同時に聞こえる。積み上がっていた本棚が崩れたのかそれとも台に乗っていた不破が落ちたのか。「大丈夫ですか、雷蔵先輩」と心配する様なきり丸の声がするので不破が何かやらかしたというのは明白だった。 

 しばらくして口元に苦い笑みを浮かべながら不破が出てきた。扉の付近で大人しくしていたの姿が目に入ると、ぱっとその表情が恥ずかしそうな笑みに変わる。緊張を帯びているが、嬉しそうな様子も隠し切れていない。これから断りの文句を口にしようとが考えているとは思っていないのだろうか。いや、可能性の一つとして浮かんではいるもののそれ以上にが答えを告げにやってきてくれたことが喜ばしいといったところであろうか。仄かに赤く染まった顔が視界に入り、ちくりとの数少ない良心が痛んだ。

「ここじゃ人目もあるし、外に行こうか」
「いいの?当番中ならまたあとから出直すけど」
「行ってきてくださいよ、先輩。今は人が少ないし、俺が二人分番してますんで。いやなあに、お代はこれで大丈夫っすから」
「きり丸、今度お汁粉奢るね。ありがとう」

 「奢り」の部分に反応したのかきらんときり丸の目の色が変わる。ぶんぶんと両手を振って送り出してくれた。さすが同じ委員会所属なだけあって、後輩の扱いに長けているようだ。不破は苦い笑みを浮かべながら、くいとの手を引いて外に出た。

 彼が選んだのは、何故だか解らないが先日鉢屋と会話をしたあの桜の木の下だった。因縁めいたものを感じずにはいられない。どうしてが特別だと感じている場所を彼らは敢えて選択したのだろうか。しかし、ここが嫌だとは言えなかった。言う理由がなかったからだ。人も滅多に近寄らなくて、窓といったら二階の図書室しかない。密談するにはもってこいの場所である。が気が付かなかっただけで、結構な人間がここが穴場だと気が付いているのかもしれない。泣き場として使用していた時に鉢合わせたことが無いのがせめてもの救いだ。

 人三人分空いた距離で顔が見えるようお互い向かい合う。言うべきことはもう決めていたはずなのに、変な緊張感がを襲った。

「あのさ」

 ごくん、とつばを飲み込む音が聞こえた。辺りは静寂に包まれていたので余計にそれが大きく響く。その音と同時に彼の緊張を感じ、直前になってまで言うのを躊躇ってしまった。は不破が喜ぶような事は何一つ言ってあげられないのだ。ぎりぎりと心が痛む。中々口を開けずにいると、それを見かねたのだろうか不破が先に口を開いた。

「やっぱり僕とは付き合えない?」

 ざわりとその一瞬だけ木の葉が大きく揺れたように聞こえた。実際は大きな風など吹いてはいなかったのかもしれない。やけにその時だけ葉音がうるさく聞こえた。は「そう」と一言呟いた。普段からはっきりと物事を言う方である自分とは思えないほど小さな声だった。きちんと彼に届いたのだろうかと真っ直ぐ彼の目を見つめれば茫然とまではいかなかったが明らかに動揺したような様子が見て取れた。けれど愕然としているわけではない。ゆるりと口角が上がっていた。仕方がないのかなと言わんばかりの苦笑であった。

「他に好きな人がいる?」
「そういうわけじゃない。今は、勉学に励みたいし恋愛ごとに関心が無いの。返答を待たせてしまって申し訳ないと思ってるけど。ごめんなさい」
「……そう」

 が口にしたのは紛れもなく今まで断りの文句として告げていた事だった。幼い頃から忍になるということを言い聞かされてきたにとって―どこぞのギンギンに忍者していると豪語している先輩の様だが―恋愛は三禁であると何度も言われてきた。実質的に、忍にとってそれが禁忌というわけではないことはわかっている。一はの実技担当教師ように忍でも妻を持っている人は多いし人類の繁栄は必要不可欠な事項だ。では何故禁じているのだろうか。の考え方からすれば、特に若いうちは恋愛ごとに熱をあげて周りが見えなくなり一方的な判断しかできなくなってしまうことも多いからだろうと結論付けている。もちろん、男女の事柄に慣れることは必要なのでそれなりの付き合いは必要だ。ただし、不破は条件に当てはまらない。何故ならば彼は、本気でのことを好いているだろうからだ。

(鉢屋が言いたかった理由とやらがはっきり見えてきた様な気がする)

 一晩じっくり考えて、見えてきたもの。それは、が絶対条件としてあげていた事柄に関連があった。本気の恋愛をしそうにない人物と経験を積まなければならないということだ。お互いそれほど好意や関心がなければ、その人に溺れることはなく冷静に周りを見ることができる。そのため、不破は適合とは言いにくかった。頬を赤く染め、いかにも真っ当に告白してきた彼はの中では最初から相応しくない相手だったのだ。もちろん、この考え方に異議を申し立てる人も多いだろう。がそう考えるだけで、他の忍に強制させようとは思わないし、思えない。ただ、自分は自分の考えで行動する。鉢屋もその辺りのことを懸念してに忠告を与えたのではなかろうかと思う。

 最悪なのは、もそれなりに不破に好意があるということだった。今まで相手側に「嫌だ」と断りをいれるときにこれほど心が痛んだことはないは確実に不破のことを好ましい人だと認識してしまっている。だからこそこうして直接彼を振りにやってきた。もしも、が不破に対してあまり関心を抱いていなければ鉢屋はこのように事前に忠告を行わなかったのかもしれない。

 ここまでの経緯を頭の中で反復していれば、不破がゆっくりと手を差し出してきた。

「恋人になれないなら、忍仲間として、否、友達としてなら付き合ってくれる?」

 は言葉に詰まった。あまりにも前向きな彼の発言に呆れたと言ってもいい。

「嫌だよ。そんな気まずい」
「避けられるよりも友達として傍にいさせて欲しいと僕が願っても駄目かな」

 困ったような、縋るような微笑で尋ねられては、その手を取るしかなかった。それ以外の選択肢がにはなかった。けして無理強いしているわけではないのだが、振ってしまった負い目もあるのだろう、ここでもう一度「いや」とは言えなかった。これぞまさしく惚れた弱みなのだよと心の中のもう一人の自分が呟く。忍耐、と三回唱えて、冷たい彼の手を握りしめた。



    
110316