はらり、と花弁が舞う。部屋の隅から見えるのは、何年もこの場所に存在している桜の木の一部だった。丁度、窓辺の桟のあたりに見てくださいと言わんばかりにぴょんと飛び出している。この窓越しの桜をはとても好んでいた。ここから見る桜でなければ意味がない。そう断言する証明のように春先になるとは毎年ここに足しげく通っていた。桜を眺めている事を悟られたくはないので、誤魔化すために適当な本を手に取りぱらぱらと読みふける振りをする。その代わり人目のないときは堂々と桜を眺め、思う存分心を癒すのであった。 今年もその季節がやってきた。雪がじんわりと溶け始めた三月の末からの足は頻繁に図書室へ向かうようになる。桜というのは満開が良い、見応えがあるとよく言われているが彼女は咲き始めの桜を愛していた。冬は寒そうに地肌を晒して堪えている枝にぽつぽつと白色の蕾が膨らみはじめ、ふわりと桜色の花びらが顔を出す。曰く、その進化過程というのが最も春という季節の訪れを主張し、かつ広めているように感じるのだった。その瞬間というものを一秒足りともの残さず見つめていたいという欲求がをこうして図書館に日々通わせているのである。 がこの桜に出会ったのは、入学して数日も経たない頃であった。今でこそここの生活に慣れ不自由なく学園生活を謳歌しているが、入学した当時は親元から初めて長期的に離れるということでかなりの孤独感を味わっていた。七歳という若さで知り合いもいない子供たちの中にぽいと投げ出されて逞しく最初から生活できる適応能力を持った子供は中にはいることはいるだろうが、恐らく大勢の子供はそうではない。彼女は後者だった。ただ、敢えて人前で泣くということが得意ではなかったので、隠れた泣き場所を探していた。見つけたのが桜の木の下だった。桜には親子で花見に行ったという楽しい思い出が残っている。自然と親と過ごした名残を桜という木に求めていた。何かあったら桜の元へ来て泣いていたが、その内にこの図書室の窓からみた桜がとても美しいと気がついた。それからは、桜を泣き場所にするよりも一種の楽しみとして眺めることが多くなった。 するり、と一冊の本を手に取る。今日は人が多い。格好だけ読書をするように見せかけて、窓側の一番後ろの席を陣取った。ここからだと受付からもほとんど見えないこともわかっている。いつも目を付けられたことがない。だが、今回は異なった。 「その人、好きなの?」 顔を上げて振り返れば、見たことのある人物がそこにたっていた。ふんわりとした笑みを浮かべての返答を待っている。 「いつもこの作者の本読んでるよね。大好きなのかな、と思って」 「……なんで知ってるの」 「図書委員だから。毎日居る人の顔や読んでるものって覚えてしまうんだ」 「気を悪くしたならごめん」と苦笑いをする彼の言葉に対してはっと手にした本を見た。なにげなく手に取っていたのだが、いろは順に整理された本を横から取っていたので同じ作者のものを随分と手にしていたことになる。それに気がつくほど観察されていたという事実に眉を顰めた。彼は悪気が無さそうな穏和な表情を浮かべているが内心はどうだかわからない。は本を閉じて、彼と向き合った。 「不破雷蔵だよね。顔と名前はよく見かける」 「うん、そう。君は、さんだよね」 「でいいよ。同い年だし。……鉢屋っていうおちはないでしょうね?」 「もちろん」 彼は不快な表情も見せずにそう答えた。不破と名乗る男に出会ったらまず確認せねばならないことがある。それは、彼が同一の顔を持った鉢屋三郎であるか否かということだ。は不破とはあまり面識がないのだが、もう一方の鉢屋の方とはかなり実習相手として組んだ経験があるのでじっと彼を観察して鉢屋ではないという主張を信じた。鉢屋が何故不破と同一の顔をしているのかといえば―在り来たりな双子という答えではなく―彼が変装を得意としているが故だった。鉢屋はほとんど入学と同時に不破の変装をするようになった。事情を知らなかった幼い頃は本当に彼が不破の兄弟であったと信じていた者もいたくらいだ。そのように少々鉢屋は侮れない部分もあり、対応するのに注意が必要だが不破はそれほどでもない。 「いつも何をしに図書室に来てるの」 このように、彼も忍のたまごという面で観察力の優れた油断できない要素のある人間ではあるが。確信めいた彼の物言いにふうと息をはいた。言い逃れができる状況ではない。ただ図書委員長である中在家のように怒りや呆れた雰囲気ではなく好奇心の上の問いかけであるということは解ったので追い出されることは無さそうだなと推測を立てた。 「何しに来てると思う?」 「簡単に口は割らないってことか」 面白そうな視線を寄せられる。純粋な好奇心なのかどうかわからなくなってしまった。鉢屋に比べればまだましだろうが、変な人に関心をもたれてしまったと自分の失態を嘆かずにはいられない。なにより不破は表面上は人が良さそうに見えるので笑顔の裏にいらずらな一面を隠していたという事実に少しばかり興ざめしてしまった。鉢屋と同室で暮らしていくにはこれくらいの器量は必要なのかもしれないけれども。は閉じた本を片手に持って、立ち上がった。畳がこすれる音がする。不破が驚いたようにこちらを見上げた。 「帰るの?」 「これ以上関わりたくないし。帰って欲しいから声をかけたのかと思ってたんだけど」 「そういうつもりで声を掛けたわけじゃないよ。ただ気になっただけなんだ。君がいつも何を見ているのか、何しにここに来ているのか……」 尻すぼみに声が小さくなっていく。その内容は一種の告白のようだった。不破自身その自覚があるようでほんのりと顔色が朱色に染まっている。何故彼が自分のような不可解な行動を取っている女に関心を示しているのかはわからないが、妙に心が浮ついた。 「それに、すっごい幸せそうな顔してるから、そんなこと言えないよ」 不破と鉢屋の決定的な違いはその笑顔にあるとその時は感じた。ゆるゆるとした春の暖かさを誘うような微笑みはどれだけ鉢屋が不破の変装をし、常時一緒に行動していうからといって得れるものではない。なによりは鉢屋が不破のような笑顔を浮かべることができるとは到底思えない。照れくさい言葉を恥ずかしがりながらもはっきりと口にした不破には動揺した。表面上は平静を保っているが内心は疑問や羞恥などといった感情が溢れ帰っている。余計にここから逃げ出したくなった。返答に困っているを察したのか不破はちょいと人差し指で手にしていた一冊の本を指した。 「この本。結構面白いから振りだけじゃなくて読んでみるといいと思うよ。もし、もうすでに読んでるのなら余計なお世話かもしれないけど」 ぱらっと本をめくったことがあるので、大凡どのような内容なのかは検討がつくが本格的に読み進めようという意欲がこれまで沸いてこなかった。だから、そのようなつもりはさらさらなかったのだが、そう言われると興味をもってしまうもの。しかし、は元来素直ではないので、ふいと顔を背けて可愛くない言葉を紡いでしまう。可愛さをに求めることこそ、お門違いなのかもしれないけれども。 「気が向いたら」 否定とも肯定とも取れるこの返答は日本の語学文化のある意味において美学であろう。南蛮の異国語を多少なりて嗜んでいるはそのように常日頃思っていた。不破は彼女の気のない返答にでもにこりと優しい笑みを浮かべた。待っているから、とその表情は物語っているようにも見える。 気がついたら夕日が落ちて、うっすらとした闇が辺りを包んでいた。冬より日は長くなっているものの、夏とは比べものにならない。夜桜を楽しむのもまた一興ではあるが、そろそろこの図書室が閉められる時間帯に差し掛かっていた。それもこれも、目の前に座っている彼のせいだ。は恨ましげに不破を一瞥したが、彼は大してその視線を気にせず閉館の準備に勤しんでいた。 |