体を動かすたびに、ちりん、ちりん、と高い鈴の音が鳴り響く。浅い眠りから覚めた私はくあ、と小さく欠伸をした。体をいっぱいに伸ばして、舌と手を使って毛繕いをする。一通り顔を撫でまわしていたら、私が起きたことに気が付いたのかアルミ缶がからからとぶつかり合う音がした。栄養たっぷりのご飯が私専用のお皿に盛りつけられる。かつかつとそれを口に含みながら、いつものように私の主人の帰りを今か今かと待ち続けるのだった。

 私は猫だ。血統書つきの高価なものではない、その辺りを縄張りにしていた野良猫から生まれた一匹の雑種だった。そんな私がこのような不相応な豪華な家になぜやってきたのかといえば、それは生まれて間もない頃にここの執事に拾われたからだ。未熟児で、母親の乳を吸う気力もなかったところを偶然にも発見され、手厚い保護を受けた。それに対しては今でもとても幸運に思っている。もし、あそこで見つけられていなかったら私は今頃こうして呑気にご飯を貪ることもできていなかっただろうし、ぼんやりと空を眺めながらお昼寝を楽しむことだってできずに死んでしまっていただろう。世の中とは偶然の重なり合わせでできているのだなとこのことを思い出すたびに感じる。

 本来なら成長が標準並みになったところで野良としてまた外の世界へ返されるのが自然なのだろうけれど、ここの一人息子であり、今の私の主人である跡部景吾はどうしてだか私を此処に留まらせた。それは彼が動物好きだという点をあげれば決しておかしいことではないのだが、それなら何も私の様な雑種でなくてもよいはずだ。彼ならいくらでも血統書つきのかわいい猫を飼うことができる。それでも彼はそうしようとはしなかった。別に彼の家族の誰かが反対したわけではないが、私の他にこの家にいる動物たちは皆それぞれ正しい血統付きの動物たちばかりなので劣等感を感じてしまう。情が移ったのだろう、と後から私は思った。彼はああ見えて情に弱い。けれど、私は彼がそうであって本当に良かったと思う。だからこそ、私はこうしてここで彼の帰りを待つことを日課の一つとして暮らせているのだから。

 夜の十時を過ぎた頃、彼は堅苦しいスーツのネクタイを緩めながら疲れた表情で帰宅する。私は待ってましたと言わんばかりにドアの音を聞きわけて、ととと、と床を滑るように歩き、彼にすり寄った。ここのところ仕事が忙しいのか帰宅も遅いし、朝出かけるのも早い。眉間の皺がしっかりできていることを心配せずには居られなかった。

「ただいま」
「にゃあ」
「……後で構ってやるから、向こうで遊んでろ」

 すりすりと足に顔をくっつけると、ふわり、と彼の頬が緩み、少し節くれだった手で私の首元を撫でてくれた。ごろごろと喉を鳴らして喜んだのも束の間で、一通り撫でたら満足したのかぱっと手を放してクローゼットの方にいってしまった。私は名残惜しくてそのまま彼の後ろを追いかける。布がこすれ合う音が静かなあたりに響いた。全てを脱ぎ終え、何も纏わない姿になると、彼はそのままシャワールームへと足を運ばせた。とてとて、と私もその跡を追う。しかし、シャワールームのガラス扉の前で彼は行く手を阻むようにくるりと振り返った。

「お前も一緒に入るつもりか?」

 彼はにや、と面白そうな表情をしたので私は「にゃう!」と元気よく返答をした。もちろん、と言っているつもりだった。けれどくつくつ彼は笑うばかりで一向に抱き上げてくれなかった。「また今度な」って、期待させておいて酷い。「その台詞はこの間も聞いたよ」、と抗議をしたが結局閉めだされてしまった。ぴしゃりと豪快に絞められたドアを軽く睨む。ぺたり、とガラスに暫く張り付いてみたが水の音が鳴りやまないので諦めて元々私が座っていたソファに戻った。彼は優しいけれどとても思わせぶりな態度をする。気まぐれなところは私よりも猫みたいだ。何時になったら彼は私と一緒にお風呂に入ってくれるんだろう、と零しながら丸くなった。

 丸くなっていると眠くなるのが通りである。ほどよい眠気と暖かさにうとうとしていると、シャワーからあがってきた彼が私の隣に腰を下ろした。やっと彼に構ってもらえる時がきたのだと動くのも億劫な私は尻尾だけを上手く使って彼の腕をすりすりした。すると彼は私の構ってほしさと億劫さに気が付いたのか軽く笑って、その逞しい腕で私を抱き上げてくれた。風呂上がりの彼の体温は普段よりも一層暖かい。筋肉質な膝の上は居心地がいいとは言えないが、独特のすっきりとした甘さのある彼の匂いを嗅げることが私はとても好きだった。頭を擦りつけるようにして甘えると、撫でるという行為で彼は答えてくれる。今日は持ち帰りの仕事もないのか、パソコンを開くこともなく彼は私の姿をずっと目にいれてくれていた。

「にゃあにゃあ」
「なんだよ」
「にゃあっ」
「随分とはしゃいでるな、今日は」

 大きな声で「嬉しいんだよ」と私は言っているつもりだった。こうやって真っ向から構ってもらえることは実は結構少ない。それだけ彼が多忙だということを意味しているのだけれど、同じペットのガブリエルは毎朝、ジョギング代わりに散歩に連れて行ってもらえるというのだから少し嫉妬していた。相手はゴールデンレトリバーの図体が大きい雄犬なのに。

 暫くそうやって構われ、全身を心行くまで撫でつくされた。気がつけば時計の針は真上を指していた。そろそろ寝るかと彼は立ち上がった。本当はまだ物足りなかったけれど、毎朝、私が起きるよりもずっと早く出勤してしまう彼のことを考えればぐっとその欲望を抑えることは簡単だった。脇腹に鼻を擦りつけて、「ありがとう」の気持ちを込める。

「おやすみ、

 、という名前を呟きながら彼は頬に口付けを落とした。たまにしかやってくれないその行為に猫ながらドキリとする。そして、やはりその名は特別なのだなと感じた。。それは彼が私につけてくれた私の最初で最後の名前だ。日本人らしい名前に最初は私には似つかわしくないと思っていたが、最近ではもうすっかり自分のものになっている。この名前が誰のことを指すのか。元になった人物がいたのか、それは私もよくは知らない。今、この家でと呼ばれるのは私だけだからだ。だけど、彼がその名前を呟くときには、何か別のものを意味しているような感覚がしてならない。このように、おやすみのキスやおはようのキスをしてくれるときは決まってその名を口にしているし、なにより、その名を口にした時だけ彼の表情が切なげに変わるのだった。

 猫だからといって、何も考えていないとは思わないでいただきたい。それだけのことを見抜くくらいの眼力は備わっているのだ。ごろん、とベットに横になった彼の姿を見上げながら私は小さく呟いた。それはきっと彼には「にゃあ」としか聞こえていなかっただろうけれど、私にとっては特別な言葉だ。どれだけ鳴いても伝わらないこの感情を彼に伝えられる日が来ることは決してない。それを悲しいことだと感じる半面、それでもいいのだと感じる自分がいた。こうして、彼の一日一日を間近で見守られる存在であることで私はもう十分満足している。猫だからこそ許される彼の境界に入れることをむしろ誇っている。もう一度、小さく鳴いてくるりと踵を返した。明かりだけが差し込む薄暗い闇の中を悠々と動き回り、自分の寝どこの上で丸くなった。




やり場のない、

喉から漏れるこの声は

101103   ( title by.cathy