先ほどまで出ていた夕日がいつの間にか沈んでしまっている。冬場は、特に太陽の動きを速く感じることが多い。青味がかった夜空をちらりと見上げて、その中にキラキラと小さな星が輝いていることに安心した。星が綺麗に見えるということは、明日も晴れるということだ。天気が良いに越したことはない。雲一つない快晴だったら、ここのところ忙しくて干すことができなかった布団を干してしまおう。頭の中で明日の予定を組みたてながら、夜道を歩いた。 大学に隣接しているスーパーで一人分の晩御飯を買う。コンビニで買うよりもこちらの方が価格はリーズナブルなのでどうしても多用してしまいがちだ。品種が少なくてすぐに飽きてしまうという点は悩みどころだけれども。今日は提出するレポートもないので奮発してお酒でも飲むかなと買ったアルコールが、歩くたびにゆらゆらと私の膝にぴたりと当たる。冷たくて、顔が歪んだ。自宅のマンションのエントランスに入って、ほうと息を吐く。冷たい北風のない締め切られた空間に入るだけで、感じる寒さは激減する。マフラーをくいと一旦持ち上げて、エレベーターを使うには贅沢だとよく言われる、二階の自分の部屋へと急いだ。 分厚いぬくぬくとした手袋を付けているので中々鍵が上手く鞄の中から取り出せない。しぶしぶ手袋をはずして、ひんやりと冷え切った鍵を取り出しドアへと向ける。ガチャリ、といつもと変わらない音がしたが、ドアノブを回すとガツと引っかかり抵抗される。自分は鍵を開けたつもりだったが反対に閉まっていたのだ。もしかして、今朝、鍵を閉め忘れたのかもしれない。一大事にさっと顔が青くなった。中からパタパタという足音が微かに聞こえた。人の気配だ。かちんと身体が固まり、これから出てくるであろう人物が脳裏を掠めて思わず身構えた。部屋荒らしの犯人だったらどうしよう、なんてその時は半ば本気でそう思っていたのである。 「おかえり、」 耳に馴染んだ声に、私は大きく安堵の息を吐いた。「ただいま」とも返さずに、力が抜けたように呆ける私を見て高瀬は首を傾げる。私のリアクションが心底不思議だったようだ。「どうした」なんて聞いてくるけれど、まさか、心の中で想定した一瞬の妄想を彼に伝えられるはずもなく私はただただ首を横に振った。「寒いから早く中に入れて」と言いつつ誤魔化す。そうだ。私の中で唯一、この部屋の出入りを許されている人物のはずなのにどうして真っ先に彼のことを思い浮かべることができなかったのだろう。微妙な感情を抱きつつも靴を脱いで、冷たいフローリングへと足を降ろした。 中に入ってすぐに見える台所からはコンソメスープのいい香りが漂ってきた。コトコトとたった今まで煮込まれていたであろう鍋の蓋を開けると、ふわっとした熱気と湯気が頬を掠める。高瀬がよく好んで食べているロールキャベツだった。好んでいるだけあって作るのがとても上手く、私も高瀬のロールキャベツには太鼓判を押している。「おいしそー」と感嘆すると高瀬は得意げに「だろ」といってコンロの火を再びつけた。内心では、手の込んだものを作って、と自らの料理の腕と比較し悲しくなっていたのだが、それは心の内に留めておくことにする。買ってきたお弁当は明日の朝と昼に分けて食べてしまえばいいだろう。冷蔵庫に押し込むそれを高瀬は横目で見ていた。ビールが転がり出てきたときには「お」と反応していた。自分のために買ってきたものだが、高瀬にさらっと飲まれてしまいそうだ。 自室に入ってコートをクローゼットへ納める。高瀬も私の跡を追う様に中に入ってきた。鍋はいいのかと尋ねたが、残すところは弱火で煮込むだけだそうで私の問いは一蹴された。人の着替える様を見て何が楽しいんだがと思いながらも、するすると脱いでいく。高瀬の前での脱衣に今更恥じらいは感じない。高瀬も思春期の少年のようにチラチラと視線を送るわけでもなく、私の前をするりと通り過ぎた。さも興味ありませんと言いたげにソファに凭れ、ピッと静かだった空間に音を入れた。テレビではゴールデンタイムにありきたりの笑いを誘う番組が放送されている。滑稽なリアクションをするお笑いタレントを見るのは久し振りだなあとなんとなしの感想が頭に浮かんだ。お気に入りのクッションを足と腹の間で挟んでじっとテレビを見ている高瀬に話しかけた。 「今日、練習は休みだったの?」 「そ。講義も五限が休講だったから、基礎トレーニング早めに行って、帰るの待ってた」 「メール入れてくれればよかったのに」 「……あー、めんどくさくて」 めんどくさいなんて嘘だ。高瀬はどちらかというと几帳面な方で、めんどくさがりなのは自分の方。今日だって、折角のオフの日なのだからレポートしたり自室でゆっくりしてればいいと思うのに、わざわざ私の家で晩御飯の支度をしつつ帰りを待ってくれていた。よく見れば晩御飯だけではなく朝の支度でごちゃっとしていた部屋も綺麗に整頓されている。これではどちらが彼女なのかと非難されても文句は言えない。彼の性格なら一報くらい入れてもおかしく無いのになあ、と疑問が浮かんだ。 ピッピッピ、と瞬間的にテレビのチャンネルが入れ替わる。その様子を見て、ポーカーフェイスを装っているが、なにか緊張しているんだなと察することができた。集中できていないのが良い証拠だ。普段の高瀬はこのお笑い番組を気に入っていて、いつも私とは異なるポイントで肩を震わせている。そんな番組が放送されているのに、忙しなくチャンネルを変えるのは私の目から見てもとても不自然な行動だった。たまたま偶然に面白くないだけなのかもしれないけれど、落ち着きがなくそわそわしているのは事実だ。 部屋着に着替え終わり、洗濯物をカゴに押し込むと私はそのまま高瀬の隣に座った。彼は微動だにしない。ちらりと視線だけが私を一瞬捉えて、また真っ直ぐ前を向いてしまった。直視できないということは、やはり何かあるらしい。いよいよ、私の中にも嫌な緊張が生まれ始めた。こういう時に、自ら話題を持ちかけるのが吉なのだろうか。それとも彼が言いだすまで黙って待つべきだろうか。脳内で天秤にかける。私は触れない方を選択した。 「ロールキャベツありがとう」 「おお。……どうせ、自炊なんてしてねえと思ったから」 「私だって偶には作るよ。そんなに滅多にはしないけど」 「偶には、な」 「そこだけ強調しなくていい」 拗ねたように唇と尖らせると、高瀬はくつりと喉を鳴らして笑った。やっと私の方を向いた。大きくて、見た目ほど肌触りのよくない手が髪の毛に触れる。左手の手の平に頬を押しつけて、甘えるような態度を取ってみた。すると高瀬は少しだけ切なそうに眉をひそめた。不安が表に出ているのだろうか、視線が交差したその時にドクリと心臓が飛び跳ねる。 「あのな」 「なに?」 「……ってさ、俺と一緒に居なくても、割と平気そうにしてるよな」 どこか嫌味を含んでいるような言い方。けれど、嫌味よりもどちらかというと悲しさの方が大きいのかもしれない。感情をあまり表情に表さない人間はこういう時、解りづらくて困る。なにも人の喜怒を悟るのに表情だけがその対象となる訳ではないのだが、彼の場合は声も感情を抑えていることが多い。淡々と素っ気なくなりがちで、怒っているのかもしれないという錯覚を起こさせるのだ。だが、触れた手の平は壊れものを扱うかのように優しくて、怒りばかりが彼の内を占めているのではないと確定できた。 「そうかもしれない」 ぎゅっと高瀬の手の平を握りしめる。私と高瀬の付き合いは随分長く、高校時代にまで遡るのだが、大学に入ってから極端に会う機会が減った。それは、双方ともども野球やアルバイトなどで私生活が忙しく、学部が異なる私たちは同じ大学に入ったといえど全く同じ講義を取ることがないということが原因である。電話やメールは間隔を開けずにしていたけれど、実際に積極的に会いたいと私が言いだしたのはほとんど零に近いほどの回数だ。遠距離恋愛をしている者たちからすれば、それほどのことは障害ではない、と呆れられてしまうかもしれない。時間をもっと有効に使えば会うくらいの時間は確保できるはずだ、と言われてしまうかもしれない。けれど私はそれほど高瀬に会う必要性を感じていなかった。 これは、私の感情が薄いからか。彼のことを本気で好いていないがためにこのような余裕が生まれるのだろうか。 「準太は、会えなくて寂しいとか、もっと会いたいとか思ってくれてるんだ」 「そりゃ、当たり前だろ」 「そうか。そうだよねえ」 困ったといわんばかりの表情をしてしまう。どのように説明すれば自らの感情をきちんと彼に伝えることができるのか、その最善の方法は見つからなかった。 なにも会いたくないわけではない。会えるほどの余裕が高瀬にあるのならば、喜んで会いたい。でも、毎日ではなくていい。私生活が疎かになるほど無理もしなくていい。こうやって、たまの高瀬の休みや私の休みに合わせて会う程度で良い。どちらかが今築いている生活を崩すことになってまで、二人の時間を作る、ということは私にとってはナンセンスな話なのだ。それは私の為でもあり、高瀬の為でもあると思っている。好いている者同士ならば、できるだけ顔を合わせて、傍に居て、一緒に過ごしたいものだ、と友人は言うが、私はそれほどの熱い感情を持ちあわせていない。元々、一人の時間を大事にしたい方の人間だ。高瀬はそんな自分が物足りないのかもしれなかった。「準太に会いたいと思ってるけど、メールと電話でも十分なんだよ」と言えば彼は納得がいかないのか軽く舌打ちをしてみせた。行儀が悪い、といつもなら真っ先に指摘していただろうけど、今回は口を挟むどころではなく無言で見送る。不機嫌そうなオーラが本格化してきた。 「それだけで満足なんだ。ふうん。……不安になったりしねえの」 「しないこともない。けど、あんまりしない、かな。準太は不安?」 「そう感じてる事が多い」 繋ぐ手にぎゅっと力が籠った。高瀬と私と、双方の「好き」というバロメーターをなにより実際に会いたいと切望するその感情で彼は測っているらしい。目に見えないものなので、どうしてもそういったもので測りたくなるのは理解できる。けれど、何もそれだけが測定基準ではないだろう。言いかけたところで、高瀬は私の発言の上から言葉を重ねた。耐えられなくなったようだった。 「が俺を好きなのと、俺がを好きなのと、その格差が大きい様に感じて。どうやっても、その差は埋まることが無いんだ、って。それが、すごく、辛い」 弱音を吐く高瀬を見ることは滅多とない。それだけ、彼は思いつめていたのだろう。もしかしたら、私が当に高瀬に愛想をつきてしまったとまで考えたのではないだろうか。否、そこまではいくらなんでも飛躍しすぎだといっても、二人の関係に苦しみや限界を感じているということははっきり理解できた。 「……別れたい?」 「少しだけな」 嫌な予感とはこれだったのか。曝け出された本心に、ツキンと胸が痛んだ。 「私は、そんなの嫌なんだけど」 高瀬からしたら行動と感情が一致していないと不可解に思われるかもしれない。が、私の本音だった。別れたくない。高瀬はふっと表情を和らげた。私が彼に嫌だと縋るだけの気持ちがあるとみて、少しだけほっとしたのかもしれなかった。 「俺も、別れたくはない。だから、恥ずかしいの我慢して、正面から話したんだよ。互いの生活に影響させたくないっていうなら、及ばない範囲で今までより少し、会える時間を増やして欲しい。それと……」 「それと?」 「もっと、求めてほしい」 高瀬は思ったことを素直に告げることが苦手だ。そういう部分があることをもちろん私は知っていた。伊達に高校時代から付き合ってきたわけではない。そして私も自身の淡泊な性格を自覚している。もっと私の方が気を回すべきだったと、ここまで高瀬に言わせてしまったことを今更ながら後悔し、申し訳なく思った。「うん」と頷きながら、赤い顔を隠すように下を見つめる高瀬の肩を思い切り抱きしめる。広い背中いっぱいに腕を伸ばしてようやく両手が繋がった。高瀬の腕も私の肩に回る。ぎゅっと抱きしめてもらえるこの感覚が私はとても好きだ。高瀬はもっと求めてほしいというが、私からすればもう十分求めて、高瀬から返してもらっているのである。隙間を埋めるようにぎゅうぎゅう抱き合いながらそう考えていた。 「……一緒に暮らせたら、嫌ってほど顔合わせられるだろうになあ」 「え」 ぽつりと口にした言葉を聞いて、ぴしりと身体を硬直させた。高瀬は腕の中で固まってしまった私を意外そうに見下ろした。「駄目?」と問われて「駄目じゃないけど」と恐る恐る返答する。どちらともなく見つめ合って、大きく息を吐きだした。寮生活が義務付けられている高瀬の身では、到底無理な話だし、私も学生の内から同棲をすることを望んでいるわけではない。だが、大学を卒業して社会人として働けるようになったその時には。なんて、甘い考えが互いの脳に浮かんだのは確かだった。 110920 |