08


 基礎的な運動能力は低下していたが、幼いころから培ってきた努力という才能を跡部はリハビリでも存分に発揮していた。精神力が人一倍高く、また粘り強い跡部の姿勢はリハビリで与えられる過程を着々とこなしていった。時には跡部の方が焦りすぎて、ストップを掛けられることだってあった。その裏にはもちろん、ゆずや大貴という小さな子どもたちの応援もあってのこと。どんな時でも適切な処置をしてくれる医師や看護師がここには存在し、ストレスや苛立ちにそれほど悩まされることなく、療養を続けていくことができる。そのような場に居れたというのはこの上ない幸運であろう。
 ただ一つ、困ったことがあるとすれば、日に日に跡部が元の生活をするようになるにつれて、ゆずの表情が浮かばれなくなっているという事実だった。小さい頃から病院に出入りしているだけあって、療養に来ている患者が完治すればこの村から出て行くことを彼女はよく知っていた。怪我が全快することを喜ばないわけではない、けれど跡部が去ってしまった時のことを考えると寂しい。ゆずの表情にはそれが十分すぎるほど表れていた。感情を誤魔化しきれないのは、この年代の子どもの精神を考えると普通のことではある。跡部は見て見ぬふりをしていたが内心はとても居た堪れない気持ちになっていた。彼女がなんと引きとめたところで跡部は東京に戻らねばならない。仕事や、東京にある実家が跡部をそうさせていた。いつまでもここで暇を持て余す感覚で燻ってはいられないのだ。

 こちらの冬は長かった。降り積もる雪は止まることを知らず、白粉を塗した山々はいつ見ても変わりがなかった。初めてこの場に来た時は赤が目立つ紅葉だったというのに、最近はその見事な色彩を思い出せずにいる。きい、とドアが鳴った。来た時とは異なり、自由に動ける手足を使って―それでも若干動きは遅かったけれど―荷支度を整えていた跡部は振り返った。病院服とは異なるきちっとしたスーツを着て、跡部は子どもたちを迎え入れた。
「ほら、ちゃんとお別れの挨拶するっていったろ」
 大貴の後ろに隠れていた小さな女の子は、中々顔を見せようとはしなかった。兄の文句をも拒否するようにぎゅっと服を握りしめて離さない。跡部は軽く息を吐いて、自らドアの方へ近づいた。大貴と視線が合い、彼も困ったようなどこか呆れたような視線を跡部に投げつけた。それは、こんなにもゆずに好意を持たれている跡部を羨んでいるかのようでもあった。跡部が一歩ずつ近づくほど、ゆずは及び腰になる。しかし、しがみ付いている大貴はそこから頑として動こうとしなかったので、最終的にゆずが盾を放置して走り出すか観念して跡部の前に姿を現すかの選択を迫られた。跡部が目の前まで来る、その寸前で駆け出そうとしたゆず。跡部は苦く笑って彼女の小さな腕を掴む。彼女の瞳は泣きそうに潤んでいた。今にもその大きな目から涙がこぼれ落ちそうだった。
「俺が自由に歩けるようになったこと、喜んでくれないのか」
 跡部がそう言えば、ゆずは懸命に首を横に振った。酷な質問だったかと発言した後に思う。指を目元に添えて、溢れる雫を拭った。
「二度と会えないわけじゃないんだから、そんなに泣くな。俺も会いにくるし、お前らも東京まで遊びに来ればいい。案内だっていくらでもしてやる」
「……うん」
 それでも悲しいものは悲しい、とゆずの表情は物語っていた。そこへ、リハビリ器具を車に積める作業をしていたが跡部の部屋と戻ってきた。ほとんど泣きかけのゆずにしょうがないなと笑いながら、は彼女の頭をゆっくり撫でた。ゆずが泣いているのはとの別れも重なっている。は元々跡部の看護のために東京の病院から派遣された看護師だったので、跡部と共に東京へ戻らなければならなかった。大好きな二人が同時にこの場から去ってしまう。それが一層別れに対する負の感情を大きくしていた。
「ばいばいじゃなくて、またな、だ」
 その負の感情を掻き消すように跡部はもまたゆずの頭を撫でた。彼女は歯を食いしばりながらそれを受け入れていた。大貴も跡部も目が合って苦笑いである。しばらくその涙は乾くことが無いだろう、と一見自惚れのように聞こえる台詞だがそう思っていた。

 ぐずぐずと鼻を鳴らしているゆずと彼女をずっと宥める大貴の二人と長い時間を掛けて別れた。「嫌だ」なんて口にせずに無言でぽろぽろと涙を流すのだからそれがどうにもいじらしく、中々離れられなかった。それは跡部だけでなくも同様で、こっそりと目を赤くさせていたことを跡部は知っている。もちろん、いたずら心に駆られてその話題を振ることもできたのだが、跡部はそうしなかった。跡部も跡部で感傷に浸っていたのだ。
 広い跡部家の車の後部座席に並んで座る。窓からは既に白い山々は消え去り、葉のない枝ばかりが並んでいた。車内はとても静かだった。その静寂をおもむろに壊したのは跡部だった。
「これからどうするんだ」
 は突然話しかけられたことにびくりと肩を震わせた。怪しげに跡部の方へ向き直る。赤く染まっていた瞳はもういつもののどかさを取り戻していた。
「……どうするとは?」
「東京にそのまま居座るのか、田舎へ戻るのか」
「お祖母ちゃん、やっぱり跡部さんに余計な事言ったんですね」
 跡部は「そんなに詳しくは聞いていない」と下手な言い訳をした。分の悪さを誤魔化すように、もう一度同じ質問を繰り返す。は「まあいいですけど」と少し間をおいて、跡部の問いに答えた。
「とりあえずは東京での事情もありますから居座ります。けど、先のことはわかりませんね」
「そうか」
「……何か」
「いや、別に」
 跡部の切り返しに聊か疑問を抱いたのか、は訝しげな目を彼に向けた。その視線から逃れるように口元を手で隠したが、それはもう後の祭りだった。緩んだ口の動きを完全に見られていた。
「跡部さん、少しほっとしてます?」
「……ああ」
「どうしてか、なんて聞くのは野暮でしょうか」
「そうだな。なにより、理由が解らないほど鈍くないだろ」
「ええ、まあ」
 は驚きを隠すように口元に手を当てた。少なくともが跡部が言いたい事をきちんと理解しているとみて間違いはない。彼女はゆずのように丸く目を見開いて、跡部の顔を凝視していた。こういう場合、少しは恥ずかしがって顔を逸らすかどうかするものじゃなんだろうかと考えたが、に恥じらいという言葉は似合わないなと後から考え直した。「嘘じゃないですか」とその瞳が訴えている。しかし、紛れもない真実だった。彼女の隣に居ることはとても着心地がいいと跡部は入院途中から既に感じ始めていた。あと数日でそれが終わってしまうのは事実で、確かに望んでいたことではあったが、一方で胸に穴が開いた様な空虚感がじりじりと湧き出ている。彼女との出会いをこの場限りで終わらせたくないという欲求が沸いてきたのはそこからだ。これを好いていると表現しないでなんというのだろう。
 しかしながら―。
「もう少しましなリアクションはできないのか」
「そういわれましても……意外としかいいようがないですしね。跡部さんが、私を、ねえ」
 ぱちぱちと瞬きを繰り返して、口先で幾度か同じような事を繰り返した。どうしてが何度も意外だと呟くのかそのことを跡部は理解しかねたが―は全くもって器量が悪いというわけではなく、不思議がる理由がわからないのだ―彼女曰く、入院期間中にそのような好意を感じたことがちっとも無いそうだ。それどころか嫌われていると思っていたと語る。
「確かに当初はそのような態度を取ったかもしれないが、後半は変わっただろう」
「ほんの少しだけです。……目付きが怖すぎて解らないんですよ」
 後半はほとんど独り言に近かったが、もちろん跡部の耳にしっかりと届いた。動かせるようになった右手で、の頬を軽くつねる。は少し眉を寄せて不服そうな表情をしたが、触れた手が右手であったが故か何も言わなかった。このようなスキンシップを跡部が誰にでも取るかといえばけしてそんなことはない。こうして気軽な行為が行えるということは、跡部がそれだけ心を開いているということである。なにより、あの一歩間違えれば牢獄のような退屈な時間を暖かく失い難いものとしたのは、彼女や子どもたちが居たからだ。その辺りを彼女は解っていないのだろう。跡部が口にしていないので、わかるわけがないのは最もな話だけれど。乾燥している肌をやんわりと指で撫でていると、それをくすぐったく思ったのかは手の動きを静止させるよう跡部の右手を握った。
「でも、私、大して跡部さんのこと意識してませんでした」
 あまりにもきっぱりとした清々しい言い草に思わず跡部は言葉を無くした。突然、本題をさらりと告げるのだから無理もない。なにより、その返答がノーに近しいものだったので思考が追い付かなくなるのは当然といえた。自分の動揺をあざ笑うかのように、は不敵な表情を浮かべる。
「だから、これから惚れさせてください。跡部景吾という人がどのような人か、知りたいです。私は入院中の貴方しか知りませんから」
 は悪戯っぽく目を細めた。試されているような雰囲気もある。跡部は低く笑い返し、受けて立つという旨の返答を返した。この茶目っ気はなんとも彼女らしかった。聞こえ方によっては自尊心が高すぎる女のようにも思えるが、けしてそんなことはない。むしろ手に入りそうなほどふわふわしているのに簡単には靡かず跡部を退屈させない舞う花弁の様な印象を受ける。そこがまた跡部の男心を魅了した。
「とりあえず、双方の仕事が落ち着いたら一緒に子どもたちに会いに戻りませんか」
「デートってか」
「どちらかというと子守になりそうですけど」
 確かに、と跡部は苦く頬を緩ませながら別れ際のゆずの姿を思い出していた。あれだけ最後に泣き疲れたのだから跡部としても二人の子どものことが気がかりだった。恐らくかなりの時間は開くだろうが、会いに行きたいとは思っている。否、もしもこれからとの関係が長引くことになるならばその回数は格段に増えていくだろう。完治した身体でゆずと大貴のテニスのコーチをしてやるのもまたいい。自然と跡部の口元が緩んだことには気が付いたのか、ふふと小さな声を零して彼女のまた目を細めた。穏やかな空気が流れる。跡部の手がの白い指に触れた。彼女の手は女性にしては珍しく、とても暖かかった。
 車は変わらぬスピードで東京を目指して走り続ける。跡部は柄にもなくこの車が永遠に目的に着かなければいいのにと思いながら変わりゆく窓の景色を眺めていた。

END
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