05


 「お客さまですよ」、とそう言われて視界に入ってきた二人の人物に驚きを隠せなかった。そこにいたのは一つ年下の後輩、鳳と日吉で、二人とも手には見舞いの品であろう花と果物を抱えていた。何故跡部が驚いたかといえば、ここが東京とは少し離れており社会に働きに出ている知り合いが気軽に見舞えるような距離ではないということがあげられる。また、こういうときにやってくるのは大概が忍足であるという先入観の様なものが跡部にはあった。忍足はそういった事―誰かを身まったり、こまめに連絡を取ったりする事―に意外と律儀で、何かしら頻繁に顔を見せることが多いのである。鳳はまだ不思議ではない。彼も忍足と同じくらい律儀で、心配性な面がある。疑問に思うのは日吉だ。卒業以来、幾度か元のテニス部メンバーで集まってテニスをしたが、日吉は滅多に顔を見ることが無かった。最後にあってから5年くらい経ってるのではないだろうか。昔から付き合いが良いとは言い切れなかったので大して気にしていなかったが、そうなると今なぜ彼がこんなところにいるかその理由がわからない。不審そうな目で日吉を見ていると彼は小さくこほんと咳をした。「入っても」と問われる。跡部は軽く頷いた。
「お久しぶりです、跡部先輩」
 苦い笑いを浮かべた鳳が少し淀んだ雰囲気をフォローするように声をかける。跡部は、「ああ」と短く相槌を打った。しかし、どうしても視線は日吉を追っていた。彼も跡部が自分を意識していることを自覚していたようで、すぐさまばちりと目が合った。
「どうして日吉がここにいる?」
「忍足さんに頼まれたんです。自発的に訪れようと思ったわけではありません」
「変わってねえな、その減らず口」
 素っ気なく日吉が返した言葉に跡部は苦く笑った。本意ではなく、無理やりやってきましたという言葉は昔を思い起こさせる。自分が知っているころと変わらない姿だ。挑戦的に返してくる日吉の態度さえ懐かしく感じて思わず顔に笑みが広がっていた。不思議な沈黙が辺りを包んだ。その雰囲気を壊すように―否、むしろタイミング良く―2人の合間からそそくさとが駆け寄ってくる。「よかったら座ってください」、なんて普通は患者が言うべき台詞を横取りしながら彼女は彼らに微笑みかけた。日吉の第一声に当初は幾分か戸惑った表情を浮かべていただったが、跡部の返した皮肉がかった笑みにこれがいつもの彼らのやり取りなのだと悟ったようだ。また面白い人を連れて来てくれましたねと言わんばかりに微笑んでいた。
「跡部さんは紅茶ですよね。お二人はどうされます?」
「えっと。……俺も紅茶で」
「俺は珈琲でお願いします」
「はい、わかりました。花束もあとで花瓶に移し変えますのでお預かりしてもよろしいですか?」
「お願いします」
 気を利かせたのだろう、鳳から花束を受け取って彼女自身のことでもないのに嬉しそうにしながら部屋から出て行った。自分がいてはそこまで入り込んだ話ができないとわかっているようだ。幾分か当たっているがそれを察してしまったときの跡部の心境は少しだけ複雑だった。どうも、彼女には自分の内心が零れ伝わっているらしい。パタンとドアが閉まったあとに一瞬間ができる。それを打ち破ったのは日吉だった。
「……怪我の方は、どうなんですか」
「ただの骨折だ。脳に異常もない。直にくっついて復帰できるだと」
 自然と3人の視線が真っ白い包帯に落ちる。真新しい純白の白ほど痛々しく見えることは無い。しかし、跡部自身は多少の不便さやふとしたときに感じる痛みはあるものの、他はいたって健康状態だと思っており、むしろこの空白な時間こそが苦痛だった。そう笑みを含んで返したら、なるほど跡部らしい、と鳳と日吉は同じことを思ったのかこくりと一つ頷いた。
「交通事故があったと連絡が入ったときはすごく驚きました。……知ってましたか。あの日、実はみんな跡部さんが運ばれた病院まで集まったんですよ。脳にも命にも大事が無いとわかってほっとしましたけど」
 事故当時のことを回想しながら述べているのか、悲痛な面持ちをしていた。あの日、元レギュラー全員が病院に集まっていたという事実は跡部は初めて聞いた。何分、事故当時は安静状態が続いたのだ。彼らもそれほど長く跡部に付きっきりでいられるわけがないし、意識が戻る前に引き上げたのだと鳳はくしゃと顔を歪めて語った。意識を失っていた時間というのは跡部にとっては一瞬のことでどれだけ意識を失っていたかと後から聞いても何も感じなかった。けれども彼らにとっては非常に長い時間だったようだ。「無茶なことをしましたね」と小言を言う鳳に「しょうがないだろう」という意味を込めて深く息を吐きだした。その時、隣の日吉がすっと手を跡部に向けた。
「これを」
 差し出されたのは一枚の封筒だった。幼い字で、あとべけいごさんへと書かれている。跡部はそれを左手で受け取った。差出人は考えるまでもなくわかった。跡部が身を呈して助けた幼い女の子からだ。事故以来、彼女とは顔を合わせていない。跡部が彼女の無事を知ったのは随分と後になってからだった。彼女の両親は幾度か跡部の元へ―それもわざわざこのような辺境まで―足を運んでくれている。だが、少女の方は跡部同様足を骨折しており―脳など、他の外傷はなかったのだが―とてもではないが跡部に会える様な状況ではないそうだ。まだ幼い5歳の女の子なら尚更である。そんな彼女からの思いもよらぬ手紙に、驚きを隠せなかった。辛うじて読める字に微笑を浮かべ、封を切る。
「ありがとう、か」
 そこには大きな字と色とりどりのクレヨンで色彩豊かに書かれた文字が並べられていた。感謝の言葉と、病院の外から見える花壇と自分のイラストだった。思いもよらぬプレゼントを考え深く眺めていると日吉が珍しく口を挟んだ。
「失礼ですが、この子とお知り合いだったんですか」
「……どうしてそう思う?」
「あの状況下で道路に飛び出すには反射ではなく、明確な意思が必要だったと思うからです」
 人ごみの少ない交差点に一人飛び出した少女を迫ってきた車から助けるのは反射的な行動ではできない。庇い立てるなんて、できやしない。もしもそれが身内であったならまだしも、見ず知らずの子どもを助けるために自分の身を投げだせるほど、跡部はお人よしではないと日吉は考えているのだろう。わからないでもない疑問だった。跡部は広げた画用紙を元に戻して、日吉に向き合った。
「昔、付き合っていた彼女の子どもだったんだ」
 鳳は焦ったように彼ら2人を交互に見返した。これはあまりにも踏み入りすぎた話ではないのだろうかと考えたのだ。だが、跡部はいつか誰かに問われるだろうと事前に覚悟をしていたので別段取り乱したりはしなかった。むしろ積極的に口を開いているくらいなのだから、誰かに話してもいいと、否、話したいとすら思っている。
「未練があるわけじゃないが、昔はそれなりに大切にしたいと思ってた。だから、自然と動いたんだろうな」
 跡部と彼女は大学時代かなり仲の良いカップルであった。双方とも中高一貫制の学校、氷帝出身であっため知り合い歴が長くお互いの理解も深かった。順調に付き合っていたし周囲にも有名であったと思う。しかし将来を共にするまでには至らず、相手の浮気とこちらの浮気が重なったことにより事実上の自然消滅になったわけなのである。どういう運の巡り合わせかはわからないが、あの日、彼女の後姿を見つけてしまった。傍らに子どもが寄り添い、幸せに暮らしているんだなと少し懐かしく思った矢先に子どもの不注意による飛び出しで衝突事故が起こったのである。助けたい等といった明確な意思が跡部にあったかどうかそれはもはやよく解らない。ただ体が動いてしまったのは付き合っていた当時の「彼女を守ってやらなければ」という気持ちが自分の中に残っていたからなのではないかと今になっては思う。
「助けられて良かった」
 届いた手紙に目を通して、跡部は一つそう零した。2ヶ月のベットでの監禁生活ほど無駄な時間はないと思ったが、この手紙を読んだらどうでもよくなってしまった。その時、穏やかな雰囲気を壊すようにバタンと大きな音で扉が開き、跡部にとっては見慣れた少女が部屋に飛び込んできた。
「けーにい、こんにちは!……あれ、お客さま?」
 ゆずは見知らぬ大人の男に対して大きな目をぱちぱちとして彼らを見つめていたが、すぐにぺこりとお辞儀をして微笑み返した。跡部はそのかわいらしい様子に戸惑っている彼ら―特に日吉―に苦笑して助け舟をだすように声をかける。
「ゆず、少し別のところ行ってろ」
「うん。裏庭にいるから終わったら呼んでね!」
 ぱたぱたと冬だというのに短いスカートを揺らして去っていったゆずを見送っていると、隣の日吉から鋭い視線が突き刺さった。
「……これはこれは。隠し子がいたなんて。子どもを助けたくもなりますよね。納得しました」
「何勝手なことを言ってんだ。あいつはこの医者の娘だ」
「そ、そうですよね!ああ、びっくりした」
 鳳はほっとしたように肩を大きく動かしてはあと溜息をついた。どうやら彼も日吉と同じ疑問を浮かべていたらしい。ギロリと二人を睨み返そうと思ったがそのような暇もなく、もう一度大きくバタンとドアが開く音がした。駆けこんできたのは、大貴だった。どうやら今日は仲良く兄妹揃っての登場らしい。競争でもしていたのであろうか。
「けーにい、こんちは。ゆずきてる?……ってああ、お客さんか」
「裏庭だ」
「ごめん、邪魔した。またあとで改めて顔出しにくるから、お菓子残しといて」
「わかったから。さっさといけ」
 目敏い大貴はこれから運ばれてくるだろう茶菓子のことをしっかりと頭にインプットしていた。跡部は苦笑いをしながらも了解したように手をひらひらと振ってゆずを追いかけるよう促した。立て続けに起こった出来事に2人はぽかんと呆気にとられていた。特に日吉は言葉もでないようである。何時間に彼はこれほど幼い子供に懐かれるようになってしまったのだろうか、とそう考えていることが丸分かりな表情をしていた。彼の目がくりっと大きく見開かれているのは珍しいことこの上ない。
「跡部先輩って意外と、子供に好かれるんですね」
「……」
「へえ。まんざらでもない、と」
 跡部はそれに答えなかった。わざわざ答えるまでも無かったからだ。
「そういえばさっきの子、テニスラケット持ってましたね」
 近頃、二人が跡部の家に駆け込んでくるのはテニスを教えてもらいたいがために変わっていた。だから今日もゆずは裏庭で跡部たちの話が終わるまで素ぶりをしているに違いない。元テニス部員だけあり、一瞬顔を覗かせた二人が双方ともテニスラケットを背負っていると気が付いたのはさすがといえる。懐かしがっている鳳に対して、ふと跡部は問いかけた。
「お前ら、最近テニスしてるか?」
「やりたい気持ちはあるんですけど。仕事が忙しくて、できてないです」
「俺もそうです」
 だろうな、と跡部は思った。自分も全く一緒だ。社会人としてそれぞれ重要な役割を担うために、多くの時間を仕事に割かねばならない。昔のように自分の好きな事を思うがままやれるわけではなかった。更に新入社員として入ってきてようやく5、6年経った自分たちは、これからが本格的に仕事に没頭していかなければならない時期なのである。ますますテニスに割く時間を作るというのが難しい。
「……跡部さんの怪我が治って東京に戻ってきたら、集まってテニスしたいですね」
 少し考えを巡らせた後、鳳は笑みを顔いっぱいに浮かべてそう告げた。日吉にもちらりと視線を寄せて意思を問うている。もちろん、素直でない日吉が簡単に頷くわけでもなくポツリと学生時代の口癖を呟いて跡部の目を射抜いた。その姿に過去の時代を思い出し、胸がざわついた。東京に戻る時が仕事の都合だけでなく、また別の意味で待ち遠しくなった。

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