04


 数日後、むっつりと眉間に皺を寄せた大貴が跡部の元へ単身で乗り込んできた。
「今日も独りか」
 次は大貴かと呆れたように息をつくと、敵意ある視線を跡部に向けられた。こちらもどうやらご機嫌が良くないらしい。いつから自分は子どもの機嫌取りをするようになったのだろうか。どちらにしてもゆずよりは年齢が上で、兄という自覚があるぶん大貴ははっきりと跡部に対して言論をすることができるようで、促すまでも無く室内に入り口を開いた。
「余計な事すんな」
 このような言葉を跡部の部下が吐こうものならばきっと次の日には東京湾に浮かんでいることだろう。それほど強気な台詞を大貴は口にしていた。それがどれほどのことを意味するのかもちろんわかってはいないようだ。ぎらりとした目が苛立たしさを訴えている。跡部は口元をゆるりと上げて、彼の怒りを助長するような態度を取った。
「余計な事とは?」
 思いつかないと言わんばかりの、からかいを含んだ曖昧な回答に大貴はぎりと唇を噛んだ。そして、はっきりと何に対して不快感を覚えているのか言葉にした。
「ゆずにテニス教えたの、あんただろ」
「いけなかったか」
 反射的に跡部は答える。どうして大貴がそれほどまでに怒っているのか、その確固たる理由になんとなく気が付いていた。似たもの同士の兄妹のことだ、考えることも一緒だろうと思ってしまうのだ。―くすり、と頬を歪めた跡部に対して噛みつくように大貴は言った。ゆずが跡部に向かって吐き出した大貴への不満と同じような事を告げた。ゆずとは異なり、駄々をこね、友人がいない寂しさを曝け出す様な感じではない。敵意はむしろ跡部に対してだった。たった一人の妹が始めてまだ数日しか経っていない様なテニスに心を奪われて相手をしてくれないのが堪えているようだ。自分も同じような事をゆずに対してしているくせに、とは跡部は言わなかった。大貴はそれほどのことがわからないくらい小さな子どもではない。解っている、その上での矛盾した気持ちを跡部にぶつけているのだろう。赤の他人だと到底できない行為である。大貴の中で跡部がどれだけ許されているのか―テニスを教えた張本人であるということももちろんだが―それが態度に表れているようで可笑しくて自然と口元がゆるんでしまった。散々自分の感情を吐露した大貴は肩で息を吐き、すっと椅子に座り込んだ。怒ることは体力を消耗する。顔には疲れも滲んでいた。そんな大貴を一瞥して、跡部はこうつぶやく。
「お前もテニスやればいいだろうが」
「はあ?」
 背もたれに身体を預けて天井を仰いでいた大貴が驚いたように視線を戻した。何を言っているんだこいつはと言わんばかりの表情だった。片眉がひくりと持ちあがり、奇妙そうな顔つきをしている。
「俺がテニス始めて、どうするんだよ。野球だって練習あるのに」
「少しでいい。打てるようになると、ゆずの相手もできるようになるぜ?ゆずがテニスに時間を割くのが嫌なら、お前も一緒に楽しめるようになればいいだろ。俺が直々にコーチしてやるよ」
「怪我も治ってないのに、何いってんだよ」
 確かに今の格好では直接腕を振って、足を動かして教えてやることはできない。だが、車いすに乗って散歩をすることは許されている跡部は―多少、の手に負担が掛ることになるが―遠目から眺めて指摘することはできる。自ら振って手本を見せてやれないもどかしさは大きいだろうが、他人の欠点や動きを観察しそれを分析して忠告をしてやるという行為を彼が部長であった頃は日常的に行っていたのでできないというわけではない。なにより、小さい子どもにテニスの楽しさを教えるのは面白い。これ以上ない暇つぶしになる。跡部はテニスがとても好きなのだ。今更ながら改めてその事実を自覚する。跡部がテニスを語る時の目を見てか、大貴は首を傾げて問いかけた。
「ゆずにテニスを取られたと考え、不満を言いに来た。だが、それじゃ根本的に不満を解消はできない。なら、一緒に楽しめるようになればいい。疎外感は幾分か消えるだろ」
「そう簡単なことじゃないと思うんだけど」
 しかし半ばやる気になっているであろうということが次の言動から伺えた。
「……けーにい、強いのか?」
「もちろん」
 誰に言っている、と跡部は大貴に対して言い返した。過去の自分の姿をしらない大貴にはいまいちその姿がぴんとこないようで、首を傾げて怪しげな視線を跡部に投げつけている。かくいう自分も既にテニスの経験が―過去―になってしまっていることに驚いていた。握っていないラケットの感触、ボールを打つたびに身体に沁みつく音、それが過去の遺物となってしまっている。
「楽しいぜ、テニスは。なんせ、俺が昔から嵌ってるもんだからな」
「野球だって楽しい」
 大貴は間髪を入れずにそう答えた。少しむきになっているのがその表情から伺える。言い返す大貴の丸坊主を包帯で固定されていない方の手で撫でてやった。根本的にスポーツが嫌いではない跡部は「そうだな」とゆっくりと頷いた。
「野球したことあんの?」
「いや、あまりない」
「……なんだよ。知った口聞くなよ」
「でもゆずが嫉妬するくらい、大貴が野球に惚れこんでるということは知ってる。そんなに夢中になれるほど野球が楽しいんだろ」
「ゆずが嫉妬?」
 意外そうに問い返す大貴に驚いた。てっきり跡部は大貴に対してもあのような感情を吐きだしているのかと思っていた。うるうると瞳を濡らして、くしゃくしゃに顔を歪めて泣いていた日のことを思い出す。大貴が野球をすごく好いていて、努力していることをあの小さな女の子はきちんと理解しているのだ。そして、自らの不満を彼にぶつけないようにしていた。なるほど、今まで誰にも言えなかったからこそあのような泣きじゃくりぶりだったのかと一瞬納得する。が、しかし、先ほどの言葉は失言だった。ゆずはきっと大貴にだけは気が付かれたくなかっただろう。感情的になりすぎたせいか口止めをするのを忘れてしまっていたというのはゆずの落ち度ではあるが、そういう配慮も忘れて口にしてしまった自分も悪い。「聞かなかったことにしてくれ」と言ったところで目の前の妹思いの彼が納得してくれるはずもなく、跡部は一つ溜息をついてこういった。
「ゆずもお前と同じ気持ちだったってことだ」
 「理解できるだろ」と言いながら大貴の表情を伺えばあれほど表にしていた不快感や嫉妬心が跡形もなく消え去っていたのがわかった。現金な奴だと小さく呟けばほんのりと顔を赤くして、それでもまんざらでもない様に大貴は笑っていた。これは将来ゆずと付き合う様になる男は大変な苦労を強いられるだろうと聊か仲が良すぎる兄妹の行く末をその時ばかりは懸念していた。

 index 
110420