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02
「はい、お終い」
血管がつまらない程度にきちっと硬く絞められた包帯の上に軽くポンと彼女の手が触れる。跡部はその様を眺めながら四肢の半分以上が満足に使えないということがこんなにも不便なものなのか、と改めて実感していた。実際に体験してみないと本当の辛さはわからないとはよく言ったものだ。暫く自身の足で立ち上がることもできず、物を食べるにしても利き手ではない左手では上手くスプーンすら使えないので食べさせてもらう始末。今だって本来なら運動部の部員らしく包帯を巻くことぐらい自らで行えたというのに、それすらできていない。きちんと巻けたことに満足そうな笑みを浮かべたは「きつくないですか」と問いかけた。その問いに跡部は無言で首を縦に振った。
「何時になったら外れるんだ」
「んと、そうですね。骨が完全にくっついたらですから。早くて1ヵ月後、ですか」
「その後からリハビリもあるんだろ。東京に戻れるのは実質どの程度先になる?」
「1月までには完全に復活できるかと思いますよ」
今はまだ11月の半ばだ。そんなに時間が掛かるのかと軽く眩暈を起こしそうになった。もう既にここの生活には飽き飽きしている。これ以上このような生活が続くと思うとため息を零さずにはいられなかった。苛立ちの感情を察したのか、彼女は少し困ったような表情を見せる。
「そんなに早く東京に帰りたいですか?」
「当たり前だ。仕事、途中でほっぽり投げてきちまったからな」
本音を言ってしまえば仕事だけではない。この田舎独自のゆったりと時間が過ぎていく感覚がどうも跡部は苦手だった。幼い頃から時間をフル活用したタイムテーブルの中で暮らしてきたせいだろう、時が余っていることにどうしようもない違和感を覚える。それに、暇すぎる時間は脳が勝手に過去のことを掘り起こしてしまうのだ。段々と散っていき衣を剥がれた冬の木を眺めながら、這い上がってくる記憶。あながち彼女が以前言っていた言葉、「景色をぼんやり眺めていると過去が自然と浮かびがってくる」、というのは間違ってはいないかもしれない。一度も訪れたことが無いというのにどこかこの風景には懐かしいものがあった。
黙ったままもう冬もすぐそこに迫った野山を見つめる跡部に視線を寄せてくすり、とは気づかれないように笑みを零した。初めてあったときはそれはそれは気難しい人なんだろうなんてことばかり思っていたのだけれど、実際に言葉を交わしてみると意外と興味深い人だな、と印象が変わった。今も、そうだ。この間はつまらないなんて言っていたけれど、彼は自分も気が付かないのか眼に見えて窓の外から見える風景を眺めることが多くなった。きっと観点はとは全く違うのだろう。あれは景色を楽しんでいるというよりも、大きくて壮大な緑や青の眼に優しいカラーを瞳に映しながらその奥にある何かを思い出しているようだった。もカチャカチャと包帯道具を納めながらちらりと視線の隅で窓の外を垣間見た。
「……おい」
「はい、なんですか」
「窓から入ってくる奴がいるんだが」
「窓から入ってくる奴?」と跡部が言った言葉を復唱しながらは窓を覗き込んだ。すると大きな門を乗り越えて入ってくる子どもの姿が2つ見えた。たたた、と泥棒さながらのすばやい身のこなしでこちらへ向ってくる。小さいむにむにとした体が窓に張り付いてひょい、とあっという間に跡部のいる部屋に侵入してきた。まるで野猿だ。跡部は信じられないような目で2人の子どもを見下ろしていた。一方のは別段驚いた様子もなくむしろ顔を明るくさせて慌てて窓のほうへ駆け寄った。
「大貴くん、ゆずちゃん!」
「……知り合いか?」
「ええ、主治医の先生のお子さんですよ。かわいいでしょう」
大貴、ゆずと呼ばれた兄妹はどこで覚えたのか片手をぱっと鼻くらいの位置に挙げて、「よ!」、と随分可愛げのない挨拶をした。その後、見慣れない人物が寝ていることに気が付いたのだろう、くりくりとした大きな目で跡部を突き刺すようにじいと眺め始めた。いかにも興味津々といった純粋な瞳に、一瞬たじろぐ。滅多にこんな幼い子と触れ合う機会がないからか、対処に困ってしまうのであった。しかしながら、子どもたちの方に戸惑いという言葉は存在しておらず、にぱにぱとした笑顔のままてけてけと跡部の傍へ近づいてきた。
「。誰、この人」
「だいちゃん、なんかすごい良いにおいする」
「ほんとだ。何この匂い」
少女はこのような田舎にはいないような垢ぬけた存在の跡部に好奇心の目を向けながら、鼻をくんくんさせた。ベットの周りにまとわり付いてくる子どもたちにどう対応すればいいのかうろたえていると、見かねたがくすりと一つ苦笑いして彼らを右手で手招きをした。
「ゆずちゃん、お兄ちゃん困ってるからこっちおいで。大貴くんも、ほら」
随分と仲が良いのかそれまでぐるぐる跡部の傍を周り、時折鼻を押し付けていた彼らはすぐさま彼女のところへ戻る。そして、タックルのごとく抱きついた。
「ちゃん久しぶりー!」
「うっわ、冷たい体してるなあ。しかもこんな薄着で風邪引いちゃうよ?」
「あんま子どもを馬鹿にすんな。寒さには強いんだぜ」
えへんと胸を張っている大貴の横でゆずも真似するように大きく胸を前に反らす。が、体のバランスが上手く取れないのかそのまますてんと転げてしまった。子どもらしい甲高い声を上げてびっくりしたように目をぱちぱちさせる。泣くのか、と跡部は眉を顰めたがくしゃと表情が歪んだのは一瞬のことで、涙一つも零さずすぐさまあっけらかんとした乾いた笑顔を浮かべた。思ったよりも打たれ強いようだ。否、それとも普段からこんなにドジを踏んで慣れてしまっているのか。どちらにしても子どもの泣き声が嫌いな跡部にとっては都合のいいことだった。
「あのね、ちゃん、帰ってきてるって聞いたから」
「ゆずがあんまりにも会いたいって言うから俺が代わりに連れてきた」
「そっか。私も会えて嬉しいよ。二人ともおっきくなったねぇ。最後に会ったのはもう随分と前だったもんね」
どうやら彼女たちは以前からかなりの面識があるらしい。ぐりぐりと大貴の坊主頭を撫で回して笑う。
「まあな。これ、母さんから。南瓜の煮物だってさ」
「おお、美味しそうな匂い!お母さんにありがとうって言っておいて!」
「ん。じゃ、俺ら行くから」
「また遊びにくるね。お兄ちゃんもまたね!」
帰りと同じようにひょいっと窓を越えて去っていく。くすくすとその様子を見守りながら手を振るを見ながら、跡部は深く息を吐いた。嵐のように突然やってきて、更に去って行ってしまったためなんだったのかと呆れたのと、ようやく静かになると安堵したのである。
「跡部さんは子どもは嫌いですか?」
「嫌いというより苦手だ。関わる機会が少なかったせいか、慣れない」
「そうなんですか。でも、子どもに懐かれそうな雰囲気はありますよ」
「どういう意味だ?」
「懐かれそうというよりはむしろ面倒見が良さそうな感じでしょうか。世話好きな方なんじゃないですか」
「……まあ、否定はしないな」
過去のことを思い出しながら、複雑そうに顔を顰めた。自分でもそういう部分は存在すると思う。中学、高校とテニス部の部長としてさらには生徒会長として纏めてきた。人の上に立つ、ということは自分の事もそうだが、なにより他人のことを気にかけてやらなければならない機会がこれでもかというくらい増える。跡部は物事を簡単に手際よく始末するところの要領が良かったため色んなことに時間を割く余裕があった。ただそれだけではなく同時に、他人の世話を焼くということも案外嫌いではなかったのである。だからこそ、上の役が務まった。もちろん、今でもその部分は変わっていない。ほんの数日しか過ごしていないこの若いナースにここまで突っ込まれるということはとても意外であった。態度に滲み出るものなのだろうか。
「でも顔が怖いが故にその優しさが伝わってなかったりして」
「余計な御世話だ」
「図星ついちゃいましたか、すいません」
ぎろりと彼女がいう怖そうな表情で睨んでやれば笑いをこらえながら「そろそろ夕食を作ってきます」と一礼して部屋を出て行ていった。手元にはしっかり先ほど届いたばかりの南瓜の煮物が握られていた。
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110407