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 跡部が目を覚ましたのは、何もかもが済んだ後だった。軽い脳震盪を起こしていたようだけれど、脳にこれといった外傷はなくその後の脳内検査でも恐れるような心配ごとは皆無だったが、意識があった頃とは180度違った格好でベットの上に横たわっていた。起きて初めて感じたことは独特のツンと鼻を刺激する消毒の匂い。事故のせいで骨折してしまった右腕と両足に真っ白な包帯を巻かれ動くことさえもできず、幸運なことに何事もなかった左手を握ったり開いたりしながら担当医の到着を待った。
 ぼんやりとした脳内の中で何故自分がここにいるのか、その原因を思い起こしてみる。記憶が無いわけではない。このような大怪我に至った理由もすぐに思い浮かんだ。だかそれはあまりにも滑稽な理由で、跡部はその記憶をすぐさま消してしまいたくなった。あの後、幸いにも自分と助けようとした女の子は無事に命を取り留めていた。まだ5歳にも満たない可愛らしい女の子で、白いスカートがふわふわと揺れていたのがとても印象的に脳裏に焼き付いている。
 気の向くままに進められた療養に至極跡部は反対をした。若いながらもその才能からか社内でも重要なポジションを担っていた彼からすれば、それは当然の意見だった。しかし、使い物にならない両足と右手でどうやって仕事ができるというのだ、と逆に上司に押さえつけられてしまう。社長である実の父親からも「無理に仕事に励むよりも全快して復帰してこい」という言葉が返ってきたのでしぶしぶ跡部はそれに頷いた。あくまで跡部にとっては不本意な事態である。
 療養場所には曾祖母の実家があてがわれた。驚くほどの田舎である。降り立った時にこのような土地が東京に存在したのかと唖然としたほどだ。曾祖母は跡部が生まれたときには既に亡くなっていた。考えてみれば彼女は江戸生まれだったのでどう考えても跡部と生を共にすることはない。一度も訪れたことのない曾祖母の家は江戸の以前から名を残す、名家の1つであったらしい。慣れない土地に不穏な気持ちでいたものの、着いてみると案外しっかりとした日本らしい造りになっていた。周りは沢山の紅の木の葉に囲まれて、ほんのりと葉を染めている。車椅子をメイドに押してもらいながら整備されていない埃っぽい地面を歩く。車輪の振動から伝わる、コンクリートとは異なった地面のふにゃふにゃとした感覚が気持ち悪かった。今では滅多に見ることのなくなった横引きの玄関を開けると、どこか懐かしい畳の匂いが跡部の嗅覚を刺激した。奥からひたひたというスリッパとは違う生身の素足が歩くような足音が聞こえた。この場には場違いのような純白のナース服を着た女性がこちらの視線に気が付いて慌てて頭を下げる。これが、彼女―と初めて顔を合わせて瞬間だった。

 田舎というものはあまりにも静かだった。隣の今まで行くのに歩いて十分は掛かってしまうのである。窓から聞こえるのも吹き付ける風とそれを受けて自らざわめく木々のみ。生まれてからずっと何かを追い掛けて駆け上がっていく生活を送っていた跡部にはこれはあまりにも物足りない状況だった。何もすることが無いのである。子供の頃はその醍醐味といえる部活動や学校生活を休む暇なく満喫し、社会に出てからも直ぐに社員として異例の速さで昇進し働いていた。手を抜くことができない性格の持ち主であるが故に、このように長い暇というものを扱ったことがない。片手でしか打つことのできないキーボードでは資料さえも製作することが困難で、苦肉の策で持ち込んだノートパソコンも満足に使うことが出来ず投げ出してしまった。
 とんとんと部屋のドアをノックされる。短く返事をする。唯一この家で洋室の作りである部屋を跡部の寝室にしているので前後に動くドアがカチャリと音を立てた。
「ようやく来たか」
「……元気でいられるのは結構なことですが、ホントに読むんですか。この量の本」
「当たり前だ。俺を何だと思ってる」
 前が見えないほど山積みにされた本をよたよたと運んできたに一瞥くれてから、ようやく暇つぶしがきたと満足気に跡部は微笑んだ。聞いたところによると、この実家には沢山の本が無残にも肥しとなって存在しているらしい。もはやナースというよりも一種の家政婦となっている彼女に、離れにある倉庫を捜索させてみた。ここには明治や大正時代といった古いものから、近現代までのあらゆる小説が揃っており、日本文学以外にも英米から取り寄せたのであろう海外小説の原書もあるらしかった。普段から洋書を読むことが多い彼にとっては古かろうが新しかろうが関係ない。喜んでそれらを軽く20冊は自室へ持ってこさせた。ほこりを払われたそれは保存状態が良かったのか読む分には目立った外傷はなく、黄ばみがある程度だった。興味深そうに早速本を手に取った跡部に対して、 はうへら、と顔を歪めた。
「よくそんな横文字の文章が読めますね……眠くなっちゃいそう」
「慣れだろ。そもそもあまりにもここは退屈なんだ。これくらいの長さがあって丁度いい」
「そんなに退屈ですかねえ。確かに都会に比べると何も無いところですが」
「……ろくにテレビも映らないんだから、比較対象にもならないだろ」
「ああ、確かにそうかもしれませんね」
 旧式のテレビに電源を入れたときの落胆は凄まじかった。国内にテレビのチャンネルがこれほど少ない地域が存在するなんて考えもしなかった。跡部の呆れたような言葉に、くすり、と彼女は苦笑いを浮かべてベットのすぐ傍にあるソファに腰を下ろした。「出て行かないのか」と言わんばかりの視線を投げつけるとややあってカーテンが開けられた窓を指差した。
「テレビのチャンネルは少ないですけどこの窓からは沢山の景色が見られますよ」
「そんなことはとっくに気が付いてる。だから、何だって言うんだ」
「楽しくないですか?群れで跳びまわる鴉とか、秋の紅葉を見るのは」
  はふんわりと顔を緩めながら、窓の外を眺めた。なるほど、確かに鴉が幾重にも群れになって山を越えようとはしているが、それを別段特別な景色だとは思わない。二三日も見てしまえば飽いてしまうだろう。首を捻って訝しげな視線を彼女へ送った。彼女はじっと窓の外を見つめていた。目の前に移った景色は、夕日が差していて跡部が早朝の早い時期にこちらへ辿り着いたときよりもより一層赤みがかった配色となっていた。そっと隣で動く気配がして視線を室内に戻す。彼女はカチカチとボールペンのスイッチを切り替えながら、懐かしむような表情で夕焼けを目に収めていた。
「こういった景色を見ると過去のことをいっぱい思い出すんですよね」
「そんなものか」
「少なくとも、私にとっては。……あ、そろそろ夕食の支度をしないと」
 「お邪魔しました」と立ち去る彼女に一瞥だけくれてやって跡部は視線を本ではなく窓に戻した。じわじわと進んでいく日の入りの速度は東京にいたときには拝めなかったものだ。いつもならばこの時間帯はまだデスクに向っている。ひたすら書類と睨み合っていた自分には見ることの出来なかったものだ。学生の頃はよく見ていたような気がする。この夕日によってテニスコートの側面がオレンジ色の光に照らされて赤く染まるのだ。やがて段々と視野が悪くなってきて野外ライトが点灯し始める。そこまで回想して、しばらくテニスに触れていないということを、ふと思いだした。忙しい日常に埋もれている間にあれほど欠けることが無かった存在をいつの間にか失くしていたのだ。黄色いボールは今はどこに収められているのだろう。近所に住んでいる子供が大きくはしゃぎながら帰る声を聞いて、若かった頃は当たり前だった風景から随分と遠ざかっていたのだなと小さく息を吐いた。

 パタンと本を閉じる。栞を挟むのを忘れてしまったことに気が付いたのはその後だ。それでも、「まあいいか」、と零しながらそれをベットの下にそっと置いた。どうせあまり進んでいないのだ。本の代わりに目を瞑り外から聞こえる子供らしい甲高いはしゃぎ声に耳を傾ける。脳裏に懐かしい音が蘇ってくるような気がした。爽快な音、周りの野次、悔しさ。いつからラケットを握ることを止めてしまったのだろうか。今は握りたくとも握れない状況に陥ってしまっているが、どうしようもなくただ純粋にテニスをしたいとそう思った。
 できない、とわかったているのでもどかしさが募る。
「何やってんだ俺は」
 ぱさり、と真っ白なシーツの端っこを掴み上げ本格的に寝る体制に入った。あれだけ寝たにもかかわらず、途端に襲ってくるゆるやかな眠気。なれない環境に移動したということで、思っている以上に体に疲れが溜まっているようだった。

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110331  (本文修正後、レイアウトを変更。読みにくいでしょうか?)