vampire Vol.10



 仄かに香る匂いはうっすらとした薔薇の匂いだった。甘く香しいその匂いはそういえば跡部の匂いと同じものだ。ヴァンパイヤは薔薇を好むのだろうか――なんて、朦朧した意識の中でそう考えていると、ポツンと目の前に立つ1人の青年の姿。背が高くて髪の毛が茶色い。呆然としたまま何故だか近づかなければならない気がして必死に足を動かした。しかし、意思に反して距離は全く縮まらない。その度に彼が泣きそうな瞳で―いいや、もう既に泣いていたんだろう、青色の綺麗な雫を零していた。あれは――誰なんだろうか。

 くすぐるように頬に暖かい感触がした。段々と現実へと覚めていく。パチリとあどけない表情で目を開けると、一番に視界に入ったのは見たことのないソファだった。その上に毛布を被されては寝転んでいた。ストーブがついているのかしゅわしゅわという効果音が絶えず聞こえていくる。きょろきょろと辺りを見渡すと、液晶テレビがあってそことは反対側のリビングのテーブルに忍足が膝を組みながら読書をしていた。気絶する前の記憶がゆっくりと蘇ってきた。はっとして首ともに指を添えると、そこには確かに2つ蚊に指されたような痕があった。

「ああ、おはよーさん。起きたんか。」
「ここは、忍足の家?」
「そや。マンションの6階。意外と眺めがええんやで。……つか、結構あっさりしとるな自分。もっと取り乱すかと思ったわ。」
「そんなこといわれても、相手は忍足だし。一体何が目的なわけ?」

 少なくとも、跡部と初めて会ったときのような警戒心は皆無だ。そう素直に告げれば忍足は苦笑して、自分に威厳とかそういうの足りてへんのかな、なんてポツリと呟いた。

「現実的なお嬢さんやな。ま、しばらく協力してや。其の内わかる。」
「……私に危害を加えるつもりは、ないと思って良い?」
「――ん。ま、事によってはあったりなかったり。」

 曖昧にはぐらかされてしまったことに苦虫を噛んだような表情をした。これからどうしようというのだろうか。身の安全も保障されぬままこのまま居座っているだけでは埒が明かないが、相手がどういう行動に出るのか全くといっていいほど解らなかった。――しかしながら、誰に原因があるか、ということぐらいは推測できる。

「……跡部が、此処に来るの?」
「さあ、な。でも多分来る。」
「忍足は跡部の友達…?」
「友達とはちゃうかもしれん。」

 「もう少し黙っといてや。」とそう呟いて忍足はの目の前に手のひらをふっと置いた。途端に睡魔が襲ってくる。そのままふわふわとしたわけの解らないものに飲み込まれながら――再び、は夢の世界へと旅立った。すう、と寝息を吐きながら眠るあどけない寝顔は、まだほんの16年程度しか生きていない子供だということをありありと感じさせた。何年も――それこそ、数えることも忘れてしまったくらい生きてきた自分とは比べ物にならないほど幼い彼女だけれど。許されない人種の違いに一番嘆いているのは果たして彼女か、それとも己たちか。そう考えながらも彼はそっと、手の平に収まっている小説に視線を落としたのだった。

(何が正しいかなんて――わからへんけど。)

 ただ一つ言えるのはこの小説ような悲しい結末を誰しもが望んでいるわけではないということだった。


**

 ピクリ――と自分の鼻が血の匂いに反応することはよくあることだ。しかしながら、今回ばかりは自分の嗅覚を掠めていく匂いに動揺せずにはいられなかった。生臭いといってもそれは自分たちにとってはこの上なく洗練された香水のような匂いに思わせられる。ひくひくと生理的に動く鼻で匂いをかき集めながら、ふと上を見上げる。するとこそにはパタパタと蠢く黒い物体。さっそく動いてきたか――と思いながらパチリと指を鳴らす。そして、ふわりと自分の元に降りてきた支配下であるコウモリ達が耳元で囁いた。この匂いは彼女のものだ、と。

 そこからは知らない。勝手に手が動いていたとでも言えばいいのだろうか。今が丁度夕暮れだったことが幸いで、コウモリたちも闇夜にまぎれて動きやすくなってくる時間帯。跡部はじりじりと押し寄せるあせった気持ちを隠しながら、自分の支配下における全ての動物たちに告げていた。彼女を探せ――と。忘れろ、と突き放したのは自分であったのに。

「なんなんだよ、全く。」

 巻き込んだのは自分であるということも露知らず。古びた館から颯爽と駆け出した。ただ、無事であることを願うばかりだ。


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