vampire Vol.09



 逃げるようにして、足をもつらせながら走って帰ったので家に付く頃には息も切れ切れだった。うっすらと頬を流れる汗を手の甲で拭きながら、とりあえず、「ただいま。」とだけリビングへ投げかけてそのままバタバタと2階へ駆け上がった。自室に入って鍵を閉め、電気をつける。明るい電光によって照らされた自分の制服にはベットリと赤いものが染み付いていた。それに顔を青くする。これは、人間の血なのだろうか。血なまぐさくてどこか赤黒いそれに顔をゆがめながら急いで制服を脱ぎ捨てた。ビニール袋の中へ押し込めて、そのままぽいと目に付かないところに隠してしまう。早く血を洗い落とさなければ染みはとれないだろう。しかし、今はそんなことすら頭の中には浮かんでこなかった。

 ショックだった、といってもいいだろう。あの時の跡部の冷たい瞳と、声。血液をかけられた瞬間、勝手に逃げるという行為に走った自分。いかに血液が本能的に死をイメージし、恐ろしい存在だったとしてもあの恐ろしさは普通ではなかった。それ以上に、あれを美味しそうに飲み込んでいた彼の姿にまた愕然としたのも事実である。――これこそ、彼が言いたかったことなのだろう。人間と吸血鬼の違いというもの。ぼんやりと輪郭線のみという感じではあったが、しっかりとの心には改めて恐怖という感情が湧き出てきたのだった。それから、いつも跡部が出入りしていた窓を念入りに鍵をかけ、カーテンも隙間無く引いてそのまま布団へとダイブした。

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 目を閉じても浮かんでくるのは跡部のことばかりで、結局一睡もできずに学校を休んでしまった。制服も使うことができないくらい無残な姿になっていたので、クリーニングに出さなければならないので丁度良かった。こんな血痕が残った制服をどうして親の前に出せようか。もしそうなってしまったらきっと永遠と質問攻めに会うに違いない。だって私には傷跡1つないのだから。――忘れよう。忘れろ。なんてお互いそれしか頭に無いようなことを考えてばかりなのだ。以前はも忘れよう、と思っていた。しかし、思いがけない跡部の告白に自分もついつい本当の気持ちを口に出してしまっていた。自分でもここまで素直に思ったことが口に出せるんだ、とある意味関心してしまったほどである。

 はっと気が付くと既に5時を回っていた。どうやらやっとうとうととした睡魔に飲まれたらしい。軽く6時間は眠っていた。元々、夜更かしは得意でないのだ。ぐだぐだと考えているうちに眠ってしまったんだろう。カラカラに乾いた喉を潤すためにリビングへ降りる。ココアでも入れようか。黄色くてインテリア向けの可愛らしいヤカンに水を注いで火にかける。その時、ピンポーン、と不意に玄関のチャイムがなった。母親だろうか……それにしては、帰りが早いような気もするが。

「はい、どちらさまですか?」
ちゃん?俺、……忍足やけど。」
「え?!忍足くん…?」

 意外な人物に目を剥いた。仲の良い女友達ならともかくまさか彼がくるなんて。そりゃあ、クラスは一緒でさほど仲が悪いわけではないけれど、かといって良いというわけでもないし。少しばかり動揺していると苦笑したような笑い声とともに、一言彼が呟いた。

「驚くのは後にして、はよ開けて。」

 今は冬にはまだ遠いとしても秋も中頃で、先週から気温も下がっていた。それは切実な願いだろう、とは慌てて玄関へと駆けた。カチャリ―とドアを開ければ「ちス。」と言って笑う彼。少しばかり体を縮ませているのはちょっとした嫌味だろうか。苦笑いしながらとりあえず、中へと通した。

「そや、これお土産。駅前の有名なプリンらしいわ。」
「あ、ありがとう。ってか、どうしたの?何か用事?」
「用事、てな。自分、体調悪いんやなかったんか。」
「……お見舞い?」

 「そうや。」といって忍足はの顔を覗き込んだ。

「まだ若干顔色悪いし。ちゃんと寝とかんとあかんよ。」
「…う、ん。ごめんなさい。」

 そして、プリントとか宿題とか色々なものを手渡された。心配してきてくれたのか、とわかったときは嬉しくもあったがやはり何故彼がという疑問は抜けず。丁度お湯が沸いたので何か飲んでいくか、と問いかけた。彼が持って来てくれた手土産もあることだし。―それに、今日はまだ誰とも向いあって会話をしていないのだ。1人で考えることに疲れてしまったにとっては都合のよい訪問だった。たわいの無い話―それこそ、今日学校でなにがあったとかそういう類の話だったが、忍足は会話のテンポが上手く頷いているだけでよかったのでそんなに気疲れがしない。すっかり手元の飲み物が無くなったところで、忍足が立ち上がった。

「もうこんな時間か。そろそろ、帰るわ。」
「ん、……ありがとね。プリンご馳走さま。」
「いーや、たいしたことないし。明日は学校くるん?」
「起きたときに体調が良かったら、かな。」

 本当は制服が無いのでせめてあと2日は休まないといけないのだが。そんな理由があるとは口が裂けてもいえないので曖昧に微笑んで苦笑いを返した。―と、忍足の視線が一点の薔薇に止まる。

「……綺麗な薔薇やな。」
「あ、それは。」

(それは、跡部がくれた薔薇だ。)

 毎夜、自分の部屋の窓際に置かれていく2輪の薔薇の花。昨日は―さすがに届かなかったけれど、彼と出会ってから毎日のように届いていたこの花たちは、自身の部屋に飾るにはもったいなく。花好きの母に任せてこうやって玄関先に飾ってもらっている。何やら忍足はこの花に興味を示したのか、食い入るようにじっとそれを見つめていた。突き刺さるように注がれる視線に段々と周りをまとう空気が変わっていく。決定的にがおかしい、と感じたのは次の台詞からだった。

「――決まり、やな。」

 何が、なんて問う間も与えられず、ぐいと手を引かれた。スリッパのまま玄関に引き寄せられる。驚いて顔を上げればにこり、と笑う忍足と目が合った。笑っているけれど、ぞくぞくと背中に走る悪寒はなんなのだろう。ギラリと怪しげに光る瞳が赤く染まっていることに気が付いたときは既に遅かった。逃げ出せるという範囲を超えた力で強く、ギリ、と肩を掴まれた。

「これ、跡部の薔薇やろ。」
「……忍足、跡部を知ってるの?」
「知っているもなにも、同種や。しいていうなら仲間、やろか。」

 くわ、と開いた口先に見えるのはキラリと光る犬歯で。小説の挿絵などでみるヴァンパイヤ像とまるで同じだった。まさか、なんて思うがその瞳は至極真面目で冗談を表していなかった。抵抗しようともがくがびくともしないのは彼ら種族が怪力だからだろう。逆にギリギリと締め付けられて痛さがましていく。ゆっくりと、忍足の口元がの首筋へと近づいていった。

「ほな、いただきます。」

 カプリ――という音とともに熱くてぐっと刃物を押し付けられたような痛さが全身に痺れるように広がった。

(噛まれ、たんだ……。)

 そこで、ふっと意識は途絶えた。


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