――バタン、と勢いよく玄関の扉を閉めた。こういうとき母親の怒声が飛んでこないことで、今、家に自分だけしかいないのだと実感する。屋敷から全力疾走して帰って来たので汗はダラダラで、息も上がっている。だが、独特の嗅ぎなれた香りにほうと息を吐いてようやく胸が落ち着いたような気がした。
全身がびしょ濡れで時間が経つと冷えてしまうだろう、そう思ってまずお風呂に入った。全身の疲れをさっぱり落とし、リビングに上がる。シーンとする誰の声もしないのは寂しいものでテレビをつけようかと思ったけれど、どうもそんな気分ではない。それよりも暖かい牛乳でも飲んで今日はもう寝てしまおう。塾の宿題も明日提出の課題も残っているが、全くやる気がしなかった。早く寝て、忘れてしまいたい。
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牛乳をマグカップに入れて、鍵を閉めているか念入りに確かめて二階の自室へ上がった。しかし、今日はまだ一度も自室へは踏み入れていないというのに部屋には電気がついていた。――もしかして、一日中つけてしまっていたのだろうか。そうだとしたらとても勿体ない。そう、とドアを開けた。一番初めにの視界に入ってきたのはお気に入りのベットでも、ぬいぐるみでもなく、優美に微笑んでいた男性だった。
「遅かったじゃねえか。」
――声を聞いて、はっとした。先ほど聞いたばかりの艶のある声の持ち主は、綺麗な顔を皮肉そうに歪めて微笑を浮かべている。逃げて帰ったので顔は少しも見えなかったのだが……言葉を失うくらい、綺麗な顔をしていた、その人は。
「どうして……?」
「鍵は閉めておくもんだぜ。無用心すぎる。」
(確かに、朝、開けっ放しで出て行ったけど……。)
「って、貴方こそ不法侵入じゃない!」
「まあ、そうガタガタ騒ぐなよ、ちゃん?」
「え。……なんで私の名前知ってるの?」
思い切り不審者を見るような目つきで睨む。彼は――跡部は、しい、といわんばかりに人差し指を口元に持っていき、優美に微笑んだ。その微笑みに何万人もの女性を虜にしてしまうような誘惑が含まれていたのはいうまでもない。の顔もほんのり朱色に染まってしまった。不可抗力だ、これは。それを目にした跡部はまんざらでも無いようにフン、と鼻を鳴らした。
「そんなことはどうでもいい。お前は――、俺に魅されたか?」
「は?」
(魅された、ってそれは、虜になったとかそんな感じのことなのかな。いや、ていうかそれってめちゃくちゃナルシスト発言じゃない?!おかしいよ、この人…!)
確かに顔は綺麗だと思うが、どうにもその性格はちょっと遠慮しがたいものがある。勢いよくブンブンと首を横に振りNOという返事をすれば、跡部は全くわけがわからないと言わんばかりに溜め息をついた。
「俺に魅されなかった奴がこの世にいるはずがねぇ…。」
「……アンタ、もしかして、さっき私が"ばっかじゃないの。"って言ったのものすごく根に持ってる?」
「今まで、そんなことを言われたことが無い。」
不服そうに彼はそう言いはなった。それはつまり、彼にとって女というのはとっかえひっかえが当たり前で、誘えばむしろ向こうから乗り気で向かってくるということなのだろうか。
(なんつー俺様男…!)
これはもうむしろ、驚きというより呆れの部類に入る。――少しばかり頭が可哀想なのかも、この人。そして、そんなつまらないことで微妙に落ち込んでこんなところまで乗り込んできたのかもしれない。
(変な人だなあ……。)
出会った瞬間から思っていたことだったけれど、今、改めてそう思った。とりあえず手に持ったままのマグカップを机の上に置いた。そして、ベットの上に優雅に腰掛ける跡部に苦笑いをした。――あまりにバカバカしかったからか、どうかはわからないが彼が可哀想に見えたから。しかし、その笑みは一瞬にして消えることになる。
突然、くい、と腕をつかまれて抱き寄せられた。ふわりと鼻に香水のようなスッキリとしてどこか甘い匂いが広がる。触れられた指はとても冷たかった。
柔らかい感触が唇に当たる。深く差し込まれた舌に抵抗しようにもできない。元々、そんなスキルがには無いからだ。もがこうにももがけなくて、結局、跡部の思うままにされてしまった。冷たい唇がゆっくりと離れていった。
「――なんで、泣くんだよ。」
静かには涙を流した。そう、と目じりに跡部が手を添える。
「私、ファーストキスだったのに……!」
「俺のキスが初めてなんて、光栄じゃねぇか。」
初めてのキスはそれなりにムードある空間で、付き合ってしばらくたった彼氏と、ドキドキしながらしたかった。それなのに、どうしてこんな今日あったばかりの変な人としなければならないんだろう。乙女心を思い切りずたずたにされた気がした。
「好きな奴でもいんのか?」
「いないけど……そういう問題じゃない!初めては、好きな人とやりたいものなの。よく知りもしないアンタなんかとしても全く嬉しくない。早く出てって!」
「フン、口の減らない奴だな。」
でも、と小さく彼は続けた。
「そういう気の強い、俺に靡かない女。――結構、好きだぜ。」
(……。)
もしかしてこれは、彼に気に入られてしまったのだろうか。彼はそのまま不敵に笑い、パン、と小さい音を立てて消えた。――どういう仕掛けだ、これは。ぱちぱちと瞬きをしても先ほどの外見だけはかっこいい彼は見当たらない。夢だったのだろうか、いや、そんなはずは……?
ふと、目に留まったのは小さな赤い薔薇。ヴァンパイヤが好む血のように綺麗な色だった。
「……夢、だったの?」
は牛乳をこくりと飲み込んだ。冷めかけの薄く膜の張ったそれは時間が経ったことを意味する。どうやら、夢では無いらしい。
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