12
放課後の教室。既にクラスメイト全員が帰宅しており、私は最後の鍵当番を任された。千佳とは部活の方にも顔を出さないといけないので先に別れている。目の前にあるスケジュール表と向き合って、深く息を吐いた。肩の力を抜いて、こつんとおでこを机の上にくっつける。長いこと人が座っていなかったせいか、ひんやりとして冷たかった。
「駄目すぎる」
心の奥から零れ出すように出てくる言葉。私の頭の中にはとある人の姿が合った。ずっと私の隣にいて、ほとんど離れたことが無く、生涯のライバルといっても過言ではない、その人のことが。クラス委員を任される彼女を幾度となく見てきたけれど、その表情に疲れは浮かんでいただろうか。情けないと落ち込んでいただろうか。今の自分よりも幼い年齢のときにその役をこなしていたので、それなりにもめ事もあったはずだ。しかし、そのような記憶は全く思い出せない。少なくとも私の前ではそんな姿を晒していなかったに違いない。
情けない。彼女にできて、私にはできないのか。けして彼女を侮っているわけではないけれど、それ以上に悔しさが前面に押し出されていた。
「はあ」
羨んでいるばかりでは、駄目だ。ふるふると首を振って顔を上げた。反省をすることは必要だが、それは程度にもよる。今の私はぐだぐだと反省をし続けるのではなく、ミスをしないようにきちんと一つ一つに注意を向けるべきだ。もっとしっかりしなくては。千佳にも迷惑をかけたクラスの人達にも申し訳が立たない。
ガラリ、と教室の扉が開いた。今まで一人きりだと思って安心していた空気が一気に緊迫する。咄嗟に顔をそちらへ向けた。そこに居たのが誰か解って、私は反射的に前髪を押さえつけた。先ほど机に髪の毛を擦りつけるようにしていたので、かなり乱れているはずだ。私のその行動を彼は見咎めたはずだがそれに対しては何も言及せず、ただ低い声で私の苗字を呼んだ。
「早く帰れ。そろそろ下校時刻だ」
夕日も大分沈み、そろそろ夜がやってきそうな時間帯だった。考え疲れてお腹も空いている。姉はバイトが休みなので、先にご飯を作って待ってくれるはずだ。今日のおかずは何だろう。そう考えると現金ではあるがちょっと元気が出てきた。机の上に並べていたプリント類をファイルに纏めて、鞄に入れる。跡部はまだ廊下でこちらを眺めていた。「跡部くんは帰らないの」と言いそうになった言葉を呑み込んだ。待ってくれているのかもしれないという変な期待がその台詞から滲み出るように聞こえたからだ。ジジジというチャックの音が静かな校舎内に響く。そのまま入口まで歩いて行って、跡部に向かって軽く手を振った。
「部活お疲れ様。また明日」
そこで別れようと思ったのだけれど、予想に反して跡部はそのまま私の隣に並んだ。ふっと自分の顔の辺りに影ができる。その暗さにつられる様にして、顔を上げた。
「何?」
「いや、どうせ玄関までは一緒だろ」
「そうだけど」
「不満か?」
「そういうわけじゃないけど、跡部くんがそんな気遣いをしてくれるなんて思わなくて……いたたたた! すいません!」
ぽろりと本音が口から滑り出てしまった。跡部とは10cm以上も身長差があるからか容易に私の頭を掴みぎりぎりぎりと圧力を掛けてきた。米神を拳でごりごりやられる時よりは痛みは少ないが、それでも結構な暴力である。何度も「ごめんなさいすいませんでした」と繰り返したところでようやく手を放してくれた。
「……跡部くん酷い」
「十分手加減したぜ。それほど痛くないだろ?」
恨めしい視線を投げつけるけれど、跡部の表情は全く変わらなかった。心底楽しそうに歪んだ頬に、彼のサディスティックな一面を垣間見る。しかしすぐさま「こんなもの序の口じゃないか」と高笑いする魔王さまの言葉が頭を過った。双方ともに痛いスキンシップだ。もっと女の子には優しく対応してくれ。痛みの残る後頭部を手で押さえながら唸っていると、ぽつりと跡部が呟いた。
「泣いてるのかと思った」
放課後のことを指しているのだろう。声のトーンが若干下がる。跡部がこんなにも私に構ってくれているのは、やはりそのことが原因だったようだ。あの時跡部は何も言わず、無言で見ているだけだったけれど、少なくともこうして話を聞いてやろうかというくらいには気にしてくれていたらしい。ぐるぐるとした感情が舞い戻ってくるが、ぐ、と表に出さないように閉じ込めた。それくらいはできる。跡部の問に私は首をふるふると横に振った。
「あれぐらいで泣かないよ。私に不備があったのは確かだから、泣いてないで受け止めて、次にまた繰り返さないようにする」
心配されていたのだろうか。だとしたら申し訳ない。
「実のところ、俺は代わってくれなんて言われるんじゃないかと思っていた」
「……私って、そんなに、精神的に脆そうに見えるの」
「少し」
そうなのか。自分の印象なんて自覚できるわけもなかったので、跡部にそのように思われていたことは意外だった。今までに言われたこともない。
「もし、私が代わってと言ったら、代わってくれた?」
「やる気をなくした上での発言なら、そうしたな」
正直、恐らく跡部ならあのような些細なミスは犯さなかっただろうと思う。彼の手腕を見たことが無いので何とも言えないがクラスでのあの慕われようから、どれほど跡部に信頼がおかれているのかくらいは解る。役柄に最もふさわしい人が直ぐ隣に居るというのに何故やらせないのだと思うのも当然のことだろう。だが、だからといって、今更引き返すことなどできない。なにより、ただでさえ情けないのにこれ以上情けない姿をクラスメイトに晒したくはなかった。
「残念だけど、やり遂げたいと思ってる。……また失敗しそうで怖いけど」
「あのな、俺もお前もどちらもクラスを纏めて、文化祭を成功させるためにあって同じ責任を負っている。立場に一切差異はない。お前にできないところは俺がサポートする。そのために二人いるんだろ。が努力をしていること、俺には伝わってるから……って、おい、なんでここで泣くんだ」
ぽとりと廊下に落ちた雫を見て跡部はそう言った。焦っているわけではないが、多少動揺しているようだ。泣かせるために言ったわけではないと。しかし、言われた側からすればどうしてここで泣かずにいられるかと本気で言い返したい。むしろ泣いてくれと言わんばかりの台詞ではないか。委員長の責任をずっと自ら一人で抱えようと支えようと気張ってしまっていた私は馬鹿だ。うめき声の様な可愛らしくない嗚咽を漏らしながら、なんとか私は口を開いた。
「文化祭、楽しみたい」
ありきたりな宣言だった。口にしなくても、みんながそれぞれ程度は異なっても文化祭を良いものにしたいと考えているだろう。けれど、声にして誰かに伝えることで魔法が掛ったかのようにその言葉は生きてくる。ただ思っているだけよりもより強くその言葉に縛られて、実行しようとする。だから敢えてその時私は口にした。跡部は私の涙声でよく聞き取れない呟きがきちんと聞こえたのだろうか、ぽんと今度は軽めに私の頭を撫でた。「ああ」という簡素な相槌が聞こえた。それがまた、嬉しかった。
「大丈夫か」
ひとしきり涙を流し終えた後、問いかけられた。私はぐいと頬を伝っていた雫を拭いて、顔の筋肉を緩めて見せた。跡部の口元もつられたようにゆるりと弧を描く。ずずっと鼻をすする情けない音が響いた。
「ごめん」
「何も悪い事してないだろ。……そろそろ、帰るか。本格的に閉じ込められるぞ」
「うん。帰る」
薄暗い廊下を二人きりで歩くというのは中々緊張した。改めて考えると、この年齢になって情けない泣きっ面を他人に対して晒したことになる。引っ切り無しに嗚咽を上げて泣いていたわけではないけれど、感情的な部分を見せることはなるべくなら避けたかった。相手はまるで同い年には見えない、大人っぽい跡部だからこそ余計に羞恥が込み上がるというのも事実だ。
「お前の家、どのあたりだ」
「え?」
「随分遅くなったから。送ってやるよ」
突然彼の口から出た発言に戸惑う。確かに、すでに時刻は八時を回っており、高校生が一人で帰るにはあまりよろしくない時間帯なのかもしれない。けれどさすがに跡部にそこまでお世話になるつもりはなかった。明日から顔向けできなくなりそうである。
「一人で帰れるから平気だよ。部活帰りはこれくらいになったりもするし」
「……お前はよくても俺は嫌なんだよ。ただでさえ最近物騒なんだ。何かあってからじゃ遅い。俺が後悔することになるだろ」
強い口調で彼はそう告げる。そういえば、氷帝の女子生徒は特に狙われやすいと聞いたことがあった。もしかして、過去にそういった経験があったのだろうか。高圧的とまではいかないがどことなく強制力を含んだ彼の態度に、最終的に「うん」としか言えなくなってしまった。泣き顔を見られた上に家まで送ってもらうなんて。どれだけ跡部に甘えれば気が済むのだ、私は。心底ここからエスケープしたい欲求にかられた。
その時、ポケットに入れていた携帯が震えた。ぶるぶるというバイブ音に足を一瞬だけ止める。着信だ。相手は由希だった。恐らく私の帰りが遅いことを心配しての電話だろう。やってしまったと額に手を当てて後悔する。メールの一つでもしておけばよかった。保護者代わりの姉が心配して当然の時間帯である。
「もしもし、? 今どこに居るの?」
姉の第一声はやはりそれだった。咎めるような鋭さは無いものの、不安の色が滲んでいる。私は慌てて「ごめん」と口にした。文化祭の準備に手間取ってしまい、こんな時間まで残っていたと告げる。そこに隠れている事細かな事情もあるのだけどそれはもちろん割愛した。姉からは「遅くなるならちゃんと電話かメール入れておいてよ」と呆れたように言われてしまった。「配慮が足りませんでした」と素直に謝る。
「今度からはちゃんとしてよね。もう遅いけど、帰りは? 千佳ちゃんとかいるなら迎えに行くよ」
「いや、千佳は先に帰ったんだよ。……由希姉迎えに来てくれるの?」
思いもよらない姉からの発言に声が少しだけ大きくなってしまった。隣の跡部が様子を伺うように視線をこちらに向けたけど構うものか。姉が来てくれるのならそれに越したことは無い。
「うん。ついでに借りてたDVD返したくて」
「ぜひとも迎えに来てください!」
姉と校門前でという約束を取り付けると、威勢のよい声で礼を言って通話を切った。心の中で「DVDの返却日、グッジョブ!」なんて親指を立て喜べるくらいの嬉しさだ。これで、跡部にお世話になる心配はない。くるりと顔いっぱいに笑顔を浮かべて振り返った。
「姉が迎えに来てくれることになったので」
「ご迷惑を掛けるには至りません」と告げる。跡部はなんとも言えない表情をしていた。何か言いたそうな、しかし、どう表現すればいいか解らないような、むず痒い感じだ。その証拠に口は微かに動いているが、その形のいい喉が震えることはなかった。言葉にしたいのはやまやまだが、何も見つからない。今の跡部はまさにそんな状況なのだろう。さすがにあからさまに喜びすぎただろうか。しかし、やはり、迷惑をこれ以上かけるわけにはいかないのだ。教室で慰めてくれただけでも多大な恩義を彼に感じているのだから。彼が言葉を発するのをひたすら待っていると跡部は諦めたように小さく息を吐いた。
「明日からも頼むぞ、」
「……頑張ります」
嫌なプレッシャーを掛けられる。心に残る不安が完全になくなることはないけれど、先ほど、一人で落ち込んでいた時よりも何倍も心は軽かった。跡部に話を聞いてもらうことがなければ、このような心境には至らなかっただろう。「ありがとう」と呟く。彼は私の言葉を聞いて、そっと目を細めた。
( material by.zirco:n )
111112