10 梅雨って先週抜けたんじゃなかったっけ、と疑問に思いながら黒々とした雲に覆われている空を見上げた。例の如くコンビニでおやつを買っている間に、何時の間にか空は曇り、生ぬるい風が辺りを包んでいた。今朝は天気予報を見る時間もないほど切羽詰まっていたので、傘なんて持ってきていなかった。はあ、と溜息を零す。降り始めたばかりなので、暫く止むことはないだろうし、大分夜に近かったのでこのままコンビニの前で長居するのは得策ではない。今日に限って姉がバイトだということも悔むしかなかった。走るしかないか、と意を決して、土砂降りの雨の中足を踏み出した。 ばしゃばしゃ、とどんどん溜まっていく水たまりに雫が跳ねる。コンビニを出たところで、くい、と手を掴まれた。視界が悪いので気がつかなかったが、そこにはまた彼が傘を広げて立っていた。 「ちゃん、入る?」 にこ、と笑った顔にひくりと頬が引き攣った。手を動かそうにも、強く掴まれていて動かすこともできない。じっと黙ったまま彼の顔を見つめていたら、そのまま傘が私の頭上を覆った。なんでこんなタイミングで彼に出会ってしまったのだろうか。返事もしないのに、忍足は歩きはじめた。私も仕方なく同じ傘に収まったまま彼の横を歩いた。びしょぬれにはなりたくなかった、というのが本音である。 雨の匂いが鼻につく。夏が近いと言えども、雨が降ると一気に気温は低下する。中途半端に濡れた制服が冷えてきて、肌寒かった。しばらくは無言のままだった。出会うたびにぺちゃくちゃとよく口が回るこの男にしては珍しいことだ。雨の音だけが私の耳に入ってくる。耐えきれなくなって、私は口を開いた。 「忍足さ、一体どういうつもり、なの」 「……どういうつもり、とは?」 「私のこと好きとかいって、一体なにがしたいの。何が目的なの。もういい加減、疲れたんだけど」 「文字通りやん。好き、付き合って。この言葉ほどはっきりしているもんはないやろ」 普段の言葉となんら変わりはない返答に項垂れた。忍足の真意が見えないのはいつものことではあったが、それが私の心を苛立たせた。いい加減、このごっこに飽き飽きしていたのだ。どこから問いつめてやろうか。忍足がぐうの音も出ないほど言い負かしてやりたい気持だった。 「忍足さ、人を好きになったことあるの?」 「当たり前、あるに決まっとるわ。ほら、ちゃんだってその中の一人」 「冗談を言えとは言ってない」 「相変わらず、きっついなあ」 「……その人にも私みたいに告白したの?ムードもへったくれもない感じで?」 忍足の動きが一瞬だけ止まった。が、すぐににこりとした笑みを顔に貼りつける。 「俺の過去の女に嫉妬してんのか。かわええなあ」 「有り得ないから」 ぴしゃり、と拒絶して、きっと彼を睨んだ。忍足が私のことを本気で好きではない、ということをよく理解している。彼の私に対する好きはただの言葉遊びでしかない。では、何故、そこまで彼は出会ってまだ間もない私に言い寄るのか。私と付き合うことで彼にとってなんのメリットがあるのか。私にはわからなかった。好きでもなんでもない人に、好きだよ、という言葉の安売りをする彼の気持ちなんて到底理解できない。 「質問を変えるわ。……私のどこが好き?」 「ん、いっぱいあるよ。まずは、目、やな。綺麗な目をしとる。俺としてはちょいアイライナー引きすぎやと思うけど。あと、声も好き。甘くて、機嫌がいい時の高い声はほんまにつぼや。小ぶりな鼻もかわええ。あと……名前も好き」 彼は立ち止って私の顔をじっと見ながら熱に浮かされたようにそう答えた。正直、驚いた。気持ち悪いくらい細かい内容を挙げられた、ということにも吃驚したのは確かなのだが、一つ一つ、その部分をあげていくたびに、彼の目が潤んでいった。そこにあったのは今まで彼が当然のように紡いでいた表面的な「好き」ではなく、気持ちの籠った「好き」だった。ぐるぐると、違和感が体の中を駆け巡る。ひょっとして、忍足は……。一つの答えが出てきた。 「忍足は、一体誰を好きなの。私を通して……誰を見てるの?」 自分の言葉に、自分自身が動揺してしまった。どくり、と心臓が波打つ。 「誰って、ちゃんに決まっとるやんか」 「そんな嘘を。今の言葉は私に向けたものじゃないでしょう。それくらい、私にだってわかるんだから」 私だって、好きな人がいる。好きで好きで仕方がない人がいる。それでも傍にいれなかった人がいる。彼の恋い焦がれた瞳にはそんな私の感情を思い起こさせる近いものが存在した。学校とは違う、へらへらとした笑みを浮かべていない彼がそこにいる。それこそまさに彼の真実の姿なのではないかと思った。この雨のように今にも泣き出してしまいそうな、そんな空気を纏っていた。 一向に口を開く気配の無い忍足に向って、私は代わりに言葉を紡いだ。 「私には、忘れられない人がいるから忍足とは付き合えない。だから、忍足も、本当に好きな人にその言葉を伝えてあげて」 その刹那、ぐしゃっと右手を強く掴まれた。長く伸びた爪が刺さってぴりぴりとした痛みが手の甲を襲う。背の高い彼を見上げると、大きな肩が震えていた。 「……無理や」 「どうして」 忍足は黙って首を横に振った。 「伝えられへんかった」 その言葉で彼の恋が叶うことなく散ったのだとわかった。そして、今、彼も私と同じように混沌とした状況にいるのだということを悟る。忘れられない、言葉にしてみればなんて簡素な言葉なのだと思う。けれど、事実、他の人を見てもどこかその人の面影を探してしまう、そんな状況に彼もいるのだ。私が忍足を見て、どこかあの人に似ていると考えていたように、彼も私に対してそのような感情を持っていた。なんてことはない、彼は同類だった。何時までも抜け出せないループを漂っている、私と。 「それで、接点のある私と付き合うことで自身を紛らわそうとしたんだ」 「……半分はその通り。情けないって笑ってええよ」 「笑えないよ。私も一緒だから」 もしかしたらそうなっていたかもしれない、未来の私。ちろり、と彼の伏せられていた視線が私の目を捉えた。「同じか」と苦笑気味に頬を歪ませた。そう、と頷く。けれど、私は忍足のように気持ちを誤魔化してまで人と付き合うことはできなかった。彼の面影が見えること自体が恐ろしかったのだ。面影ばかり追いかけていたら、いつまで経っても彼から抜け出せられない。そこが私と忍足では決定的に違うところ。 「気付かれることのないように、精一杯隠しとったつもりなんやけど」 軽くため息を吐きながら、忍足は歩きはじめた。私も後に続く。ぽつりぽつり、と彼は自分の心境を吐露し始めた。好きな人がいたこと。その人には別の好きな人がいたこと。彼は見守り続けるしかなかったということ。結局そのまま彼氏ができてしまって、告白すらできずに終わってしまったこと。今の関係を壊したくないのだと、彼は言う。このまま告白して避けられるようになるよりも、友達としてでもいいからずっと傍に居たいとそう思える人なのだ。ただ、それからどの女の子を見ても彼女の姿と比べるようになってしまって、似たパーツを持つ私がどうしても欲しくなったのだそうだ。 「初めは苛立たしかった。あんまりにも彼女に似とるちゃんが目について仕方がなかったんや。……けど、気付いたらいつの間にか欲しいとおもっとった」 「私を彼女の代わりにして、それで忍足は満足できたの?」 「半分は。今でも結構そうおもっとるけど」 「断固拒否」 「……やもんなあ」 くしゃり、と空いている左手が私の頭を撫でた。お互いに、報われない恋をしている。その痛みは十分に伝わってきた。同情、時にそれはとんでもなく非情な意味合いを持つ言葉だが、今の私の気持ちを表すにはぴったりだった。前ほど彼のことを嫌な奴だとは思えなくなってきている。彼の気持ちが聞けたことで、彼にも人間らしい「好き」という感情が存在していると知れたからか、少しだけ心は穏やかだった。 自分たちの家であるマンションが見えてきた。まだまだ雨は止まない。傘をぱたり、と折りたたんで、共にエレベーターに乗った。隣同士なので玄関に入る前まで行くところは同じなのだ。二人で乗り込んだ空間の密室という息苦しさからか、ぽつりと忍足は独り言のような音量で呟いた。 「悪かった、な。擬似恋愛に付き合わせてしもうて」 「不快な気持ちになったことは沢山あるけれど、まあいいよ。傘も借りたしね」 「……おおきに」 チーン、と目的の階に辿り着いたことを告げる音が鳴り響いた。エントランスに降りて、右側を曲がる。その列の奥から三番目が私の家、二番目が忍足の家だった。玄関の前まで来て、忍足は私を呼びとめた。 「明日もまた声掛けてええか」 「……え?えっと」 「友達、として。ちゃんとは色々と話しが合いそうや」 「大っぴらに話しかけられるのは嫌だ。女子の目が怖い」 最初はまだ諦めていなかったのか、と呆れてしまいそうになったが、次に彼から出てきた言葉に私は苦笑を浮かべた。やっぱり、私は彼の様などこか影のある人物と友好関係を築きやすいようだ。ただし、それを手放しで肯定できない理由もあったのできっぱりとそう告げた。彼はふっと笑う。 「わかった、気ぃつける。……言うとらんかったけど、ちゃんと俺の好きな人の性格は全然違うねん。でも、ちゃんのそういうきっぱりしたとこ、結構気に入っとった。そこは嘘やないから」 「はいはい、ありがと。じゃあ、また明日」 「ん、明日」 ひらひらと手を振って、パタン、と扉を閉めた。明日から学校で忍足とあっても、無駄に怒ることなく平穏な日々が送れそうだ。 ( material by.zirco:n ) 100522 |