08 ぷるるる、ぷるるる、と無機質な音が耳に響く。着信中の音が耳に届きはじめて、30秒後、低すぎず高すぎない声が私の鼓膜をくすぐった。たった一ヶ月、声を交わさなかっただけなのに、とても懐かしく感じる。自然と疲れていた顔も笑みを浮かべていた。 「?」 「うんそう、元気だった?」 簡素な言葉に、相手の方から脱力したような雰囲気が感じられた。事前に連絡もせずいきなり電話をかけたのだ。何かあったのだろうか、と気を張っていたに違いない。小さくため息をつかれるけれど、その声はどこか優しかった。 「おう……思ったより元気でやってんじゃん」 「意外と氷帝も悪くないよ。面白い毎日を過ごしてる。立海はどう?」 「面子は対してかわんねぇから、これといって。皆元気にやってるぜい」 脳内に起こった様々な出来事が駆け巡る。少し嫌な事もあったけれど、それを差し引いてもいい友達に巡り合えたし、新しいことばかりで戸惑いながらも新鮮な毎日を過ごしている、と告げた。電話の向こうでにかっと笑った彼の表情が簡単に想像できる。中学三年間、近しいところにいたのだからそれは当り前なのかもしれない。しかし、彼はぽつりと独り言を零した。「皆、というのは語弊があるか」、と。彼の言葉に私はぴくりと体を震わせた。 「表面上は普段通りに見せかけてるけど、ちょっと様子がおかしい奴なら一人いるな」 期待をしていたのかもしれない。私がいないことによって少しでも動揺してくれているのではないか、と。あさましい自分に嫌気がさしてしまうが、そう思っていることは事実だった。 丸井と私は立海でとても仲の良い友達だった。でなければ、こうやって個人的に電話をしたりしない。馬鹿やって騒ぐことができた、数すくない男友達の一人だ。そして、丸井は私の今回の複雑な心境を一番近くから、客観的に眺めることができていた唯一の傍観者だった。私と、彼と、丸井は友達として繋がっていたのだ。そうすると自然と一緒に過ごすことが多かった。だから、丸井はこうも確信めいた言葉を私に伝えることができるのだ。立海を離れて氷帝を選んだ本当の理由を、ぼんやりとした形ではあるが悟っているのだろう。ここ最近の彼の様子を丸井は丸井なりに懸念しているようだった。 「まあ、アイツは俺に心配なんてされたくないだろうけどな」 「それは私もそう思う」 彼は自分がいつもと違う、なんて他人に悟られたくもないだろう。誰かに図星を指されることほど彼が嫌がることは無かった。気まぐれな猫そのもの態度をとる彼の扱いは難しい。それを知っている丸井はなんてことはない口調で、何かしようとは思ってないけど、と呟いたのだった。 「向こうが何か言ってくるまで俺は待つつもりでいる。アイツが俺に相談することは死んでもないと思うけど。良くて柳生だろい?」 「……よく知らないけど」 「あ、は柳生とは交流ないんだっけ」 「クラスが違ったから。テニス部に態々顔出してたわけじゃないし」 それと同時にバスケ部に所属していた私に、そのような暇があるはずもなかった。柳生、という名前は談笑しているときによく出てきていたので耳にしたことは幾度もある。柳生は彼のダブルスパートナーを務めていて、性格は正反対なのだろうけどそれなりに上手くいっているいいコンビだとテニス部部長である幸村が言っていた。私も何度か顔を合わせたことがあるが、自己紹介さえままならなかったので柳生の方は覚えてもいないだろう。 「も同じだぜい。話したくないなら話さなくていいけど、なんとなく俺は察してんだ。アイツからは無理でもから話しを聞きたいってのが本音。それに他にもには聞きたいことが山ほどある。なんで立海を出ていったのか、とかさ」 「……あのね、ブンちゃん」 「ん?」 「氷帝に来たこと正しかったのかな、って時々思ったりするんだよね」 「後悔してんの?」 「何も言わずに、来たこととか」 ああ、と彼が相槌を返す。家族の中で、特にこの進学に関わる由希と両親と相談だけを繰り返して外部には匂わせすらしなかった。まだ、最後の最後まで迷っていたということもある。ただ恋が辛くてこの場からいなくなりたいとは思っても、恋だけが私のすべてではない。大好きな友達もたくさんいたし、できることならもっと彼らと一緒に過ごしたかったということもある。未知の場所へ挑んでいく不安も、少なからずあっただろう。迷って迷って迷って、出した決断は引っ越しの前日になって親しかった友達だけに告げた。――丸井はそれに含まれるけど、彼はそれに含まれていなかった。言い出せなかった、というのもある。言い方が悪いかもしれないが、理由そのものだから。どんな顔して言えばいいのかわからなかった。丸井は声に苦笑いを隠さずに、問いかけてくる。 「アイツにだけ何も言ってなかったんだろい。入学式の日に一人で学校に来た夏希を見て驚いてたぜ」 「なんか言ってた?」 「特に何も。いきなりはないだろって思ってただろうけどな。引っ越し前にきいた俺もそう思ってたし。これからまだずっとと馬鹿やっていけるって疑いもしてなったから」 「……」 なんと答えればいいか迷って思わず沈黙してしまった私に、丸井は「攻めてるわけじゃない」と苦笑いしながら言った。「ごめん」、と答えるのは簡単だったけど丸井に謝るのはお門違いな気がしたし、彼に許しを請う必要もないと思う。変わりに「うん」と一言だけ相槌を返した。 「でも、ま、離れていても友達であることには変わりねぇから。なんかあったらまた電話してこいよ」 「何もなかったら電話しちゃいけない?」 「え?いや、いいけど。……なんか甘えんぼになったな、お前」 「あれだよ、ちょっとしたセンチメンタルなんだよ」 茶化すようにそう言った。誰かに甘えたかったというのは確かにある。元来、私は末っ子で一番甘ちゃんだと家族の中では言われるし、自分でもそう思っている。外ではあまり出さない様にしていたのだが、過去に思いを伏せることによって不安定になってもれだしているのかもしれない。何もないまま、告白しないまま、ずっと立海で過ごせればそれが一番自分にとって幸せなのではないかと今は思うくらいだった。千佳も大好きで出会えたことが嬉しいことに変わりは無いのだが、心の底に蟠りになっている気持ちが存在するのは確かだった。暗い気分を無くすためにも大きい声で話題を変える。 「ブンちゃんに話せる日が来たら、ちゃんと話すことを約束するよ」 「ん……ああいったけど、無理しなくていいんだぜ。俺は所詮部外者だから」 「ううん、心配ばっか掛けてるし。整理がついたら言う」 それだけを一方的に告げて、私は終わりの文句を口にした。「じゃあ、またメールかなんかするわ」、と丸井は電話を切った。久し振りに自分の過去を知る人間と話したことでどっと疲れが襲ってきた。目を閉じると彼のことばかりが頭をよぎる。早めに連絡を取りたかったけれど、それができなかったのはこうなるのが目に見えていたからだ。忘れたくて逃げてきた癖に、話題の半分は彼のことだった。丸井という人に電話したせいもあったのだが、どうにもこうにも私の立海での生活に彼は必要不可欠な存在らしい。彼のことを本当に忘れることができる日がくるのだろうか。離れている分、どうしてるのか、と気に悩む日も少なくない。もっともっと時間が必要なのはわかっているけれど、追いつかない心が寂しさだけを訴えるのだった。 「どうして私じゃ駄目なんだろう」 なんとなくこぼれ落ちた台詞に、自嘲じみた笑みが浮かんだ。自分から逃げておいてまだ彼を求めるなんて馬鹿げている。私がどうして無理を言ってまで氷帝に移ったのか、その真意を忘れてはいけない。代わりになんてなれないし、代わりになんてなろうとも思わない。ただただ、嫉妬を積み重ねるだけなのだ。醜い自分を見たくないためにまた蓋をきつく締める。はやく学校に行きたい、千佳に会いたい、そう思いながら布団にくるまった。軽口でああいう風にいったけれど、しばらく丸井とは連絡を取れそうにない。 ( material by.zirco:n ) 100509 |