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 がらり―人気の少ない音楽準備室の倉庫へと続く扉を開ける。休憩時間中ということもあり、外は騒がしいが、最上階の音楽室までくると辺りはしんとしていた。校内放送も終わっている時間帯である。私は、一目散に楽器庫へ歩いた。ぱかり、と金属の匂いがするそれを開く。取り出したのは、銀色に光るマウスピースだった。

 ユーフォニウム、という楽器の名前を聞いたのは初めてだった。音楽の基本的な知識があるといってもあくまでそれは楽譜上の知識。実際に習っていたのはピアノ程度なので、吹奏楽に使われる楽器がどのようなものか、いまいち把握できていなかった。特に金管楽器になると、目立つであろうトランペット、トロンボーンは除くとして、ぐるぐる蝸牛みたいな楽器、でかくて恐らく低音がでるのだろう楽器、それのミニ版、という形象的な特徴しかわからなかった。先輩に、「貴方はユーフォに行ってもらうね」と言われた時は何それと正直思ったくらいである。

 実際に見てみるとぱっとしない形だった。蝸牛とどでかい金管楽器に挟まれてはそう見えるのも仕方がないだろう。しかし、先輩が試しに吹いてくれた音は、とても柔らかかった。ハリのあるトランペット、トロンボーンとは違う、甘く低く緩やかな響き。その音はホルンと似通っているとよく言われるが、ホルンの音よりももっと芯のある太さだった。私はその音を聞いて、すぐに気に入ってしまった。「あまり、目立つ類いの楽器ではないんだけれどね」、と先輩は零していたけれど、とても魅力的だった。優しい音にこんな音が自分で出せるようになるのだろうか、出してみたい、と強く思ったのだった。

 それから、初心者である私はこうしてお昼の数分間の間に練習にやってきているのだ。千佳も吹奏楽馬鹿なので、私に付き添って教えてくれている。まだ私はマウスピース……楽器を吹く前に克服しなければならない段階なので、同じ金管楽器である千佳でも指摘は可能だった。ブーブーと振動させるマウスピースを楽器本体に付けるだけであんな音が出てくるのだから、楽器というのは不思議なものである。今日は千佳は委員会で呼び出されたので一人でこうしてきてるのだが、目標には中々達せなかった。ロングトーン、といい、息を吸わずに一定の長さできるだけ同じ音量でまっすぐ音を伸ばす練習が上手くいかなかった。保てないのだ。鏡とメトロノームを設置して、口に付けた。と、隣の音楽室の扉が開く音がする。同じ一年生か、と思いひょいと覗いて見れば、跡部がそこにいた。

「なんで跡部くんが……告白、じゃなさそうだしなあ」

 一年の間で彼以上に人気のある男はいないだろう。編入したての私でも氷帝で誰が最も人気があるのかということはすぐにわかった。跡部、忍足、などテニス部の面子は氷帝、立海関係なく話題に上ることが多い。特に跡部などは逸脱していた。傍から見ていればわかることだ。頭がいい、スポーツ万能、責任感も行動力もある、更に顔も最上級……これで飛びつかない女の子がいたら見てみたいものだ。そんな彼なので御昼休みにわざわざ音楽室とは、どこの可愛い女の子から告白だろうと関心を惹かれたのだ。しかし、彼は一人で中に入ってきた。

 ピアノの蓋をあけて、旋律を奏でる。角張った指先が、壮大な音を生み出していった。激しく、そして力強く鳴り響く音楽に私はごくりと生唾を飲み込んだ。今までろくにコンサートなど行ったことはないが、半端なく上手い、ということだけはわかった。それまで力強かった音がからりと優しい音色に変わる。その変化に驚きながらもじっと、彼の引く様を眺めているとふ、と視線をあげた彼とばっちり目が合ってしまった。あ、と思った時はもう遅かった。ぴたり、とその手は動くことを止めてしまった。

「……そこで何してる?」

 きつい視線が刺さってきて、私は罰の悪い顔をしながらのこのこと準備室のドアから出た。

「ごめん、邪魔するつもりは微塵もなかったんだけど」

 言い訳らしい言い訳が見つからなくてもごもごと口だけが無意味に動く。跡部は呆れたように私を見た。

「別にそれはいい。が、人が出入ることのない楽器庫から視線がすれば誰だって驚くに決まってる。気をつけろよ」
「……本当にすいません」
「で、何してたんだ?」

 同級生に叱られたとは思えない居た堪れなさを感じながらも、跡部にマウスピースを見せた。それを見て、吹奏楽部だったのか、と一言漏らした。

「トロンボーン、それともユーフォニウム?」
「ユーフォ二ウム。……なんでその二択?」
「他の楽器はそれぞれ特徴があるが、この二つはマウスピースの形が一緒だろう。それだけだとわからない。知らなかったのか」
「まだ楽器に触り始めて一週間も経ってないから……跡部くんは博識ですね」

 ぽつりと零せば、「常識だろ」とあっさりとした言葉が返ってきた。いちいち態度が厳しい。喧嘩を売っているとしか思えない。しかし、演奏を中断してしまったのは私なので更に怒らせてしまうようなことを口にするはずもなかった。

「何弾いてたの?」
「ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番、第一楽章」
「へえ」
「有名どころだと思うが。お前、それでも吹奏楽部員かよ」
「吹奏楽部員です!知らないことはこれから知っていけばいいの」

 それよりも私は彼のピアノの方が気になっていた。先ほどの音がまだ耳に残っている。私の視線がちらり、とピアノへ移ったとともに跡部も自分の指先にあるものを見た。

「跡部くんてピアノ上手いんだね。……何年くらいやってるの?」
「三歳から今まで。習ってるわけじゃねぇが、定期的に弾いてはいる」
「へえ……」
は音楽経験はあるのか?」
「小さいころにちょっとピアノやってたくらいですぐ止めたし、経験ってほどではないかなあ。千佳に誘われなかったら吹奏楽部もアウトオブ眼中だったっていうのが正直なところ」

 そういえば、と彼の目線がマウスピースへ向った。

「練習してたんじゃねぇのか」
「いや、しようと思ったら綺麗な音色が聞こえたのでついつい」
「音楽に関心を持つのは結構だが、時間を惜しいならこんなことしてる場合じゃねぇだろ」

 昼休みは短い。端的にそう指摘する跡部にますます心臓に突き刺さるものがあった。だって、と言い訳する間も与えてくれない。マウスピースが上手く吹けなければ、楽器に触らせてもらえないのだ。それは死活問題だった。急ぐわけではないけれど、他の経験者の子はとっくにその段階を超えている。出だしが違うのだ。私が焦って昼休みにも練習しているのはこういう理由もある。跡部はそれをまるで自分も吹奏楽部員であるかのように見透かして、にや、と笑った。自分で自覚していることを他人に無遠慮に言われると想像以上にぐさっとくる。

「ごもっともで。けど練習に戻る前に一つお願いが」
「何だ」
「いつでもいいから、さっきのラフマニノフ……だっけ?それの続きを聞かせて欲しい。今度はちゃんとおんなじ部屋で」
「俺のピアノはそう簡単に聞かせてやるほど安くない」

 きっぱりと断られてしまった。しかし、なんとなく予想できたことだったので、「そうですか」とその言葉しか出てこなかった。こういう奴だよ、跡部は、とそれだけで納得してしまうのである。同じ学級委員でありながらそんな殺生な、と思ったがこれ以上口にするのも気がひけたので最後にごめんと一言だけ零して楽器庫へ戻ろうと踵を返した。

「あ、そういえば」
「なに?」
「来週の月曜の昼にまた学級委員会だと。この間話しあった結果まとめとけよ」
「……了解」

 一瞬、気が変わった、と言われるのではないかと期待して振り返ったのだが、事務的な報告をされただけだった。うん、やはり跡部はこういう人だ。いつかきちんと聞かせてもらえる日がくるといいな、と思いながら今度こそ準備室へと戻った。






  
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