06



 激しい音が鳴り響いている。ここは音楽室だった。私は吟味に吟味を重ねて、結局千佳と同じく吹奏楽部に入部することにした。授業以外で足を運んだことのない音楽室に入るのは緊張する。四月に入ってまだ二週間程度なのでそれなりに体験入部者がいることが救いだった。ちょこんと後ろの方でいすを並べて座っている一年生と思われる子たちの横に座り、合奏を見学した。千佳は経験者ということもあり、最初の音合わせ―これをチューニングという―に参加させてもらえているようだ。各楽器一本ずつ丁寧にそれを行った後に徐々に重ねてハーモニーを作り上げる。低音から高音に上がるにつれて、本当に音が膨らんでいく感じがした。厚みが増すというのか。まだ合奏が始まって十五分程度。そこまでなら私も意識を保っていられたし、真剣に指揮者と向き合う千佳の姿は新鮮だったのでどうしても目がそちらに移ってしまった。

 一年生はチューニングが終わった後に外にでて各個人で基礎練習を繰り返す。いきなり曲に参加するというのははやり困難なことらしかった。見学者は合奏を引き続いて見学をする。しかし、元来クラッシックというものにこれっぽっちの知識もなかったせいで先輩達が練習している曲はいいおやすみミュージックにしかならなかった。たまたまこの時から夏の吹奏楽コンクールに向けての練習が始まる。それが終われば一般向けのJポップなどの曲を練習するそうなのだが、如何せん時期が悪かった。しかし、途中で気持ち良くなってうとうとしてしまうのは、それだけ氷帝の吹奏楽部の音が綺麗だから。……と素人の言い訳にしては上出来ではないだろうかということを繰り返し考えていた。

「どうよ、吹奏楽部は」
「どうもこうも……すんごい眠かった。耐えられないかも私」
「ははは、まあ、最初はそうかもね。クラッシックに興味がないなら尚更だ」

 千佳は帰り際に目をこすりながら訴える私を見て苦笑いした。

「聞く側と吹く側じゃあまず違うからね。合奏中に眠くなることは……まあ、あんまりないから平気だよ。楽器は吹いてみた?」
「うん、先輩が言うには金管楽器の方が向いてるってさ。打楽器はやめとけって言われた」
「打楽器はリズム感が必要だからね」

 打楽器は人が必要らしく、簡単な体験をやっているときに先輩がなんとも複雑そうな目でこちらを見ているのがわかった。その期待にこたえられなくて申し訳ない。しかし、様々な楽器を体験させてもらったが、木管楽器のマウスピース……リード、というのだがそれは簡単に音を出すことができて嬉しかった。ピーっという高い音が響いた時は自分にも出来るものなのだと感動した。また、そのあとに金管楽器を吹かせてもらったのだが、これは中々難しくぷすぷすといった音しか出なかった。それでも、なんどかコツを教えてもらうたびに少し振動するようになったので「向いてるね」と言ってもらえたのだ。希望する楽器が特にないのでどこに配属されるからない。人数バランスもあるので、最終的には先輩たちが決めることになる。……不安もあるけれど、ただただ、違う道を歩み始めたという事実が私の期待を押し上げた。私は今、彼女とは違うことをしているのだ、と。





 千佳と駅前で別れたあと立ち寄ったコンビニで見慣れた制服が見えた。氷帝学園のものだ。私の家からは随分近い場所にあるので、知り合いではないだろうか、とちらりと顔を伺った。男ものの制服に背が高くて黒い髪の毛。忍足侑士だ。以前食堂で出会ってからそれっきりだったが、私は忍足にそういい印象を抱いていない。不自然に慣れ慣れしくしてくるところだとか、その割に言葉に棘があるところだとか。初めて会った時はそういう印象を感じない、只のイケメンだったはずなのに、明らかに二度目以後印象がガラリと変わった。近づきすぎると背後によく見知った人物の影がちらつくせいもある。キイ、と半開きになったドアを静かに閉めてそのまま後ろを振り返って、コンビニから離れた。

「家が隣だから、鉢合わせるのも仕方がないか」

 忍足を避けて暮らすことは難しくなりそうだ。それなりに交流を保ちながら、上辺だけ仲の良い関係で無難にいけないだろうか。

ちゃん?」

 駆け足で歩いたつもりなのに、何時の間に会計を終えたのか忍足が後ろをついてきていた。ひく、と口元が引き攣った。

「今帰り?」
「うん、そう」
「随分遅いなあ……部活始めたん?」

 質問攻めにしながら自然な流れで私の横に立った忍足をすごく恨めしいと思う。オブラートな強引さが見え隠れするその対応に、やはり彼は侮れないと再確認する。帰る場所が同じなので、一度会話に持ち込まれたら自然と一緒に帰るはめになるのだ。私は忍足の言葉に、うん、とまた小さく頷いた。苦手苦手、と脳内で繰り返していたら対応もどこかぎこちないものになってしまう。義務的な返事しかしない私をどう思ったのか、ふうん、と軽い相槌を寄こした。

「残念やなあ、ちゃんさえよかったらテニス部のマネージャーに」
「有り得ないから。マネージャーなんて性に合いません」
「せめて最後まで言わせてや。で、何部にはいったんかな、ちゃんは」
「吹奏楽」
「ああ、藤井千佳ちゃんも確か吹奏楽やったっけ」

 食堂で途中からやってきた千佳のことも彼はよく覚えているようだ。持ち前のコミュニケーション能力で、始めは見ず知らずの美形男子に戸惑っていた千佳といかにも自然な流れで会話を始めたのだ。この人、女関係激しそうだな、と私はそのとき悟ったのである。

「それだけが理由じゃない。単純にやってみたいと思ったから入ったの」

 私の言葉に、忍足はちょっと目を細めて、笑った。

「俺、そういうところ結構好きやで。意地悪いうてんのわかとって逆に立ち向かってくる強気なとこ。……というわけで俺と付き合わへん?」

 足が止まる。忍足は今、何といっただろうか。さらり、とまるで今日の晩御飯なんだろうね、という軽々としたのりで相当重要なことを口にした。ムードもへったくれもない会話のついでに言われたようなものだった。どう見たって本気でないことはわかりきっている。遊び半分、からかいついで。本気で嫌な性格をしているなあ、と眉を歪めずには居られなかった。じっと造りの良い顔がこちらを向いているので、感情に素直に反応してしまった顔の筋肉を全力で動かしできるだけ綺麗な笑顔を作った。

「お断りします」
「即答かい」
「冗談を真面目に受け止めてる暇はないから」

 ふん、と鼻を鳴らして睨みつけた。振られても笑顔がこぼれている。それこそ冗談である確固たる証拠だろう。そこはかとなく距離を空けながらまた歩行を再開すると、困ったように微笑みながら忍足が追いかけてきた。

「別に冗談ちゃうよ、ちゃんのこと気にいっとるし」
「ありがとうでも忍足くんって私のタイプじゃないんだごめん」
「超棒読みやん……手ごわいなあ」

 これだけはっきりと断っているのに、めげずに付きまっとってくる忍足の方が手ごわいのだけれども。私は言葉にはしなかったが、そういう意味合いを込めた視線を送った。へらり、と笑う綺麗な顔が憎たらしい。歩き進める間もなにかとちょっかいを掛けてくる。一度でも、彼に似ていると思った自分が馬鹿みたいだった。飄々としていることはあっても、こんな人の心を抉るようなことは決してしなかった。こちらが真摯に接すれば、同じように返してくれていた。そう思うとぎゅう、と胸が苦しくなって目の前の男により一層苛立ちが募った。

「そういう台詞は本当に好きな人に伝えるべきだと思う。軽々しくそんなことを言わないで。ぶっちゃけウザい」

 吐き捨ててマンションへ駆け込みエレベーターのドアを閉めた。これ以上関わり合いたくないが、あの調子では今後も言い寄られるだろう。何しろ家もクラスも隣である。上手くいき始めていた新生活に忍びよった陰に大きな溜息を吐かずには居られなかった。






  
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