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 一週間も経つと姉も学校が始まった。大学生であるので講義の時間はまちまちで、必然的に一限が入っていない時は自ら朝食とお昼の支度をしなくてはならない。実家にいたときは全て母がやってくれていたので、見事なまでに料理のできない私にはすごく困難なことだった。けれど、家事や料理は分担すること、と送り出してくれた両親に約束付けられたのでこれから少しでも覚えていければいいと思う。いずれは必要になる能力であるのは間違いないのだ。けれど、さすがに忙しい朝にお弁当までも作るのはまだ難しかったようで、朝ごはんだけなんとか支度して家を出た。お昼ごはんはコンビニでおにぎりでも買えばいい。カチャリ――とぐっすり寝ている姉を起こさないように静かに玄関の扉を閉めて、鍵を掛けた。そして、それと同時に隣の人のドアも開く音を耳にした。

「おはようございます」

 このマンションにきて初めて人に出会った。私だけが越してきたので隣人に特に挨拶にもいかなかったのだ。当たり障りのないようにぺこり、と頭を下げる。向こうも私の声に気がついて会釈を返してくれた。長身の男の人だった。丸い眼鏡をかけていて少しばかりミステリアスな雰囲気を醸し出している。もてそうな感じの人だ。そして、私を見て、少し考えたように首を傾げた。

「由希さんの妹さん?」
「はい、由希は私の姉です。いつもお世話になってます」
「いや、それはこちらこそ。……というか、由希さんって一人暮らしやったような気がするんですが」
「私も先日越してきたんです。高校がこちらなんで」

 よろしくお願いします、ともう一度頭を下げた。彼も丁寧にし返してくれる。驚いたことに彼の話し言葉のイントネーションは関西だった。初めて聞く関西弁に、うおー、と小さく感動が漏れる。東京や神奈川に住んでいると中々方言らしい方言には出会わないので新鮮だった。一部、どこの言葉かもわからない混ざった方言を使っていた人もいたけれど。

「その制服……氷帝学園?」
「そうです。すぐわかるなんて、やっぱり氷帝学園って有名なんですね」
「いや、俺も氷帝やから」
「え?」

 苦笑して彼は答えた。私は制服を身につけているけれど、彼は明らかに部屋着のような黒の無地のシャツにジーパン姿なのでわかるはずもない。まだ登校時間まで時間はあるので、なんら可笑しくない格好である。ほほう、こんなにカッコイイ先輩がいるなんて氷帝も捨てたものじゃないな、と感心していたら彼はとんでもないことを口にした。

「クラスは一緒じゃあらへんよな、見たことないし。何組なん?」
「A組ですが」
「Aか。なら、跡部景吾とかいう偉そうな奴おらん?無駄にオーラがあるやつ」
「偉そうかどうかはわかりませんが、無駄に目立ってる跡部景吾という名前の人ならいます。……というか、同い年なんですか?」
「ぴちぴちの一年生や。ちなみにB組な。隣やからなにかと顔合わせることも多いんと違うかな」

 同い年という事実に驚きを隠せなかった。余裕で二つ上の三年生かな、と咄嗟に思っていたし、もし同じ学校だということを彼が告げていなければ姉の大学の友達と間違っても可笑しくないほど大人びている。部屋着だからそう思わせるだけなのだろうか……とりあえず、大人っぽいことには変わりがなかった。私の驚きにも慣れているのだろう、少しだけ苦い笑みを浮かべた後にさっと手を出した。

「俺は忍足侑士、よろしくな」

 私も自分の名前を告げて、そっと手を握りしめた。彼が氷帝内では名の知れた有名人だということを教えられるのは、まだ先のことだった。なのでこうも好意的に答えてしまった自分に後々ものすごく後悔することとなった。



 その後、忍足と別れた私は時間があるのでゆっくりと自転車を漕ぎながら登校した。登校途中にコンビニに寄ることも忘れない。新作の菓子パンが入荷されていたので、それとおにぎりの定番のツナを白いビニール袋に入れてふんふんと鼻歌を自然に紡いだ。学校に着くと、教室にはまだ人が疎らだった。私だってこんなに早く来ることは滅多にないので全然不思議ではない。ただ、私がきてから数分後に千佳が現れたので一人で暇つぶしをするようなことはなかった。

「おはよー。今日は早いのね」
「おはよー。ちょっとさ、朝練を見学しようかと思ってね」
「ああ、部活の?……放課後行けばいいのに」
「放課後どの部活に行くか決めるために、朝練をチェックしてんの」

 頬杖をつきながら窓の外を観察する。いい声を出して走っているのは女バレで、トラックの中では陸上部が軽くランニングをしている。その奥ではサッカー部がコーンを使ってボール回しの練習をしているし、テニスコートでは男女共に球を打ちあっているのが聞こえる。氷帝も硬式テニスが行われているのか、黄色のボールが目に痛かった。テニスコートを見るとどうしてもチラつく影が合って咄嗟に視線を千佳へ戻す。黙って私の隣の席へやってきた彼女は、なにその理屈は、と溜息を吐きながら椅子に座った。

「そんなに候補あんの?」
「今までバスケ以外眼中になかったからさ、いざやってみようとなるとすっごい迷うんだよね」
「そこまでバスケ好きならバスケしなよ……」

 最もなことを突っ込んでくる千佳に苦笑いした。でも、こればかりは譲れないのである。とにかくバスケ以外……そして、テニス以外でやりがいのありそうなものに高校では挑戦したい。バドミントン、バレー、陸上、フットボール、卓球、女子ソフトボール、なんでもどんとこいである。指折りに数えていけば呆れたような視線が降りかかってきた。

「見事に運動系ばっかり」
「文化部はイマイチなにがあるのかわかんない」
「……いやさ、さえよかったら吹部入んないかなって少し思ってたんだけど」
「吹奏楽?」
「そう。私、中学から吹部やっててさ、こっちでも続けるつもりだから悩んでるなら一緒にやんないかな、と。でも、文化部に興味がないならいいんだけどね」
「いや、興味がないことは無いよ」

 ただし、今までの自分の人生の中に音楽という単語が出てきたのは小学生のころまでの話なのですっかり抜け落ちていた。幼いころはそれこそピアノやお歌なんて習わされたものだが、その頃から同時進行で小学生で成るバスケ同好会みたいなものに参加していたので途中できっぱりやめてしまった。それに、部活イコール体を動かすという方程式が成りあがっていたのかもしれない。そうか、吹奏楽か。新しいことというジャンルには一番近しいかもしれない。幸い、楽器を吹くという体験はないけれども音楽記号などの知識はそれなりに眠っている。それに吹奏楽といったら甲子園。青春を味わえる暑い夏が私を待っている、……かもしれない。

「私が一昨日行ってみたときは高校から入ってる人もいるから、知識とか無くても全然平気だって言ってた。もしよかったら見学おいで」
「うん、そうする。……千佳はなんの楽器してるの?」
「トランペット」
「おおー、花形じゃん。でも千佳にはフルートとかの方が似合うような気もする」
「トランペットは華麗な感じでまたいいんだよ」

 ふうん、千佳が吹奏楽部だったなんて……と零したところで、はっと気がついたことがある。お洒落な彼女は化粧も毎日完璧のごとく施しているのだが、そういえば。ふっくらとしたその口元はいつもすっきりとしていて軽くリップを塗っているところしか見たことがない。目はマスカラばっちりぱちぱちで、頬もほんのりピンクを帯びている。なのに口元だけは薄いリップのみ。部活見学は自由だったのでこの間幾度か吹かせてもらっていたのだろう。彼女が口元にルージュを塗らない理由を悟ったような気がした。そして、なんとなくそこに彼女なりの情熱があるよう感じたのだ。








  
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