02 天気は快晴。東京の空は真っ白な雲一つなく、済んだ青に染まっていた。ダンボールで埋まってしまったフローリングの廊下をはだしで歩く。春といってもまだまだ気温は寒く、靴下がなければひやっとするほど寒い。中途半端に制服を纏ったまま、リビングへ入った。焼き上がったトーストと香しいコーヒーの匂いが鼻にふんわりとした刺激を与える。ぱっと音に反応して顔を上げた一人の女性が私ににっこりとほほ笑えみかけた。 「おはよう、。制服似合ってるね……私も一度は着てみたかったな」 「ありがと。でも私はセーラーの方が羨ましいんだけど、……ってそうじゃなくて」 五つ歳の離れた姉はまだ大学は春休み中ということもありのんびりと朝食を貪っている。ほんわかとした性格は私にはまるで似つかない。ただ、正直今ばかりはその緩やかな掛けあいを続けるわけにはいかなかった。ちらりと視線を移した掛け時計の秒針を見て、はっと背中に嫌なものを感じた私は焦って大きな声を出してしまった。 「由希姉!……、ごめん遅刻しそう」 入学式だというのに。式は十時からなのだが生徒は八時半には教室に集合していなくてはならない。現在時刻はぎりぎり八時十分、本来ならば式には両親が出るはずなのだけれど生憎用事が被ってしまい彼らはここにはいない。変わりに姉である由希が式にでてくれるはずだったのだが当の本人は式は十時からだと認識していたので私の集合時間なんて知るはずもない。顔面蒼白のままそうつげれば、え、と一言漏らした後にがちゃんとその場から立ち上がった。 「ここから氷帝まで自転車で十五分だけど道順をまだきちんと覚えてないでしょう。……だから、最初は早めに起きて行きなさいっていってたのに」 「ごめんなさいホントごめんなさい!後生なので車で送ってください!」 「……靴下はいて、この食べ掛けのパンをお腹に入れときなさい。コンタクト入れてくるから」 「やった、ありがと由希姉!」 もつべきものは歳の離れた姉である。免許を会得していたら尚のことラッキー。車のキーを片手に洗面所へ行く姿を見送りながら私は慌てて靴下に足を通した。今まではお母さんがどんなことがあっても起こしてくれていたが、これからはそうもいかない。わがままを言って一人暮らしを満喫していた姉のところへ転がり込んでいるのだから、せめて姉の迷惑にはならないようにしなくては―と決心したのは随分と前からだった。さっそく一日目から多大なお世話を掛けているのだからどうしようもない。優雅な朝食を邪魔されたことにぷんすかきている彼女に心の中で謝りながら少しさめたパンにかじりついた。初日からこの慌てようはないだろうとさい先を懸念しながら。 転校先となる氷帝学園はとても広かった。ただし私が中学の時に通っていた立海大付属も引けを取らないくらいだったので広さにはそもそも感動が薄い。しかし、その内装といい設備といい新しさでいえば断然氷帝学園は群を抜いていた。一言で表せば、ゴージャス。ただならぬ噂がこの学校にもあるがお嬢様お坊ちゃまが通う学校として有名なのも頷ける……設備や外見からしてこれでは、ねえ。立海大も負けてならないくらい歴史ある学校だが、その歴史の在り方が聊か建物に表れているようだ。仕方ない。車で向かえば十五分の道も五分になる。ギリギリ五分前の玄関口には既に生徒の姿は疎らだった。姉のかわいい軽自動車から飛び降りるように出て、片手をあげていってきます、の言葉をいいクラスわけの表へ一目散に走った。一体何組あるのだ、といわんばかりの表の長さに焦りを感じながら、最初から目を通していく。……。 「あ、Aクラスだ。ついてる!」 一番最初のクラスに名が存在していた。時間短縮に大いに役立つその順番に、神様はまだ見捨てていなかったのだ、と一人で納得し、急いでクラスに駆け込んだ。初日から遅刻など言語道断。第一印象が最悪だ。それだけは避けたい。1-Aは一階にあるらしくそのまま階段を上がらずに長い廊下を歩いて行った。人ごみがぽつんぽつんとあるのでまだ先生は到着していないのだろう。すっと緊張が和らいだ。教室の中も割とがやがやとしていて、さっと入りやすかった。想像していたよりも、賑やかな教室に違和感を覚えながらも出席番号順に並べられた席に腰を下ろす。入学式……といったらもっとこう、見ず知らずの人間に囲まれて緊張して静かなイメージがあったりするのだが、この教室といったら随分と和んでいる。ところどころにポツンとしている人も見かけるけれど、大半は仲良さげに会話が交わされている。 「あなた、もしかして外部組?」 顔を上げれば、少しきつめの美人というような外見の女の子がこちらへ話しかけてきていた。クラスに入った時も思ったのだけれど、この学校の美人率は半端ない。お嬢様の代表と言わんばかりの整った顔に若干抵抗を抱きながらも頷き返した。なんか、性格悪そう……。 「そうだけど……?」 「私も外部組。よかった、なんか周りみんなグループ出来ちゃってて……氷帝って持ち上がりが多いって聞いてたけど、ここまでとは思わなかった」 「だからこんなに賑やかだったんだ。納得」 「そう。そして、女子は私とあなただけみたい、今のところ」 彼女がちらりと一人で静かに座っている男子生徒三人に目線を寄せた後小さくため息をついた。私も、氷帝に中等部があることは知っていたが、こんなにも外部受験生が少ないとは思ってもみなかった。立海大付属も似たようにエスカレーター式ではあるものの、都市への進学を目指して他の高校へ行くものが割と多いのでその分他の公立中学から生徒を受け入れようと躍起になっている。そのため高等部では半々の入れ替わりがあった。こちらも対して変わらないだろうと踏んでやってきたら、この始末だ。オープンスクールの時は割と人が多かったように思うのだけれど……。思考を巡らしていると、その美人さんがにっこりと微笑みかけてきた。 「でも一人でも見つかってよかった」 「私もそれは同じ。……ええと、名前なんていうの?」 「藤井千佳、出身は不動峰中。あなたは?」 「、で、出身は神奈川の中学」 千佳は外見からくるイメージに反して、明るく社交的だった。こうもっとツンケンしている印象を与える顔のパーツではあるが……どちらかというと面倒見のいいお姉さんといった感じだ。ギリギリに入ってきた私にさりげなくクラスの様子を教えてくれたり、入学式後の教科書販売についても話してくれた。ただ、先生が入ってくるのに時間はかからず少し話をしただけで一旦停止となった。じゃね、と手を振ってくれたのが嬉しい。東京に来て友達第一号ができた。 思えば、知り合いの全くいない場所に入り込むというのは初めての体験だった。これといって転校をしたこともないし、小学校から中学校へ上がる際も受験組ではあったもののその中に友達がいないことはなかった。友達作りが下手というわけではなかったけれど、これだけ内部組に囲まれている中で溶け込めるかどうかは中々至難の業だ。同じ境遇の人が一人いるだけでも心強い。体育館へ移動する前にちらっと眼が合ったのでへらりと笑い返した。 入学式はあっけなく終わった。昨晩の寝不足がたたり、途中は少しだけうとうとしてしまったけれど、最初と最後の立ち上がって礼をするところだけは器用に起きていた。そのあと、千佳と一緒に―なんだか一気に打ち解けてしまい、既に呼び捨てである―教科書販売にいって、入学式後に待ち合わせた姉に車で送り迎えをしてもらった。姉、さまさまである。いきなり友達を連れて来ていたことには驚いたようだが、私らしい、の一言を告げてきちんと送り届けれくれた。帰りの車の中で、千佳は見ず知らずの人の前にでると途端に口下手になる姉に対しても気軽に話しかけていた。彼女は間の取り方が上手なのだと思う。話していて、変な緊張感や違和感がない。 「いい子じゃん。……よかったね、結構身構えてたでしょ」 「由希姉にはばればれだったか……」 「まあ、の場合は特に。一人で新しい地に臨むことなんて無かっただろうから……余計にそう思ったんだけど。でも、上手くやれそうね」 「うん、ありがと」 姉妹なだけあって、よく見られている。気恥ずかしさを半面抱えながらも、これから始まる新生活に胸を高鳴らせているも事実だった。早く早く―と急かすように、思い出が駆け巡った。新しい場所、新しい人、早くそれでいっぱいにしたい。過去のことを今はただ隠してしまいたかった。 ( material by.zirco:n ) 100131 |