ある昼休憩、校舎の階段沿いのあまり目立たない自動販売機の前に桑原はいた。今日はいつももってくるお茶を忘れてしまい、自腹で飲み物を買わなければならなかったのだ。正直、今月のお小遣いもそこをつきそうな桑原にはきつかったが飲み物が無いというのもきつい。割安である外の自動販売機にこうしてわざわざ足を運んでいたのである。ここは、三年校舎からは距離があるのであまり頻繁に人はこないのだが今日ばかりは先客がいた。同じ学年だが、一度も同じクラスになったことが無いという女子だった。彼女は自動販売機に抱きつくようにして背伸びをしていた。 桑原は手が届かなくて必死に腕を伸ばすを後ろからじっと眺めた。彼女は見たところ150cm以下くらいしかないのではなかろうか、一番上の段のボタンを押すのことに苦戦しているようだった。女子が好みそうなミルクティーや果物ジュース類はほとんど下にあるというのに彼女は一体何を飲もうとしているのだろうか。ぐぐぐとかかとを上げて震えている姿があまりにも可哀相になったため、意を決して桑原は彼女に声をかけた。 「どれが欲しいんだ」 ひくりとの背中が固まった。そして、恐る恐る後ろを振り向かれる。至近距離でばっちりと目が合えば、恥ずかしそうに視線を逸らされた。あれだけ必死に背伸びをしている姿を目撃されれば恥ずかしがるのもわかる気がするとその時桑原はあまり気に留めてはいなかった。身長が十分すぎるほどある桑原は余裕でボタンに手が届く。中々口を開かないに再度問いかけた。どれを押そうとしていたのかと。 「二番目の」 か細い声でぽつりとそう零した。桑原は「二番目ね」と確認のつもりで復唱しながらボタンを押す。彼女が飲もうとしていたのは牛乳だった。なるほど気にしているんだなと内心は思っていたが口には出さなかった。言葉にしてしまったら彼女が傷ついてしまうのが目に見えていたからだ。今でさえ屈辱的なのかどうなのか顔を思いっきり歪めている。彼女は素早い動作でがこんと落ちてきた牛乳を手にとってパンが入っている袋に隠した。 桑原は見なかったことにして自分も珈琲を買うために120円をちゃりんと自動販売機に入れた。こういうのは知らない振りをするのが一番だ。なによりとはちゃんとした知り合いではない。人数がとても多いマンモス校の立海大ではよくあることだった。無糖の珈琲を慣れた手つきでぴっと押して、手に取り後ろを振り返るとそこにはまだが立っていた。視線は合わない。がずっとやや斜め下を見つめているせいだ。まだ何か買うものがあるのだろうかと首を傾げながらも、桑原はあとにしようとした。 「ありがとう」 ぼそりと呟かれた。去り際に言われた言葉はとても小さくて、桑原は何とかそれを自分の耳で拾い上げた。お礼を言うために待っていたようだ。彼女の律儀さに教室に戻りながらくくくと喉を震わせた。 それから二週間後、桑原はまた自動販売機の前でジャンプをするに出会った。とんとんとリズムよく跳ねる姿はまるで子ウサギの様で、自然と目元が下がった。ひらひらと弾みに合わせて揺れるスカートに目線を合わせてはいけないような気がして、早足での隣に並んだ。また「どれ」と聞く。彼女は「二番目の」とこの間と同じ言葉を繰り返した。学ばない人間だと思ったけれど口にはしない。桑原はぴっと牛乳のボタンを押した。勢いよくキンキンに冷やされた牛乳が落ちてくる。牛乳を買う人間は限られているので、入れ替わりが少ないのだ。よく冷えているに違いない。はそれを慌てて拾い上げて、懐に隠すようにして持った。 「ありがとう」 「いや。……ここで毎日買ってんの」 今日は家から持ってきたお茶があるため珈琲は買う必要が無い。購買で買ったパンを片手に抱えての隣に立った。は今日も動揺こそしていたが、先日顔を合わせたことを覚えていたのだろう、以前の様な恥じらいはなかった。桑原がなにげなく口にした質問にも淡々と答えてくれた。 「うん。ジャンプすれば、10回に1回は届くから」 「学食に行けば普通に牛乳売ってんのに、なんでわざわざここなんだ?」 「学内で一番濃い牛乳はこれなの」 濃くておいしい爽やか牛乳。パッケージをばんと見せられた。そして学食にあるのは3.2までの濃さしないのだという。桑原はそれを飲んだことがなく、牛乳の濃度に興味がなかったので「そうなんだ」と軽く流した。そもそも桑原家は安さ重視の低脂肪牛乳派である。飲んだことがあるわけなかった。 「そんなに牛乳好きなのか」 「……どちらかというと嫌い」 「聞かないで」と言わんばかりのの眉間に皺が寄った。やはり背のことをコンプレックスに思って我慢して飲んでいるのだろう。それにしても、そんなに憎いものを見る様な表情をして「嫌い」と言わなくてもいいだろうに。それに、無理して毎日牛乳を飲んでいたらますます嫌いになるのではないだろうか。要らぬお節介が桑原の脳内を駆け巡る。ついつい、余計な言葉が出てしまうのはもはや彼らしさとでも言うべきだ。 「でも身長が高くていいことばっかりがあるわけじゃないし、はその高さでむしろ可愛いと思うけど」 どちらかというと童顔な彼女には低いままの方が似合う気がする。それに、男子的には女の子よりも背が高くありたいと望む人は多く、背が低い方が有難いと考える者も少なくはないだろう。モデルみたいに手足が長くすっきりとした体型になりたいと願う女の子は少なくないとは思うけれど。個人的な我儘だなと喉を震わせて苦笑いした。 しかし、は桑原の言葉に疑問符を浮かべたようにきょとんと目を瞬かせた。大前提をあっさりと否定する。 「私が牛乳を飲んでるのは背を伸ばしたいからじゃないよ」 「……え、違ったのか」 「うん」 「じゃあなんで飲んでるんだよ」と聞きたくなるのは当り前である。続きを促せば躊躇う様に視線を左右に動かして、口元に手を当てた。言ってしまっていいのだろうかと表情に書いてある。通りすがりの人物に話す様なことではないよなと桑原は「嫌なら言わなくていいよ」と言おうとした矢先、はぽつりと理由を吐きだした。思ってもみなかったことだった。 「グラマーな女の子が好みだって」 「うん?」 「胸が大きい子が好みだって、聞いたから。桑原くん」 「え」 桑原は自分より何cmも下にある彼女の顔を凝視したため動きが止まった。なんと答えればいいのかわからなかった。視線が知らず知らずのうちに顔から胸へと落ちていく。確かに、それほど大きくはない。手に余ってしまうほどの奥ゆかしい膨らみだった。ぶるぶるぶるとそこで自分の思考を止めるように首を横に振った。そんなことを考えている場合ではない。だって、先ほどの彼女の言葉はまるで。 「それ、告白と受け取っていいのか」 はこくりと小さく頷く。真っ直ぐな目が桑原を見つめている。顔は赤みを帯びていたけれど、逸らすことはけして無かった。からかっているわけではないのだと理解できた。 「えっと……」 言葉に詰まる。確かに桑原は胸がないよりもあるほうがいいと思っていた。しかし、このような健気な態度を目撃してしまって可愛いと思わない男子がいるだろうか。いないと信じたい。桑原は確実にに惹かれていた。ほとんど会話をしたことも無い、名前と顔が一致するくらいの程度の女の子で好きかと言われればまだ疑問が残る。その程度の感情で「じゃあ付き合うか」なんて軽々しく言えるような性格ではなかった。しばし己の中で問答を繰り返した後、桑原はやや照れたように頬を上げた。 「友達からなら。あんまりのこと知らないし」 花が咲いたように笑うというのはこのような笑みのことを言うのだろう。ぱっと明るい笑顔をは見せた。今まで、ぴくりとも口元が笑わなかったので表情が乏しい子なのだろうかと思っていたのだがそうではなかったようだ。「やった」と言わばんかりに小さくガッツポーズをするさまはクラスの女子となんら変わりはなく見えた。 「あ、牛乳、飲んでやろうか。嫌いなんだろ」 「ううん。いいの。頑張るから、だから期待しててね桑原くん」 もう必要もないだろうと思いそう口にした桑原であるが、逆に彼女のやる気を広げてしまったのだろう、先ほどの「嫌い」といった表情は面影も無かった。ご機嫌な様子で牛乳パックを握りしめた彼女の隣を歩きながら桑原も目尻を下げた。 110407 |