プラットホームに電車が入る。生温かい風がふぁさと私の前髪を揺らした。じっとりとした暑さで、額にじんわりとした汗の粒が浮き出ていた。高いベルの音とともに電車のドアが開き、涼しい空気が顔に触れる。それに吸い込まれる様にして私は足を中へ踏み入れた。部活帰りの学生がちらほら座っているが、朝の通勤ラッシュに比べればなんてことはない悠々とした空間である。ドアのすぐ傍、右端を選んでそこに腰を下ろした。ここから約20分間、揺られ続けなければならない。 窓越しに赤く輝く夕日が見える。赤は野を照らし、まるで花が一面に咲いたかのような錯覚を私の目に起こしている。外の光景にぼんやりと視線を向けながら、今日の出来事を思い返していた。数学の問題がわからないと嘆いたり、初めて英語の構文を理解出来たり、気分は一日の間に幾度もローテーションする。後でブログに書こうと印象深い出来事を頭の中で思い出して選び抜くのは下校の時の私の日課だ。最近うちの学校ではブログが流行っている。本来は個人的なものであった日記をわざわざ公開するとは面白い習慣が流行り始めたとは思ったが、友達からコメントを貰えるのが嬉しくて気が付けば3ヶ月も続いていた。今日はどんなことがあっただろうかとぐるぐると脳を働かせていると、カタンと電車が一時的にとまりフシューという音を立ててドアが開いた。次の駅に着いたのだ。私がいつも通り過ぎる、駅の一つ。同時に、懐かしくもあるその駅で思いもよらない人と再会を果たした。私は驚いてしまってひゅっと不自然なほど大きな音が喉から漏れた。 傍から見ればその人の外見はまるで女の子の様である。綺麗なきめ細かい肌に男くささを微塵にも感じさせない顔立ち―むしろ可愛いと言ってしまっていいほど中性的な造りをしている―に、お決まりの様に背負った黒のテニスラケット。運動部が帰宅するにはまだ早い時間帯のはずだと腕時計を確認した。短い針はしっかりと5の字を示していた。日の長いこの時期なら最低でも7時までは部活をやっていて可笑しくないだろうに、とそこまで考えて部活が休みであるという可能性があることがぱっと脳内に浮かんできた。その事項を思いつくまでにどれだけ回りくどく考えていたのか。自分がとても動揺していることがそれだけで解る。彼は、すぐさま私の目の前に腰を下ろした。ドアの付近に座らなければ良かった。誰だって出入りがしやすいドアの付近が空いていればそこに座るに決まっている。この時私は久し振りに焦るほどの後悔を感じていたのだが、次の瞬間、焦りというバロメーターの最大値を叩きだした。 「……さん?」 彼の口から私の名前が零れたのだ。どうして、そこで私の名前を口にするのか私には見当もつかなかった。同姓を持った知り合いがこの電車の中に居たのだろうか。きょろっと付近を目でそれらしい他人を探す。もう一度確かめるように声を少しだけ大きくして今度はフルネームを口にされた。 「さん、だよね?」 違う。断じて私のことではない。同姓同名の誰かがこの電車に偶然にも乗っているのだ。相変わらず視線だけでよそをきょろきょろ見渡している私の傍で足音が聞こえた。近いと思ったのは一瞬で、すぐさま隣に人が座る感覚がした。ふわっとした男の子らしかぬ甘い香りに困惑して、赤の他人を演じることもできず私は彼の方へ向き直った。カチリと視線が合えば、言い逃れはもはや困難である。 「はいそうです」 観念してそう答えた。逃げ出す場も与えられず、詰められた距離に居心地悪く身動きしながら目の前に迫った綺麗な顔を見上げた。すっかり背が高くなってしまって、座っていても顔の位置が大分上を向かないと捉えられなくなっていた。私の身長が伸びてないせいもあるのだろうけど、この時期の男の子の成長具合には驚かされるばかりである。私の返答はきちんと彼の耳に届いたらしい。あまり開かれない目を更に細めてにこっと笑った。小首を傾げて微笑む可愛らしい姿が妙に似合っている。普通の男子高校生が小首を傾げたとところで気持ち悪いとしか思えないのに、どうして彼はこうなのだろうと若干のため息さえ零れた。 「久し振り。僕のこと、覚えてる?中学校が一緒だったんだけど、君の記憶には残ってないかな」 「不二くんだよね。そんな皮肉気に言わなくても、覚えてるよ。一緒のクラスだったから」 「……さっき思いっきりスルーされた気がするのは僕の気のせい?」 「それは……ぼーっとしてたから。ごめん」 不二周助という名前を私を同学年で青春中等部に在籍していた生徒なら知らない者はいない。そう断言しても問題ないくらいの学内でも有名な生徒だった。何故かと言うと、それは美少年といっていいほどの外見と背負っているテニスラケットが理由である。外見がいいことにプラスして彼はテニス部の選手としても有名だった。一方こちらは俗に言うその辺りに居る女子生徒B程度の存在。一緒のクラスになったことがあるとはいえ、高校で別の公立高校を受験しほとんど姿も声も視界に入れることが無い空白の3年間で塵ほどの私の存在なんて全て消し去ってしまっただろうと思っていたのに、彼は私のことを覚えていたらしい。意外である。男の子はもちろんそうだけれど女の子もこの時期は「誰」と言わんばかりの変わり具合を披露する子が多い。つまるところ私は中学時代とそれほど変わっていないということになるのだろうかと、小さく肩を落とした。 「今日は部活無いの?」 「ああ、うん。特に用事もないし、新しいテニスシューズを買いに行こうかと思って。さんは、いつもこの電車に乗ってるのかな」 「そうだよ。中学の時からずっと電車通学」 私は口の滑りが以前よりも大分マシになったということをこの瞬間実感していた。するするとまるで暗記している呪文のようにでてくる台詞たちに、ほっと心が緩む。しかし、安心したのはその時だけでそこでぷつりと会話は途切れてしまう。どうせあと数分しかこの電車には乗っていないのだし、テニス用品を買いに行くという彼も私が降りる駅の一つ前のところで降りるに決まっている。あの辺りには大きなテニス用品を扱っている店があったことを記憶していた。 ああ、早く最寄りの駅まで着かないだろうか。嫌になってきた、とそればかりが頭の中を支配する。しかしそういう時に限って時の流れというのは遅く感じるもので、まだ目的地の半分を通過したところだった。その証拠に大きな川が窓の向こう側に映る。川の畔で草野球をしている少年団の姿が垣間見えた。楽しそうだ。この場から逃れるためにあの中に混じって野球をしてこいと言われたら私は喜んでグローブをこの手にはめただろう。横からじりじりと痛いほど突き刺さる視線から逃れるためならなんだってやってやる。 「相変わらず、だねえ」 不二は私の横顔を眺めながら、ぽつりとそう呟いた。「何が?」と口先だけで問い返してみる。横を向く勇気は出ない。視線が合ってしまったら固まってしまうかもしれない。それほど熱心に彼は私の横顔を見続けている。けして私が自意識過剰なのではない。もし視線が槍となって私の体を攻撃することができるのなら、とっくに私の体は何本もの槍に突かれてぼろぼろになっているはずだ。それほど真っ直ぐ見つめられていた。 「そういうところだよ。僕はこれでも必死にアピールしてきたつもりなんだけど」 「……何を?誰に対して?」 まるで国語の回答欄の問題文みたいだと自分で言っておきながら後悔をする。私の可笑しな言葉遣いも気に留めず、むしろそれに答えるようにきっちりと不二は返した。 「僕が、さんに、アピールしてたの。気が付いてなかったでしょ」 「そんなこと、あった?」 「あったよ。これでも必死だったんだけどなあ」 聞き捨てならない事柄に私はちろりと視線を彼に向けた。待ってましたとばかりに視線が合う。緊張が全身に伝わり動きが鈍くなった。思っていた通り身体は石の様に固くなる。なによりも、アピールをしていたという不二のその言葉は私を混乱させた。そのようなことはけしてなかったと思う。私が中学の時に彼が私のことを特別視していると思い込ませる様な出来事は一度足りてなかったはずだ。会話をしたことも数えるほどしかない。彼はそれは私が極力不二に近づかないようにしていたせいだと主張した。こちらから近づこうにも中々それが許されなかった、頑なな意志が私から漏れ出していたとそう告げる。これには心当たりがあった。なにしろ私は自ら進んで不二周助という人間を避けていたからである。私は当時不二が自分のことを眼中にも入れていないと思っていた。だからこそ、あからさまに避けることができたのだ。もしも彼が言う様に私のことをみじんこ程度にも気にかけていたなら気が付かれていても全く不思議ではない。 「丁度いいから聞こうと思うんだけど、僕そんなに嫌われる様な事君にしたっけ?」 いくらなんでも今ここで正直に「避けていました」とは言えない。言えるわけがない。理由なんてもっての他だ。しかし、「避けてなかったよ」と言うにはあまりにもあの頃の私の態度は露骨だった。曖昧に「そうだったっけ?」と過去を思い返すように視線を逸らして誤魔化す道を私は選択した。 何故、彼という人を特定して避けていたのか。もちろん、私が根本的に目立つ人と話すのが苦手であったという事実があげられるが、なにより私が不二周助と言う人を目で追っていたからにすぎない。避けていたのに目で追っていたなど矛盾するにも程があると思われるだろうが、この世の中に直接関わりたくはないけれど影からずっと見ていたい人物というのが誰の中にも必ずいるはずである。それはテレビの画面の向こうに存在する様な人であったり、人によって様々だろう。つまり私にも自分自ら喜んで関わろうとはせず姿を視界に入れるだけで満足できるという部類の対象が存在し、それが目の前に座っている不二周助であったということだ。 あくまでも白を切りとおすつもりである私の態度を不二はどう思ったのだろう。整えられた眉がぴくりと動き顰められたのは不満の表れと捉えるべきか。表面上は平静をいつも貫いている人で怒ったり、不満を表情に表すことがほとんどない。だから私にはよく彼の感情の起伏がわからないのだ。 「僕は君に近づきたかったよ」 感情を伺おうとしている私の意思が伝わったのか、はあと軽く息を吐いて彼は言った。 「最初はどうして避けられているんだろうということに気が付いて、理由を聞きたかった。目を追うたびにどんどん君としゃべってみたくなっていくし、途中からはかなり必死にもなったんだよ。けど、結構徹底的なガードでことごとく機会は逃すし、あからさまに近づいたら更に嫌われそうだなと思って中々できなかった」 畳みかけるようにそう告げられる。彼の口にした内容は驚くべきことだった。私は彼に憧れを抱いていた。そんな人に関心を持たれていていたということは、嬉しくもあるけれど同時に居た堪れない。この感情をどう表現すれば伝わるのかよくわからないけれど、困っていることには違いなかった。更に彼の言葉からは「ここまで素直に吐露してるのに、君はまだだんまりなの」と責められているような感情も受け取れる。間違いではないだろう。滲み出る雰囲気に観念して私は口を開く。 「一つ、言ってもいい?」 「どうぞ」 「私は不二くんのこと嫌いではないよ。けど近づきたいとか傍に居たいなんて思ったことはなかった。ほどほどに遠くから見えるくらいの距離が心地よかったから」 不二は黙ってそれを聞いていた。理解できなくはないといったところか、とんとんと顎のあたりを触りながら軽く小突いていた。考えているような仕草だった。ややあって、こうも尋ねられる。 「これからは近づいてみたいな、なんて思うことはないの?」 「よく解らない」 「そう」 そもそも、不二周助という人を意識したことが久方ぶりだったのだ。彼の存在を意識して避ける様な生活から2年ばかりも時が経っている。それだけの時間、彼は私の生活の中から排除されていた。今更、こうして彼と出会ったこと自体が想定外だったのだ。それなのに、あの時近づきたいと考えもせずむしろそれと反対の行動を取っていた私がすぐさまそのように考えることができるだろうか。否、できるはずがない。私の返答も彼は推測済みだったのか、肩を軽く落としてはいたけど表情は何一つ変わらなかった。 電車の速度が落ち始めた。不二が降りるだろう駅にそろそろ到着するのだ。私の予想通り、車内アナウンスが聞こえた途端ぴくりと彼の視線が一瞬それた。やっと解放される。ほっと胸を撫で下ろした私の吐息を鋭く彼は聞いていたようで、余所に向けられていた視線が一瞬で元に戻ってきた。もう少しそのまま外を見ていてもよかったのに。 「また来週ね」 ぶつぶつと脳内で文句を浮かべていると、恐ろしい言葉が聞こえた。私はえっと電車の揺れに合わせて立ち上がった彼を見上げる。座っている私は首をぐっと逸らさないと彼の顔を視界に入れることができなかった。 「1週間後、僕は同じ電車に乗るよ。さんは会いたくなかったら、時間をずらして乗ればいい。それまでによく考えてほしいんだ。僕は、今でも、さんに近づきたいから、その答えが欲しい」 「1週間じゃあ、短い?」と問いかけられた。私はぶんぶんと首を横に振った。短いはずがない。私の答えは既に決まっている。この感情が変わるはずがないけれど、はっきりとその気持ちを口にするには時間が足りなかった。プシューという空気の抜ける音が聞こえると共に、彼は電車の中から居なくなった。私はじっとその姿を目で追った。沢山の人がそこで入れ替わるのだけれど、彼は人の邪魔にならない程度のところで後ろを振り返りバイバイと手を振っていた。私に向かって、だ。私は手を振り返すことができず、かといって視線を逸らすこともできず、電車が再び動き出すまで彼の姿を目で追っていた。 110704 |