「あ、勘ちゃんからメール!」

 は床に寝転がったまま携帯を見つめ、顔をほころばせた。

「……また勘右衛門かよ」
 机でパソコンをいじっていた竹谷がの方に顔を向ける。
「だって勘ちゃん大好きなんだもん。はあ。勘ちゃん」

「……それ、彼氏の家にいて言うセリフ?」
 眉ゆひそめる竹谷に、はむっとして言った。

「だって、せっかく休みだからって竹谷の家に来たのに。竹谷、パソコンばっかじゃない。話かけたって生返事で……」
「それは……」
 ばかみたいじゃないか。せっかく二人でゆっくりできると思って舞い上がってた自分が。

「レポートだかなんだかわからないけど、邪魔なんだったらあたし、勘ちゃんとこ行く」
 は体を起こし、部屋のすみに置いてあったバックに手を伸ばそうとした。
 ぎし、と椅子のきしむ音がして竹谷が立ったのだとわかる。

「なあ、それ、どういうこと?」
 
 え、と思って振り向くと間近に竹谷の顔があり、次の瞬間、は床に組み敷かれていた。



 いつになく険しい竹谷の表情に息をのむ。眼の奥にぎらつくものが見えて、背筋があわ立った。
 思わず目をつむると、噛み付くように口付けられた。それから唇は首筋に降りていく。

 怖い、と思った。

「っ竹谷、やめ……」
「止めない」
「……っやだ」
 助けを求めようと自然と口をついて出たのは、普段呼び慣れている名前。

「っあ、勘ちゃ……」
 小さくこぼれた声を聞いて、顔を上げた竹谷と視線が絡んだ。それがすっと細められる。
 しまった、と思うがもう遅い。

「『勘ちゃん』?」

「…っ」
「今、お前の目の前にいるの、誰?」
「あ…ごめ…」
 
 怖い。竹谷が怖い。両手首を固定され、みじろいでもびくともしないこの状況が、怖い。

「何に対して謝ってるの」
 冷やかな声。何を言っても言い訳にしかならないような気がして、は口をつぐむ。口を開いたら泣いてしまいそうだった。

「だんまりかよ」
 深いため息を吐いて、竹谷はの上からのく。解放されたは体を丸め、にじんできた涙を拭った。
「行けば? 勘ちゃん、のとこに」
 突き放すような言葉に、は逃げるようにカバンを掴み、竹谷の家を出た。





 インターホンが鳴った。勘右衛門が玄関のドアを開けると、くしゃくしゃのハンカチみたいながいた。

「うわ、。どうしたの」
 驚いて肩に手を添えると、はもっとくしゃくしゃになってぽたぽた涙を流しはじめた。
「か、勘ちゃ……っ」
 部屋へ招き入れると、真っ赤な顔をした幼なじみを勘右衛門は抱きしめた。
 しゃくり上げるの背中をさすりながら、勘右衛門は思う。涙に汚れた女の子。洗濯くらいはしてあげよう。

「そっかあ。つい、失言しちゃって、ハチを怒らせちゃったわけだ」
 勘右衛門の入れたホットミルクを飲みながら、は勘右衛門のほうを伺う。
 今回は八左ヱ門がカッとなったのもよくなかったが、やはりも悪かった。

「ほんの、悪い冗談だったの」

の『甘え』は二種類あるからわかりづらいんだよ。しかも対極」

 今の勘右衛門に対するように、勘ちゃん、勘ちゃん、と慕うように甘える一方、意地の悪いことを言うのは「こっち向いて」のサイン。の甘えだった。
「俺としては、ワンランク上の甘えを受けている八左ヱ門がうらやましいわけだけれでも」
 でもね、と頬杖をついていた手を外し、姿勢を正して勘右衛門はを見た。

「俺だって、いつまでもに付きっきりって訳にはいかないんだからね。ちゃんとけじめつけなよ」

 八左ヱ門と付き合う前から、は勘右衛門のところにきて、竹谷が、竹谷が、と泣いていた。普段気丈なが、なかなかどうして「竹谷」のこととなると泣き虫になる。
「……うん。わかってるの。ごめん…。あとね、勘ちゃん」
 マグカップを抱えて、はまた泣きそうな顔をする。

「さっき、竹谷がすごく怖いって思ったの。大好きなのに。ぞっとするくらい恐ろしかった」
 思い出したようで、はふるり震える。それからまた一口、ホットミルクを飲んだ。

「それは、八左ヱ門が男だからだよ」

 ふわふわした甘さ、包み込むような安心感を与えてくれるいつもの姿とは違い、いささか攻撃的な男の部分を垣間見て恐ろしくなったのだろう。
「圧倒的だからね。男女の力の差は。普段は精神的に、女性に頭があがらなくても、その気になれば、どうにでもできるんだよ」
 さらりと、何ともない風に勘右衛門は言う。それは男にとって本当に、何ともない普通のことなのだ。できるけどしないことなど、山ほどある。

「……勘ちゃんも?」
 曖昧に笑うと、は眉を下げた。
 しばらくすると、泣き疲れたようでの瞼が降りてくる。

「眠いの?」
「う……ん…」
 うとうとしはじめたを勘右衛門は部屋へ連れていき、ちょうど乾したばかりのシーツを敷いたベッドに寝かせる。
 布団を掛け、ぽんぽんとたたいてやると、はゆるく笑った。
「ね、勘ちゃ…」
「ん? なあに?」
 内緒話のように耳を口元へ近付けると、はふふ、とおかしそうにする。

「この布団、竹谷みたい」

 太陽の匂いがするのだろう。布団にすり、と頬を寄せる。一筋涙をこぼすと、はそのまま寝入ってしまった。

「……ばかだなあ」
 誰に、というわけでもなくつぶやくと、勘右衛門はの頭をなぜた。


「アイロンは、ちゃんと八左ヱ門にかけてもらうんだよ」




 本日二回目のインターホンが鳴った。訪問者はどんな顔をしているだろうかと思い描きながら、勘右衛門は玄関のドアを開ける。

「……勘右衛門」
 案の定、苛立ちと不安がごちゃ混ぜになったような表情の八左ヱ門が立っていた。走ってきたのだろう、少し、息があがっている。

は」
 当たり前のように八左ヱ門が問うのを、勘右衛門はどこか他人事のように聞いた。

「俺の部屋。疲れて寝てる」
「……」
 眉をひそめる八左ヱ門に、勘右衛門は笑みを向けた。

「八左ヱ門、せっかくだし、あがりなよ」
「……」
「ね」
「……ああ」
 視線から逃れるように下を向いた八左ヱ門が、勘右衛門は気に食わなかった。


 どーぞ、と湯気の立つマグカップを八左ヱ門の前に置いた。礼を言って一口飲み、八は顔をしかめる。

「勘右衛門……お前これエスプレッソ……こんななみなみと」

「目、覚めた?」

 にい、と口角を上げ、勘右衛門はコーヒーシュガーを出した。
「ブラックブラックと有り難がるのは日本人くらいみたいよ? イタリアじゃ、エスプレッソには砂糖たっぷりが常識。苦いだけの黒い汁は飲めないってさ」
 俺はブラックも好きだけどね、自分のマグに砂糖を入れてかき回しながら勘右衛門は言った。
「……何がいいたいんだよ」
 憮然として八左ヱ門はこちらを見る。
 内心焦っているのが伝わってきて、勘右衛門は小さく笑う。意地の悪いことを言ってやりたくなったの気持ちがわかった。

「ねぇ八左。あんまりを泣かせてばかりいるとね……」



 俺がもらっちゃうよ。



 今日のご飯はパスタでいい? と尋ねるように勘右衛門はさらりと言った。もっと焦れ、と思う。好きあっているということは、当たり前のことじゃない。
 
「……は」

「さっきいったじゃん。俺のベッドで寝てるって」
 わざと八左ヱ門を逆撫でするような言葉を選ぶが、不思議と勘右衛門まで苛立ってくるようだった。

「……俺が気に入らない? 何焦ってるの。はもう、八左ヱ門の手中にあるだろう? 今更何の心配をするのさ」
 もう。ずっとずっと前から。
「……勘右衛門はが好きなのか?」
 組んだ手のひらに額を乗せて、八左ヱ門は呻く。

「俺、に怖い思いさせた。つい、かっとなって。……、俺には好きって言わないくせに勘右衛門のことは好き、好きっていうんだ。きっと、もお前みたいな……」
「馬鹿野郎!」

 いいかけた言葉に被せるように、勘右衛門は吠えた。

 弾けて勘右衛門を見た八左ヱ門の顔を両手でつかみ、こちらに向けさせた。
「お前はっ! の何を見てるんだ……っ!」
 びりりと、勘右衛門は震えた。

はなあ、泣くんだよ! ……お前が好きだと泣くんだよ。八左ヱ門。言えばいいのに、肝心なところは迷惑かけたくないと飲み込んでしまうやつなんだよ!」

 怒鳴って、熱が頭のてっぺんを突き抜けて、するするしぼんで、それから勘右衛門は胸まで水に浸かってしまったような気がした。
 八左ヱ門はと言えば、勘右衛門の勢いに押され、目を丸めたまま固まっている。

「……別に、には何にもしてないから」

 小さくこぼして、勘右衛門はソファに脱力した。
 しばらく、お互い何も言わなかった。時計の秒針がやけにうるさく響いた。
 勘右衛門は眉を下げて、投げ出した足の爪を見つめていたし、八左ヱ門もすっかり覚めてしまったマグカップの中の黒い液体にぼんやり視線を落としていた。

 秒針が時間を刻むのに混じって、鼻をすする音がした。
 勘右衛門が顔を上げると、同時にこちらを見た八左ヱ門と目が合う。
 勘右衛門は泣いていないし、八左ヱ門もうちひしがれてはいるが、涙は出ていない。

 もう一度、今度は小さくしゃくり上げるのが聞こえた。空いたドアのすぐ側からである。
 顔を見合せて、勘右衛門と八左ヱ門は苦笑した。
 二人はたちあがって、そっと廊下を覗き込む。

 体を丸めたが膝に顔を埋めていた。
 ほらいけ、と勘右衛門は目配せする。
 しっかりとした視線が返ってきたのににっこりして、勘右衛門はキッチンへと戻った。
 湯を沸かして、ミルク鍋を火にかけなきゃいけない。







 すすり泣く、自分よりずっと小さな体は、二人がここにいたことに気づいていないのだろう。
 八左ヱ門は、手を伸ばそうとして、触れるのをためらう。
 思いの丈をそのままぶつけたら、壊してしまいそうで怖かった。
 腹の底に常に潜んでいる独占欲を、見せるのが恥ずかしくて、情けなくて、時たまつれないふりをした。
 どうしてこうも、うまく愛してやれないのだろう。
 小さなは後ろにいる八左ヱ門に気付かずに一人で泣く。


「……たけやぁ」


 小さく、本当に小さく、が呼んだ。
 耳をすましていなければ、聞き逃してしまいそうなくらいに細い声。
 それでも八左ヱ門の耳には、しっかり届いた。

「……

 自然と、腕が伸びた。
 膝を抱えたを抱きしめる。
 八左ヱ門にとってごくごく自然の、当たり前の動作だった。
 を呼んだ八左ヱ門の声は、自分で思っていた以上にか細く、弱々しかった。

「ごめん」

 柔らかい髪の毛を、ぎこちない手つきでなぜた。
 一瞬強ばったの体に、罪悪感がつのる。だがすぐに緊張を解いて体を預けてくれたことに安堵する。

「ごめんな。。ごめん」

 優しくできなくてごめん。

 いつも泣かせてばかりでごめん。

 気づいてやれなくてごめん。

 不器用にしか愛せなくてごめん。

「ごめん。ありがとう。

 八左ヱ門のシャツを、が握った。それから八左ヱ門の胸に額をすりつける。
 八左ヱ門はの背中をさすって、腕に出来る限り優しく、力をこめた。

「竹谷……」

 もう一度名前を呼ばれる。の額が触れている胸の奥が、じわり熱を持った。くすぐったいような、少しじれったいあたたかさである。

「竹谷…意地悪言って、ごめんなさい……嫌いにならないで……」

 寂しかったの、とひどく恥ずかしそうにつぶやいたの頬に、八左ヱ門は思わず唇を寄せた。





 湯気の立つマグカップがみっつ。テーブルの上。

「……エスプレッソじゃ、ない」
 カップの中を確認した八左ヱ門が小さくこぼす。

「カフェラテだよ」
 勘右衛門はおかしそうに喉で笑った。

 がどうしたのかと尋ねると、八左ヱ門は思い出したようで顔をしかめる。

「さっき、砂糖もミルクも入れないエスプレッソをなみなみ出されたんだ」
「…あたしには甘いホットミルクだったのに。勘ちゃんてば」
 肩を落とした八左ヱ門の広い背中をの手がさする。

みたいに、ちょっと意地悪言ってみたくなっただけだよ。愛情表現」
 いたずらっぽく勘右衛門が笑うと、も八左ヱ門も、何も言えなくなってしまった。
「ちゃんと仲直りしたみたいだし、ホットミルクとエスプレッソを足して、カフェラッテ。俺は甘い砂糖か蜂蜜にでもなろうかなあ」

 今回のことには礼を言う、けれど勘右衛門に砂糖や蜂蜜何ぞ似合うものか、と八左ヱ門はむくれる。対称に、シナモンみたいなスパイスがいいかもねと、くつくつ笑ったのはだった。

「シナモンを入れるのはほどほどがいいじゃない。好き嫌いが分かれるうえに、香りは甘くても、そのまま噛むと苦いもの」
、酷いなあ」

 酷い酷い。俺は傷つきましたよさん。
 嘯く勘右衛門を見て、はやわらかく笑んだ。

「でも、あたしはそんな勘ちゃんがすきよ。大好き」

 ストレートに、なんのてらいもなくでてくる言葉。それを聞いて素直に反応した八左ヱ門に、勘右衛門は苦笑した。
 ああ、しようのないカップルだ、とでも言わんばかりにため息をつく。

「じゃあ、俺のことが大好きなちゃん。君が一番好きなのはだあれ?」

 頬杖をついて、勘右衛門はを見つめる。
 八左ヱ門も、テーブルに両腕をついて隣からの顔を覗き込んだ。
 視線に耐えられず、みるみるうちに赤面したを、勘右衛門と八左ヱ門はおもしろそうに眺める。



 う、あ、と言葉にならない音を発してから、観念したようには口を開いた。