昔に見慣れた景色を歩いていく。久しぶりに感じる東京の空気。目の前に巨大な建物を確認すると少女は足取りを軽くしてその中へと入っていった。懐かしい。全てが懐かしい。久しぶりに見る氷帝の校舎だ。懐かしいと叫ぶ心と一緒に浮かび上がる男の姿。彼はこの風景と同じように変わらずにあたしを受け止めてくれるのだろうか。 「景ちゃん」 校舎に入ると早速幼なじみの姿を見つけたは当時の呼び名で彼の名を呼んだ。しかしその呼び名も彼を取り囲むように出来た人だかりの前では何の効力も齎さず騒音の中へと消えていく。思わず少し安心してしまった。 彼は相変わらず皆の憧れで、アイドル的な存在なのだ。何も一つ変わっていない。その風貌だって昔と変わらずキラキラしていて、それでいて逞しさを感じさせてくれる、あたしの知っている景ちゃん。誰かが独占したらいけない人。だから昔から気持ちを抑えつけていたのかもしれない。せめて幼馴染という特別な関係に縋っているために。 黄色い声にも表情を変えず颯爽と歩く彼に思わず自らも足を進めてしまう。彼は果たして自分の事を覚えていてくれているのか、――いや、絶対に覚えてくれている、と。ちょっとした自信だった。 「景ちゃん」 もう一度彼の名を呼ぶ。一度目を見開いてから――――と自分の名前を呼んでくれる彼の姿を予感しながら。その声にようやく反応した跡部が徐々にこちらを向くそんな姿がコマ送りのように視界いっぱいに広がり、ちょうど期待に胸を躍らせているその時だった。 予想にもしなかった反応に目を見開いたのは――――あたしの方だった。 「見慣れない顔だな」 「相変わらず冗談きついな」 「何の事だ」 ―――何が何だか状況を把握することが出来なかった。まさか本当に忘れられているとは思いもしなかった。冗談にしてはあまりに質が悪すぎるだろう。「ねえ嘘だよね」ポツリと呟くと彼はふいに目を反らしてから捨て台詞のように言うのだった。「知らねえな」って。 確かに最後に跡部と会ってから随分な時間が経ったから少し外見は違うように見えるかもしれない。髪だって伸ばしたし、ちょっとは大人っぽくなったけど、そんな理由だけで彼があたしを忘れるとは到底思えないのである。 「もしかして?」 この場で初めて呼ばれた自分の名前に振り返ると、そこには懐かしい友の顔があった。 「慈郎ちゃん」 本物?と何度も言いながら近づいてくる慈郎にようやくあたしはホっと胸を撫で下ろした。「転校生っての事だったんだ」言って笑った。安心した所でもう一度跡部に目を向けて今度こそ彼に向って笑ってみる。という名前を耳に入れればきっと思い出してくれると思ったから。 「・・・・・・本当に忘れられたのかと思った。あたしそんなに変ったかな」 「さあな。俺には関係ない」 久しぶりに再会した友人に対してはあまりに冷たすぎる言葉を紡いだ彼に昔の面影を見出すことが出来なかった。昔から捻くれ口はよく叩く人だった。でもその冷たい言葉の裏に隠されていた暖かいものが今は感じることが出来ない。だってその一言だけを残すと何も言わずに去ってしまったから。久しぶり、そんな一言さえ与えてくれずに。 「景ちゃん」 騒がしかった辺りは急に静まり、壁にぶつかった声が木霊した。 「・・・その名で呼ぶな」 今日聞いた最後の跡部の言葉だった。 苦い思い出となった転校初日からも数日が経っていた。以前氷帝に通っていたという事もあって知り合いも多く、友達づきあいに苦労することはなかった。ただ一つ気がかりなのは跡部の取った対応。未だに納得がいかないのである。 ―――跡部は何も変わっていない。滋郎に聞いても、宍戸に聞いても、他の誰に聞いても返ってくる答えは同じだった。昔と同じく、俺様で、傲慢で、テニスバカであると言うのだ。ならば一体どういう事なのだろうか。 あたしだけを避け、自分を偽っているというのか。 抱いた疑問が確信へと変わるのにそう時間は要さなかった。彼がどういう人間かをよく知っているからこそ出る答えだった。ただそうする事にどんな理由があるのかが分からないのだ。 「」 慈郎の声で我に返る。どうしたのと尋ねると彼は困った顔で逆に聞いてくるのだった。 「こそどうしたの」 最初は慈郎の言っている意味が分からなかったが、ふと目の前にあったガラス窓に映る自分の顔を見て表情を緩めた。慈郎がどうしたのかと尋ねてくるのも無理はない、険しい自分の顔が窓に映し出されていた。 「跡部の事・・・・・・でしょ」 「景ちゃんと仲良しだと思ってたのがあたしだけなのかと思って」 「そんな事ないんじゃないかな」 慈郎の言葉にも慰められることが出来なかった。ただうなずく事しかしないあたしに、ついには慈郎も口を閉ざした。 少し昔の事を思い出した。この校舎で跡部達と色んな事をした。日が暮れるまでテニスをしたり、喋ったり、時には下らない事で喧嘩したり、その全ての思い出の中に跡部がいた。中学1年の夏休み、転校する事になった時の跡部の言葉が今までのあたしを支えてくれたのだ。「待っててやるよ」 にっこりとした笑顔ではなかったけれど優しさのあふれる顔で言ってくれたこの言葉をずっと支えにしていた。 「昔みたいな関係に戻りたいと思うのはあたしの我がままなのかな」 慈郎は何かを言いかけたが、思い立ったように口を閉ざした。何かを知っているのだろうか。この時あたしは一つの決断を下したのだった。そうする事でしか跡部に近づける手段がないだろうと判断したからだ。 「あたし生徒会に入る」 転校3日目にして出した結論だった。すると慈郎は先ほど言おうとしていた事を溜息と共に吐きだした。 「はまだ跡部の事、・・・・・・好きなんだね」 「―――――え、」 「バレてないとでも思ってた?バレバレだし」 困ったように笑う慈郎を見ると否定の言葉を口にすることはなかった。鈍感な慈郎ですらその想いに気づいているのだ、きっと他の連中も知っているのだろう。そう思うと少し体が熱く熱を帯びたけれど、本当の事を否定することは出来ない。だからと言って高望みするつもりはないのだ。所詮は叶わぬ恋心を勝手に抱いているだけなのだから。ただ昔のように仲良く出来ればそれだけでいい。 「跡部の事が好きなら生徒会には入らない方がいいかも」 どうしてかと尋ねる間も置かず、彼は少し表情を曇らせて再び口を開くのだった。 「跡部はね―――――」 あたしは思い立ってすぐに生徒会に入った。最初は様子見の為にも自ら執拗に跡部に話しかける事もしなかったが、一週間、一か月、と時が流れても状況は変わらない。仕事以外の事で跡部が話しかけてくる事は一度もなかった。もちろん仕事にしてもほとんど何も任せては貰えない。そんな日々が続き、ついに我慢も限界へ達していた。あたしは耐えきれず、二人きりの生徒会室で口を開いた。 最初は仕事らしい事で質問をしてみる。するといかにもな表情でぶっきら棒に返ってくる言葉。とても会話とは呼べないものだ。戸惑いはあったものの、あたしは意を決して再びあの名を口にする。 「景ちゃん」 するとやはり睨みつけるようにしてこちらを見てくる跡部の姿が視界に映し出された。もう「その名で呼ぶな」とも言ってくれない、冷たい目だった。 「あたしね、ひとつ生徒会に入って分かった事があるの」 最初は本当に変わってしまったのかと思った。生徒会に入っても跡部との関係に何一つ改善の点は生まれなかったけれど、利益はあった。それは彼がやはり昔と何一つ変わらなかったという事実だ。俺様でぶっきら棒で人に勘違いされやすいけれどどうしようもない優しさで包まれた跡部は今もそのままであるのだと知ることが出来たから。隠そうとしても隠しきれないその優しさは話さずとも一緒に居れば容易に理解出来てしまう。 「景ちゃんは昔と何も変わってなかった」 「だったら何だ」 「あたしに対して無理をしないで。って言うと上から目線みたいか」 そう言うと跡部はあざ笑うようにこちらを見るだけで何も言葉にはしてくれない。バカバカしいとでも言っているような瞳。そして何事もなかったように仕事と向き合う跡部にも諦めなんてつかなかった。 「何でもいいから・・・・・・話してよ」 「仕事中だ」 「ごまかさないで。そうやってごまかさないでよ」 どうやっても上手くはいかないもどかしさについに何かが切れてしまったようだった。感情のままに声を上げた。 「否定の言葉でも、あたしを侮辱する言葉でも、何だっていいから」 我慢していた今までのものが瞳にじんわりと熱を広げていく。でも止められず、その術も知らなかった。そんなあたしの姿を見た跡部は一瞬顔色を変えたが、見なかったように顔を反らしてしまった。「景ちゃん、・・・・・・景ちゃん、ねえ」嗚咽と共に零れる名に、ついに跡部も立ち上がって叫びあげた。 「・・・・・・・・・黙れ!」 跡部の切ない怒鳴り声で二人きりの生徒会室に再び無音が流れた。そして跡部はあたしをきつく抱きしめてからもう一度、今度は小さく呟くのだ「・・・・・・黙れよ」って。 「どうして」 「黙ってろよ」 「じゃあ何でこんな事するの」 返事はなかった。ただ腕に込める力の強さだけが答えのように強まっていく。こんなに弱弱しく、彼らしくない姿は初めて見た気がする。いつだって強くて、凛として何にも縋らず、頼らず、一人でこなしてしまう跡部にしてはあまりに弱弱しい姿だった。 「・・・・・・帰ってくんのが遅い」 「うん」 「今更俺の前に現れるなんて都合がよすぎるだろ」 「ごめん」 跡部は言った「俺には婚約者がいる」って。だから一度頷いてから言うのだ「知ってるよ」「・・・・・・だから遅えんだよ」「ごめんね」。同じような会話を暫く繰り返していた。お互い、表情を相手の肩に埋めながら。 「でも 「遅い」 って言って貰ってあたしは嬉しかった。例えもうそれが遅くても」 好きとは言わなかった。言えば辛くなるのが分かっていたから。互いの首を絞めることになってしまう。 しかしどうしてこうも神はという存在はいじわるのだろうかと思わずにはいらられない。こんな形で両想いだった事を知らされるなんて残酷なはなしである。好きなのに、好きになってはいけない、そんな存在。気持ちを知れた喜びももちろんあった。しかしそれ以上に大きかったのは、知らなければよかったと思う気持ちだった。こんなもどかしい気持ちを知ることはきっとなかっただろうから。 「、もうあの名で俺を呼ばないでくれ」 ようやく体を離してくれた彼の顔があまりに切なくて、あたしは頷くしかなかったのだ。 でも、その代わり――――。 「最後に呼んでもいい?」 「ああ」 最後に大好きだった彼の名前を笑顔で呼んでみたかった。柵とか、周りの目とか、環境とか、何も気にせずに呼びあえたあの名前を、せめて最後くらい笑顔で呼んだという記憶を残しておきたかった。 「景ちゃん」 長い片思いが終わった。短い両想いも終わった。あたしはすぐに生徒会を辞め、極力跡部との接触を避けた。 今になって思うのだ。やはりあのまま辛く当られていても真実を知らなかった方が自分にとっては幸せだったのだろうかと。考えてもどうしようもない事とは知りつつも知りたがる心はとどまるところを知らない。もしもう少し早く日本に帰って来て居れば結果は違ったのだろうか。 今も記憶に留まるのは跡部の腕の温もりと、限りなく切ない―――――甘酸っぱさだけだった。 「ばいばい、景ちゃん・・・・・・」 |