カン、カン、と学園中に昼時を告げる鐘の音が響いた。それまで掛け声や教師の解説の声で充満していた学園内は一気に騒がしくなる。特に下級生の子たちはどこにそんな元気が残されていたのか、と疑問に思うくらいはしゃぎながら美味しいご飯を食べるために食堂に駆けていく。そんなかわいらしい姿を横目で見、軽く笑いながらもまた食堂を目指して歩いていた。にとって、食堂に足を運ばせる時間というのは一日の中でかなり意識せざるを得ない時となっている。何故、と問われるならばそれは男女隔離が著しい学園の中で、異性と顔を合わせる機会が最も多い場所であるからである。今日もまた、彼の姿を見ることができたらいいな、と顔には決してださないが心だけは少し浮かれていた。 が好意を寄せているのは、竹谷八左ヱ門という一つ年上の男である。接点という接点はそれほどなく、恐らく彼を意識せずに学園生活を送ることは十分に可能だった。けれど、の視界に竹谷の姿が映るようになった。否、自身が竹谷を意識するようになってしまった。切欠と言うほど大げさなものはない。いつのまにか、自然に、の瞳は彼を追いかけるようになってしまった。恋、というのは忍にとって御法度に匹敵するものでありけして推奨される行為ではない。完全に否定されるようなことでもないが、未熟である自身には到底、己を乱す悪因の一つにしか成らず、心を掻き乱される日々が続いている。精進が足りないとそれに気がつくたびに自分を悔やむ。が、竹谷を好きになったこと自体を後悔したことはまだ一度もない。 は二択である定食の一つを選んで、くのたまが集団で座っている長机の隅っこに腰をかけた。今日はまだ彼は訪れていない。そういえば、朝から五六年合同で外の実習だったことを小耳に挟んだのをふと思い出した。上の学年と合同ということは一日がかり、もしくはそれ以上かかることもある。しばらく姿を見ることができないかも知れない。その事実に落ち込みながらも同時に少しだけほっとした。彼の姿を見ることは好きだ。それだけで、心の中の一部が満たされると感じることがたくさんある。自分に向けているわけでもない笑顔をちらっとでも見るだけで、ほっとすることだってある。だが、同時に見たくもないものを見てしまうこともある。ちりっと心臓を火で炙られているような焦げ付いた痛みが胸を襲うのだ。それを思い出し苦笑いしながらも、あまり好きではないおひたしに口をつけてまた苦い顔をする。むむむ、と眉を顰めて渋い顔をして口をもごつかせていると、「あんたそれやっぱり嫌いなのね」と隣に腰を下ろしていた同学年のくのたまに呆れながらそう呟かれた。嫌いなものを想像しながら嫌いなものを食べるとよほど酷い顔になるらしい。最後の一口、と青々しいほうれん草を箸でつまみ上げてぱくりと口に含もうとしたら、突然箸が軽くなった。と同時に口をもごもごさせている背の高い男性の姿が視界の端に映る。 「は好き嫌いが顔に出すぎ。それ、くのいちとしては致命的な弱点になるぞ」 のおひたしを奪ったのは、二つ上の先輩、食満留三郎だった。彼の忍装束にはところどころ、泥や火薬のカスなどがこびり付いており、実習後であるという生々しい跡が残っていた。しかし彼は疲れた顔など一切見せずひょうひょうとした表情のまま、今日が選んだ定食とは違うもう一つのそれを手にして目の前に腰を下ろした。 「食満先輩、なにやってんスか」 あきれた顔で問いかけるに対して食満は悪びれた様子もなくごくりと口のものを飲み込んでにやりと笑った。食満留三郎はにとって最も近しい先輩の一人であった。もちろん、性別が異なる中での先輩ではという意味である。これは自然とこうなったわけではなく、用具委員という一つ委員会にが所属しており、食満はその委員会の委員長であったからこその関係である。活動も割と活発で事務的に仕事内容を話す機会が増えたため、こうやって顔を覚えられ、たまに所かまわず絡まれるようになった。彼にしてみればは反抗期に片足をつっこんでいる妹の一人、といったところだろう。不機嫌そうに仮にも年上である食満を睨んでいるの頭をわしわしと撫でて、先輩としての忠告だろう、と心外そうに呟く。 「ほうれん草のおひたし、美味いのになあ。もったいねぇ」 「余計なお世話です。ってか、実習だったんじゃないんですか。もう終わったんですか」 「ん?ああ……まあ、ちょっと怪我人が多くていったん中止になったんだわ。天候も悪くなってきたことだし、この状況で続けても意味がないだろうってことで」 「怪我人って、五年生の先輩方ですか?」 「六年も五年も、それなりに。今頃医務室ごった返してるんじゃねえか」 「そんなにですか」 食満の後ろから続々と薄汚れた格好のまま疲れ切った表情を隠せていない生徒たちが入ってきた。若干、青より緑の数が多いのははやり一学年上という実績の違いからだろうか。それにしても、六年生までも怪我人が続出とはどのような実習だったのであろう、と来年励むことになるはずのそれに少しだけ恐ろしさを感じながらも必死に彼の姿がないか目をせわしなく動かした。しかし、見つけられなかった。竹谷どころかいつも仲の良い二人、全く同じ顔をした双忍として有名なあの鉢屋も不破も姿を現さなかったので彼の状況を盗み聞きしようにもできない。目の前の食満の様子からは怪我人が続出したといえども、それは数が多いだけで怪我の度合いとしてはそれほど深刻ではないように見える。が、一度不安に思い始めればそれは止まらない。 「不安なら、少し時間をおいて行ってみれば」 ぽつり、と食満が一言零す。彼には随分と前からの心の内がばれてしまっていた。先ほど彼がいったようには感情を顔に出さない、ということが苦手である。すぐに感情の起伏が表情に表れてしまう。時間を共にすればするほど、の雰囲気がどのように変わっているのかわかるようになるのだ。ましてや二つも歳が上の、感情を悟ることを一つの訓練として行っている先輩忍者にしてみれば赤子の手をひねることより簡単なことなのかもしれない。指摘されてから、は食満にはどうしてだかぽつりぽつりと彼について話すようになった。その食満が行ってみればというのである。誰が怪我をしているか、簡単に理解できた。少し時間をおいて、と彼は言っていたが、はすぐさま食べかけのご飯を彼に押しつけて食堂を飛び出した。 駆けつけたところで医務室に入る勇気もないは、ただただ人でごった返しているそこをじっと眺めるだけしかできなかった。むしろ慌ただしく出入りしている保険委員にとっては邪魔な存在でしかなかったかもしれない。唯一の収穫は、竹谷が無事であるという事実だけだった。息をし、怪我も忍生命を脅かすものではない。ただ、安静にしていなければならず、医務室で二日間横になる運命だそうだ。それだけの怪我で良かったと、ひとまずほっと安心したものの、別の感情が沸々とこみ上げてくる。そのとき。竹谷が怪我をしたそのとき、隣に誰がいたのか垣間見てしまったには情けないながらも嫉妬、という気持ちを隠すことができなかった。 二つ上の、一見おとなしく優しそうな顔付きをしたくのたまの先輩である。彼女は保険委員であるからこそ、あの場にいるとわかっているし、そのこと自体には何の罪もないのだが、竹谷が彼女にどのような感情を抱いているか散々目で追っているは知っていた。竹谷はのように感情を殺すことが弱点となっているわけではないのだが、恋の恐ろしい力といえばいいのか、には竹谷が誰をずっと想っているのかそのひっそりとした気持ちを本能的に悟っていたのだ。そして、それがと同様に複雑なものになっているということもまた、周りの関係から気がついていた。竹谷がは自分と全く同じ表情で彼女の後ろ姿を見つめているのだ。それが、その事実がの心を苦しいほどに締め付けていた。 その日の晩、はいつも通りに風呂に入った後、少しだけ友人との時間をずらして一人でにんたま母屋へと忍んでいた。目的はただ一つ。床下を足音が感じられないように慎重に歩き、医務室の前で止まる。かたり、と天井の一部を取り外し女一人、体を通せそうな隙間を作ってすとん、とその場に体を落とした。 「竹谷先輩」 小さく、彼の名を呼ぶ。さすが上級の忍らしく起きていた上での行動をそのままにさせていたらしい。彼は動揺せずうっすらと目を開けた。そして、隣に落ちてきたのが誰か気がついて不思議そうな顔をした。どうしてここにいるのか、と問いかけるような表情だった。 「用具委員の、か」 「そうです。竹谷先輩、私のことご存じだったんですね」 「そりゃ知ってるだろ。それで、真夜中にこんなところに忍び込んできて、なんの用だ」 自分の名前を知ってくれていたことがほんの少しだけに喜びを与えた。名前も顔も知られていない全くの初対面だと思われたどうしようかと、不安を抱えていたからだ。だんだんと激しく動悸する心臓を押さえつけるように、ゆっくりと深呼吸した。 「私は竹谷先輩のことが好きです」 彼の息をのむ音が辺りに響いた。 「先輩にとって顔と名前が一致する程度の人間でしょうが、私は先輩のことが好きなんです」 「……」 「先輩が誰を好きなのか、知ってます。あの人はとても素敵な人だし、先輩が惹かれるのもわかります。それでいいんだと、私のはいる隙間はないのだと思ってました。けど、先輩はいつまでも悲しみに捕らわれている。そんな悲しそうな顔をもう見たくないんです。……だから、どうか、私のことを好きになってください。私はあの人より秀でたものは何一つ持っていませんが、先輩にそのような顔はさせません」 本当におこがましい発言である。子供じみた嫉妬と独占欲が絡み合っている。竹谷のためだと称しているが本当は自分自身のため。は竹谷が欲しいと心から思っていたし、なにより、この悲しみの輪から一刻も早く逃れたかった。苦しかったのだ。忍耐が足りないとよそから貶されるかもしれないが、それよりも、新しい自分の感情をぶつける矛先がほしかった。否、竹谷を乗り越えたかった、といってもいい。今の現状に燻っているだけでは、いられなくなってしまったのだ。言葉だけはしっかり、ぶれることもなく言い終えたはじっと竹谷の目を見つめた。しんとした静寂が辺りを包み込む。彼が言葉を発するまで待つことができた自分をほめてやりたい、とその居たたまれない空気に包まれながらは思った。 「が俺のことを想ってくれてるってことは、気がついてたんだよ、俺」 「……そうだったんですか」 「よく言われてるだろ。感情が表に出すぎだって。話し方が淡々としているから、それと混合するとわかりにくいが、顔だけ見てればすぐに分かる。そんなに悟られるなんて、俺もまだまだなんだってことだろうなあ」 「少しかちんとくるんですが」 弱点だとわかっていることだからこそ、たとえ好きな人にでも指摘されると少しむっとしてしまうことがある。そこがまだまだなんだよ、と痛い一言が竹谷の口からこぼれた。 「少しだけ時間をくれるか」 即刻、断れなかっただけましなのかも知れない。怖々とした顔でこくりと頷いたに対して竹谷はふっと笑った。怖い顔すんなよ、と場に似合わない明るい声を出す。 「俺も、先輩に告白して、潔く振られてくる。一つのけじめだな。だから、それまでちゃんと待っててくれよ」 「……それは、つまり」 「全部言わなくても、わかるだろ」 にかっとした笑顔をに向けて照れたようにはにかむ竹谷を見た瞬間、一気に顔が熱くなるのがわかった。自分でも全身が赤く染まっているというのが簡単に想像できる。林檎のようになってしまったに対して、竹谷は一言だけ優しく呟いた。それだけで、のくぐもっていた感情はぱっと花が咲いたように明るくなった。本当に単純だ。けれど、そんな単純なことを心底嬉しいと思ってしまうのだから人間というものは本当に不思議な生き物だなあと恥ずかしさに沸騰しながらひっそりとそう思っていた。 好き、といってくれてありがとう。 *100922 ( いつもお世話になっているぎんこさんへ、誕生日おめでとうと感謝の気持ちを込めて。 / title by.cathy ) |