暑さが尾を引いていた所謂残暑の時期もようやく終末を迎え、体に心地よい風が吹くようになったある日、竹谷はとある情報操作の任務を終え帰路についていた。任務の内容自体はなんてことはないものだった。どれだけ怪しまれずに一般民衆に溶け込めるか、そこは竹谷にとって得意としてもよいであろう事柄であったので―彼は外見もそうだが内面からもどことなく人を安心させるような暖かい雰囲気を持っている―思いの外、安易に事は進んだ。そういう理由で二か月ぶりに自分の家に帰っているのだが、何分距離があるので一日二日では帰れそうもない。報告を終えるまでが任務なのだ。最後の最後まで気を抜かない様に、と身を引き締め一歩一歩、長い道のりを歩いていた。

 途中立ち寄った町の一角に、小さな茶屋があった。本来なら不必要な飲食は避けるべきだとされているのだが、どうしてかなそのとき竹谷は急に甘い食べ物を口にしたくなった。長らく続いた仕事から解放されたからであろうか、それとも表面には出てこずとも少しは疲労が蓄積されていたのだろうか、ふわりと香る甘い匂いに誘われるように茶屋に入った。茶屋は老若男女、全ての人が出入りする場所である。そういうところで繰り広げられる会話には一見ただの噂のように思えても、重要な意味を占めていることが多い。情報を正しく誤作してきた彼は身を持ってそれを知っていたので、まあ、二ヶ月も此処ら一体から離れていたわけだしちょいと聞いて帰るのもまたよかろう、と自分に言い訳をしてその茶屋に足を踏み入れた。入ってみると、どうやら若者に人気の茶屋なのか自分と同年代程度の男女が賑わっていた。割と評判がある店らしく、客はあとを断たなかった。

「すいません、お茶とわらび餅を一つ」

 そそくさと個人掛けのいすに腰を下ろすと、まだ慣れていない様子の若い女の子に声を掛ける。はい、と忙しそうにしながらも受け答えする彼女の後姿を見つめて、初々しいなあ、となんとなく心が温かくなった。殺伐とした日常に身を置いているため、初心な反応は何とも懐かしい。あのように素直に反応する時期が自分にもあったなあ、とそう思う。ぼんやり、あたりの会話に耳を澄ませていると、ことり、と手前にほかほかと湯気のたったお茶とわらび餅がおかれた。ああ、この込み具合にしては早いな、と運んできてくれた女性に、どうも、と言おうと顔をあげると、そこに立っていた彼女に見覚えがありすぎて固まったしまった。文字通り、ぴくりとも動けなくなったのだ。彼女は、少し困ったように笑った。

「久し振り」

 運ばれてきた甘味の味など全くわからなかった。それほど竹谷は動揺していた。先ほどこれらを運んできたのは竹谷にとって旧知の人物で、今後もう二度と会うことはないであろうと思っていた人だったからだ。慌てて鳴る動悸を少しでも落ちつけようと、ゆっくりと体温に近い温度のお茶に口を付けた。ほう、と息を吐いて、忙しく店内で動き回る彼女を盗み見た。

 彼女の名前はという。そもそも出会いは、竹谷が今まで過ごしてきた人生の中で最も重きを置いている学生だった頃、忍術学園だった。その名で察せる通り、彼女はそこにくのたまとして竹谷と同等の時期に入学し、学業に励んでいた。くのたまとにんたまといえば、そこには谷よりも深い溝があり、決して崩れぬ壁のように堅い敷居が伝統的にこの二つの間を引き裂いている。言ってしまえばほとんど犬猿の仲なのであった。それでも、にんたまに対立しうるような気の強い女子ばかりが集まるわけではなく、先ほどの彼女のようなどちらかといえばおっとりとした性格の女ももちろん在籍していた。

 くのたまには二通りの者がいる。六年間、忍業を全うし、本職のくの一として世間にでるもの。そして、いうなれば躾のためにこの学校に入り、そこそこの学年で退学し、実家へ戻るもの。もちろん、にんたまにもそのような二つの進路が当然別れているが、圧倒的に後者の数が多いのはくの一の方であった。大体、自分の娘をくの一にさせようなどと考ている者は代々忍びの里に暮らしている者か、もしくは、戦禍の中親を亡くし孤児として育った者だ。大凡のくのたまはやや裕福な家の娘をよりよい身分の男性に嫁がせるため、教養を養うため、勘の鋭さを学ぶため、そしてこのような時代であるからこそ逞しく生きていく強さを身につけるために通っているにすぎない。も、その中の一人であった。

 彼女が竹谷の座っている席の脇を通り過ぎようとした時、さっと白い小さな紙を彼女の手に握らせた。嫌がるそぶりを見せるかと思いきや、あっさりと彼女はそれを受け取ってくれた。そのことに竹谷はほっと息を吐く。彼にしてみれば、こんな偶然を逃すことだけはしたくなかった。きちんと、彼女と話たかった。噂ではどこぞの、それなりに富豪な家に嫁いだと聞いていた。女が働かずとも困ることのない暮らしが彼女には待ち受けていたはずだ。だというのに、何故ここで働いているのか。一度気になり始めれば、それは止まることがなかった。

 一旦、茶屋から出て、竹谷はとりあえず今夜の宿となる場所を探した。幸いにも、この町は比較的大きく、旅人の足休めの場所となっていたのできちんとした宿に泊ることができた。紙に記した約束の時間まで、町の端っこに存在する小さな池の前で待つ。夕日がぼんやりと竹谷の顔を照らすようなった頃、彼女は現れた。

「びっくりした」

 なによりもまず、はそう零した。ふんわりとした笑顔は変わることがない、香る、椿の品のいい香りもそのまま。だが、当時よりも身長差が顕著に表れ、彼女がより華奢な存在に思えて仕方がなかった。竹谷も、同調するようにこくりと頷いた。

「俺も。まさかこんなところで会えるとは、思ってなかった」

 心のどこかではいつか会いたい、という気持ちがひっそりと存在していた。でも、もう駄目なのであろうとどこか諦めていた。それゆえに、再会したときの喜びと驚きは二倍に膨れ上がっていた。その竹谷の驚いた顔を思い出したのか、彼女はくすくすという笑いを零す。

「竹谷、驚きすぎ。そんなので仕事はできてるの」
「当たり前だろ。それなりに、ちゃんと、やってますよ」
「それはなにより。あ、あと卒業おめでとう」
「おう」

 忍を仕事と濁した彼女は、ちゃんとやっている、という彼の言葉に、よかった、とそう呟いて微笑んだ。竹谷は卒業、という言葉を聞いて、ああ、彼女の中で自分はあの時の―五年生のままで止まっていたのだと―改めてそう感じた。自分の中の彼女も、もちろんそうなのであるが。ぽっかりと空いた空間をそれに感じ取ってしまい、切なさが込み上げてきた。

は、あのお店にいつから?」
「んっと……もう、五年になるかなあ。結構長くて、あの中では先輩なのよ」

 五年、とその時間を逆算する。決して、短くはない。何があった、と聞いていいのかどうか、それさえも憚られ、一つ小さな相槌を零すことしか竹谷にはできなかった。格式の高い家の奥方ともなるとこのようなところで働く必要などないだろう。どのような出来事があったにしろ、確実に今彼女が自分ひとりの力で生計をたてていることは明らかだった。

「あの店、結構評判いいみたいだな。今晩泊る宿でも、ちらっと噂になってたくらい」
「そりゃあ、おかみさんの甘味ほど美味しいものはないもの。美人な売り娘もいることだしね」
「誰のこと言ってんだ」
「目の前にいるでしょ。その目は節穴?」

 ほらほら、と自分を指さしながら笑みを見せる。一言多いところは昔と変わらないようで、竹谷のざわめく心を幾分か和ませた。

「案外、元気に暮らしてるじゃん」

 わしわし、と艶やかな黒髪を撫でた。案外、という言葉に、竹谷のいいたいことを察したのであろう、彼女は一瞬、苦い顔をしたが、暖かい彼の手に安心したように微笑んだ。彼女も忍としての訓練を一部だが受けている。それ故に言葉の節々から相手の真意を読み取ることは一般人に比べて長けている方だ。しかし、彼女は何も語らなかった。聞いてほしくない、ということであろう。竹谷としては、言いたければ言えばいいという意思表示を示したため、無理に聞きだすことではないか、と気になる気持ちを押しとどめ、代わりにのふんわりとした髪を気が済むまで撫でた。

「こうしてると、思いだすなあ。学園を出た日のこと」
「あ?」

なんとなく嫌な感じがした竹谷だが、彼女の口から次に出てきた言葉に顔を赤面せずにはいられなかった。

「竹谷、静かに泣いて見送ってくれて。こうやって誤魔化すようにひたすら頭撫でてくれたんだよね……いや、可愛かったなあ」

 楽しそうにくすくす笑いながら思い返す様子に、酷くげんなりした。当時は悲しみの感情が勝っており、そんな醜態をさらしていたことなどすぐに忘れてしまっていた。しかし、十四歳というまだまだ子供の年齢だったとしても、一人の女の子として彼女のことが好きで、涙を零すということを避けきれなかったのだ。今思ってしまえば、若かったなあ、とただの苦笑いにしかならないのだが。未だ肩を震わせているを軽く小突いた。

「忘れてくれ」
「嫌だよ」
「……そんなの一生の恥じゃねえか」
「そんなことない、嬉しかったよ。私がいなくなることを悲しんでくれた人がいたこと」

 本当を言うときちんと最後まで卒業をしたかった、と彼女は告げる。それは、忍になるためではなく、同じ時を皆と過ごしたかったからという理由のためだろう。しかし、上級生ともなると内容もどんどんと血なまぐさいものになっていく。あとあと、竹谷は揃って嫁にいってしまうくのたま達を見て、正しい判断だと思っていた。それを知らないはずもないのに、あの学園での生活はそれを忘れてしまうほど彼女にとって格別な思いでとなっているのだろう。苦い笑みで彼女の言葉を受け止めていた彼に気がついたのか、話題をそらすようにそういえばね、と切りだした。

「時効だから言うけど、あの時、竹谷のことが好きだったんだ。だから、すごく嬉しかった」

 ありがとう、と言いながら照れくさそうに笑う彼女を見た竹谷は胸が詰まりそうになった。不覚にも、何を言うべきか、戸惑ってしまった。咄嗟に自分も、とここで告げてしまおうと思わなかったわけではないがそれはできなかった。彼女にとって自分を好きであったことは既に過去なのだ。彼女の気持ちを混乱させてしまうだけであろう。そして、そこではっと竹谷は気付いた。自分の中でまだ、への恋心は生きているのだと。

「どういたしまして」

 動揺を悟られたであろうか。いささか不安に思いながらも、笑顔を貼りつけながらに向きあう。少し、頬が赤く染まった彼女は自分の言葉に自分で緊張を高めていたのだろう、竹谷の微妙に揺れた空気など気がつかなかった。その事実にほっとし、そろそろ時間かと薄暗くなってきたあたりを見渡して話を切り上げる。

「またここに来た時は、食べに行くよ」
「是非。お勧めは実は桜餅なの!年が明けて、あたたかくなった頃に食べに来て」
「おお、桜餅か。美味そうだなあ」

 お互いにふわり、と微笑み合った。今まで幾度も彼女の笑顔を見てきたが、竹谷は今のこの笑顔が最も綺麗だと感じた。闇に紛れることのない明るい世界で、地に足をついてしっかりと生を全うしている姿は竹谷には眩しすぎる。既に違う道を歩んでいるのだということを嫌でも悟ってしまった。

「約束だよ」

 そうしつこく言う彼女に何度も頷きながら果たしてまた自分がこの地に訪れることはあるのだろうか、否、ないだろうな、と心の奥底で自嘲していた。願わくば彼女がずっとこのまま平穏な暮らしの中に収まっていられますように、と。自分にはただそれだけしかできないのだと彼は自覚していた。綺麗に咲き誇る花を摘み取る覚悟も資格もないのだ。





崩れた花弁


*100913