しゅわしゅわ。目の前で弾けるサイダーは透明だけれど私には淡い水色のように見えた。背景の入道雲と空の鮮やかな青と白が水の中を反射して、キラキラと炭酸でできた空気の小粒を色づけている。ずっと長いこと外の茹だる様な暑さの中に放置しているので、無機質なペットボトルの容器のてっぺんからたらりと一滴の汗が流れた。熱い。ごくり、とそれを一口飲みこんだ。口の中の渇きは少し癒えた。

 じりじりと焦げそうな日差しを浴びつつも私はひたすら待った。しばらくしてようやく古めかしい車輪の音を立てながら近づく足音が聞こえてきた。ぱっと顔をあげると同時に真っ黒に日焼けしたあの笑顔が私を待ち受けていた。

「遅いよ、竹谷」

 ぎろ、と睨めばパチンと両手を勢いよく合わせる音が聞こえた。そしてきっと彼も私がそこまで怒っていないことを知っているのだろう、すぐににかっと眩しいくらいの笑みを彼は浮かべた。幾度その笑顔に振り回されたことか、と少々不満げにじろじろと眺めるけれどやっぱり私はその笑みに弱かった。夏が良く似合う、爽やかな笑顔だ。知らず知らずのうちに顔がゆるんでいく。「仕方ないなあ」と苦笑いすれば、すぐさま「じゃあ、帰るか」とお決まりの台詞が飛んできた。私は自分のスポーツバックを竹谷の籠に入れて我が物顔で後ろにまたがった。せがむように汗ばんだTシャツを握りしめる。首元は一筋の汗が伝っていて、どことなく香る制汗剤の匂いが可笑しかった。カシスならまだしも、似合わないフローラルな甘ったるい匂いがする。

「ねえ、竹谷、ニケツでいいよね」
「はあ?」
「コンビニも寄って帰ろう。アイス食べたくなっちゃった」
「お前なあ、小学生じゃないんだから」
「遅刻したのはどっちだったっけ?ほらほら、あっついんだからさっさと帰るー」

 ぐいぐいと真っ白な制服をひっぱった。軽く睨まれたけれど、しらんぷりを決め込む。遅れたことを少しは気にしているのか、最終的に、たく、と小さくため息をついてしぶしぶ了解してくれた

「怒られても知らないからな」
「先生なんて怖くないでしょ。今日、休日だから見回りなんてしてないよ」
「違うよ、もう一人俺とお前がこんなことしてたら怒るやつがいるだろ?」
「いないよ、そんな人」

 竹谷が指す人はすぐに頭の中に浮かんできた。不破雷蔵。つい先日まで私の彼氏、だった人。別れて数日しか経ってないのでその事実を竹谷はしらなかったのだ。もちろん私から彼に伝えることなど無かったし、雷蔵の方も敢えてそのようなことを告げなかったのだろう。自然と、丁度今のように、伝わっていくべき事実だった。

 雷蔵と竹谷は同じクラスで仲の良い友達だった。私が竹谷を初めて知ったのも、雷蔵を通してだった。夏には一緒にお祭りに行った。キャンプに行った。クリスマスはみんなで集まってパーティーをした。初詣も共にいった。どこから歯車が壊れたのだろう、私はいつのまにか竹谷しか視界におさめていなかった。ぎゅう、と心臓を直接つかまれるような痛さを伴ったまま過ごした半年はとても辛く、けれど幸せに満ち溢れていなかったわけでなく、甘酸っぱかった。

 私の声色が低くなりどこか沈んだものに変わったと察した彼は、「は?」、と一言だけ零した。運転をしているというのに、ちらちらと後ろを振り返ろうとする。

「前見なさいよ、前。危ないな!」
「あ……ああ、悪い。けど、お前ら別れたの?」

 私の口から簡単に答えが出てきたとき、竹谷はひくり、と喉を鳴らした。なんという言葉を投げかけようか思案しているようだ。これがもしも久々知だったならば何にも言わないで頭を撫でてくれたに違いない。良くも悪くも彼は人に無関心で、だからといって冷たいわけではない人だから。これが鉢屋だったなら散々罵倒したあげく、雷蔵のところへダッシュで向ったに違いない。彼は雷蔵が大好きなのだから。もしこれが尾浜だったら、黙って私の言うことを聞いてくれただろう。もし私が何も言わなければ慰めもしなければ怒りもしない。なら、竹谷はなんというのだろう。ぎゅうとスカートの裾を握りしめた。

「そっか」
「…………それだけ?」
「他になんて言えばいいんだよ」
「慰めるとかー話聞いてくれるとかー、いっぱいあるじゃん」
「……振られたの?」
「ううん、私が振ったんだけど」

 そう言ったら、「だよな、そうだと思った」、と返ってきた。「どうして」、と問いかければ彼は「そんなことすぐわかる」、と苦笑いした。どきんと私の胸が激しく疼いた。はは、と掠れた声が響く。

「雷蔵がお前を振るわけないってそれだけは確信してたんだ。俺らの前で何度も好きだ好きだって言ってたんだぜ。どんなことがあったにせよ、簡単に雷蔵がお前を手放すわけはないって、思ってた」

 ぱりん、とガラスが割れる音がした。雷蔵。私は小さくその名前を呟いた。私が何故別れを告げたのか、そのはっきりとした理由なんて伝えていない。伝えられるわけもなかった。彼が困惑するのは目に見えていたし、竹谷にも多大なる迷惑が掛る。これは私の一方的な感情だからだ。それに、勘の鋭い雷蔵のことだ。もしかしたら既に、気がついていたのかもしれない。別れよう、とこの口が告げたときに彼はなにもいわなかった。黙って「うん」と一言つぶやいただけだった。それだけで私たちの関係は終わってしまった。呆気なかった、とそのとき私は感じたが、竹谷の言葉を聞いてどれだけ雷蔵が私を気遣っていたか、わかってしまった。彼は恐らく気がついていたのだ。私の気持ちに。ひりひりとやけるような痛みが襲った。体中が痛い。嗚咽が漏れた。雫が流れているのに、目頭だけは他の部位より一層熱かった。雷蔵、と小さく呟けばあの柔らかくて照れ屋さんで、でも時々とっても男前な彼の姿が脳裏に浮かんできた。雷蔵、雷蔵、雷蔵。

「俺はお前の友達だけど、同時に雷蔵の友達なんだから。味方にはなれない」
「……味方になんてなってくれなくていいよ」

 私はそれを望んでいない。竹谷に共感してほしいわけでも、竹谷に怒ってほしかったわけでもなかった。ただ、私は彼の一番になりたかった。何を犠牲にしてでも、それに成りたいという覚悟はあった。けれど、雷蔵の別れ際に見せた悲しそうな微笑みと、目の前の彼の心を柔らかく付きさす言葉に私はもうこれ以上身動きをとることは許されないのだと感じた。彼と私の間から、友情を取り除いてしまったとして、あとに何が残るだろう。茫然としながら、それでも必死に言葉を紡いだ。最後のつながりだけは、消えてしまわない様に。

「ただ、ただね。……ずっと友達でいてくれればそれでいいの」
「なにいってんだ。雷蔵と別れたってとの友情が終わるわけないだろ。んなこと気にしてたのか?」
「違うよ馬鹿」

 眩しい光の元、仕方ない奴だな、と苦笑を見せる竹谷の腰に手をまわしてぎゅっと抱きついた。これで、八方ふさがりだった私の恋は完全に封鎖された。これから流れ着く場所もないこの気持ちをどう漂わせていけばよいのだろう。けれどもそれは私が雷蔵に与えた悲しさにすればよっぽど納得のいくものだ。自分で選んだのだから。竹谷の暖かい手がお腹に回した私の手を包んだ。触れた右手が熱を持っているかのようだ。しょっぱい塩分をその服にこすりつけるようにしっかりと力を込めた。

 しゅわしゅわと解ける炭酸のように溶けてしまえたらいいのに。全てを透明な空気に混ぜ込み、あたかもそこには存在しなかったかのように、できたらいいのに。汗臭さとシップの匂いと、ほのかな場にそぐわない甘い香りに包まれながら私は静かに目を閉じた。脳裏にはもう、誰も映っていなかった。






夏色サイダー
私には、「好き」と言う資格がなかった。


*100609 一部修正。