寒々とした空気の中、はっはっは、と整った呼吸音を響かせながら走る男性がいる。白い足を晒しながら外周を走り続ける彼は、陸上部のエースだった。大学に隣接される競技場で、毎日欠かすことなく彼はトラックを走っている。男性だというのに、どこか女性めいた美しさを持つ彼は、走っている姿もとても輝いていた。 そんな彼を見つめる影が一つ、フェンス越しにある。彼女はという、この大学に入学してそろそろ一年が経とうという女性だった。彼女が彼を見つけたのは、ほとんど偶然だった。四月、まだ入学してたてで旧館の行き方もわからなかったが旧館とは逆方向にある陸上競技場へ迷い込んだのがそのきっかけだった。本来なら、運動とは無縁の生活をしている彼女がここに訪れる機会は恐らく無いに等しかった。けれど、なんの導きかは知らないが彼女はその日、ここへ辿り着いたのだ。そして、そのとき彼女の脳裏に焼き付いて離れない姿を見ることとなる。 「久々知くん」 小さく、はその名を呼んだ。所謂、一目ぼれだった。あの暖かい春の日も、丁度このように彼はトレーニングを積んでいた。まだ入って日も浅い。早速サークルに参加している様子から、なるほど、陸上の部門ではかなり期待をされているのかもしれないとすぐに想定できた。もしかしたら、がのほほんと地元の友達と受験が終わった解放感から遊び呆けていた春休みの間からこの施設を利用していたのかもしれない。それほど、彼はこの場に溶け込んでいた。最初の頃はその落ち着いた素振りに先輩だと勝手に思っていたくらいだ。一定のリズムで走る彼は―恐らく、長距離専門なのだと思う。スタートダッシュの練習を彼がしていなかったわけではないが、が見る機会が多いのは永遠と外周を走っている姿だったから。その日、新品の教科書を抱えたままうろうろしているを一番最初に見つけたのも彼だった。何時の間に迷い込んだのか、小さな林からひょっこりと顔を出したを見咎めて、練習を一旦停止し、わざわざフェンス前まで駆けてきてくれたのだ。 「どうしたんだ?」 それだけで、次の講義に遅れるかもしれない、と切羽詰まっていたにとっては本物の王子よりもそれらしく見えた。練習着だったので、おしみなくすらっとした細身の体なのにバランスよく付いた筋肉を見せつけられ、ぽっと頬を染めてしまった。後から回想してもあそこでの自分の反応は正しかったと断言できる。人見知り、ということもあり、ほとんど半泣きで「旧館の場所がわからないんです」と告げたに彼は「それなら真反対だけど」、と今来た方角をそのまま指して苦笑いした。今まで必死にこの雑木林を歩いてきたというのに、とショックを隠せない自分を見て不安に思ったのか、「ちょっと待ってて」と一言言い残してそのままグランドを離れた。 「送ってく。どうせ自主練だし。初日から遅れるなんてしたくないもんな」 付いていく間はずっと無言だったけれど、優しさだけは溢れていた。なにより、優しくない人がこんな風に知らないただの学生を送ってくれるわけがない。完ぺきなノックアウトだった。 それから、学部の違う彼とは接点のないままこうして時々練習を見るだけの日々が続いている。彼は学内でも陸上の成績や、スポーツだけでなく学問の成績もいいということで一目置かれている存在だった。そんな彼が果たして自分のことを覚えていてくれるのだろうか、それははっきりいって零に近いだろう。けれど、こうやって彼が練習する姿を眺めているだけでは満足できなくなっていた。……この気持ちを伝えたい、と思ったのだ。それに、ここに頻繁に足を運ばせているから気付いた事実ではあるが、確実に自分と同じような気持ちを抱えている女の子が一人、存在する。偶にひょっこり現れる彼女の視線は明らかに久々知に向いているのだった。 (久々知くんの大会が終わったら、告白しよう) そう、心に決めていた。奥手な彼女にとってここまで自分を動かそうと躍起になった恋はこれが初めてだった。報われなくてもいい―もちろん、想いが叶えばそれに越したことはないのだが―ただ、眺めているだけでは自分の気持ちは伝わらない。そう突き動かされるようになったのは、恐らく久々知自身の影響もあるのだろう。毎日毎日、地道に練習を重ねる彼の姿は誰よりも立派で、数少ない自分の勇気を後押しするだけの力があった。 随分と前から、一人の女の子が一定の時間帯にフェンスの前に立っていることに気がついていた。彼女の存在に気がついたのは、もう随分と前、それこそまだ太陽がギラギラと暑苦しく輝いていた時だと思う。もう半年ほど、彼女は偶にここに訪れては、練習を見学していた。誰を見ているのか、それははっきり言えば分からない。この大学は陸上部だけでも規模が大きく、相当な人数がここで練習を重ねているのだ。ただ、自分が練習している時間帯にふと目をやると大抵そこにいる。……これは自惚れてもいいのだろうか、と最近は勝手にもそう思い始めていた。 彼女のことは実のところ結構知っていた。言葉を交わしたこともあるのだ。それ自体は本当に、約一年も前になろうが、久々知はしっかりとそれを覚えていた。入学して間もない頃、一人自主練習をしている時に雑木林からはっぱを全身にくっつけた女の子が現れては印象に残すな、と言われる方が難しいだろう。方向音痴なのか、彼女が目指す旧館とこの競技場は真反対に位置し、それを告げてやると酷く落ち込んだような表情を見せていた。あっちだ、と方向を示したところで無事にたどり着けそうもない彼女の様子に、仕方がないか、と道を案内したのだった。途中、会話らしい会話はしなかったけれど―久々知自身がしゃべりが得意と言うわけでもなく、その彼女もどうやら人見知りの様で口数が少なかった―最後に旧館が視界に入った時に見せた彼女の嬉しそうな笑顔が忘れられなかった。 「助かりました、どうもありがとう」 一目ぼれ、だったのかもしれない。夏に彼女がフェンスの向こうから競技場を眺めているということに気がついた時は、本当に驚いた。彼女の目的が自分だったらいいのに、と心の中で何度も期待しながらも、同じようにグランドの中を駆け巡っている全ての男性に敵対心を覚えていたほどだ。 時間は流れ、結局、直接接触する機会にも恵まれずあっという間に一年が終わってしまった。久々知も忙しく、春の大会に向けて最後の追い込みをしているところだ。まだ肌寒い気温の中、グランドを駆け巡る。例にもれず、今日も彼女は姿を現していた。マフラーをぐるぐると巻いてじっと見学しているその視線は誰に向いているのか、それはここからでは全く見えなかった。自分は体を動かしているので暖かいのだが、彼女はずっと突っ立っているだけ。見るたびにあまり体力の無さそうな彼女が風邪を引いてしまわないだろうか、と心配になる。 「兵助、次、俺らの番」 「おう」 同じ学年で、同じく長距離専門の奴が声を掛けてきた。瞬時に頭を切り替える。そこに先ほどまであった彼女の面影はない。大会まで、残りわずか。もう少しで練習詰めの毎日が一旦終わりを告げる。そうしたら、その時は―。 (告白しよう) 久々知は堅く心に決めていた。ぴっという笛の音が耳を振るわせる。その瞬間、駆け出した彼は誰よりも綺麗だった。 辿り着いた世界 *100605 (title by.precious days / タロットカード22のお題より) |