彼女と過ごした時は昔のことだけれど、彼はそれを過去にできずにいた。物理的距離をとって視界にいれないように、この地まで辿り着いたが、それでも彼の心は未だ彼女にとらわれていた。放してくれない。どんなにぞくぞくする対戦者に巡り合おうと、嫌な英語のテストで居残りさせられようと、可愛いと評判のクラスメイトに告白されようと彼女に対する感情の代弁になってくれることはなかった。一時の解放感はある。悦になって満たされた気持ちになる。けれどそれはほんの些細な時間だけ。すぐに、別の欲望がむくむくと膨れ上がるのだ。彼女が欲しい、と。そのとてつもなく貪欲で、馬鹿げている果てしない望みが赤也の心中を満たしていく。より強い快感を得た後遺症としてなのか、満たされていると感じたときにその欲求はしばしば強くなった。自分は彼女以外の何かに満たされることさえも許されないのか、とそのことに気がついてからはより一層彼女に近づきたくなくなった。実際には近づこうにももう二度と近づくことさえできないのだけれど。いつか忘れるときが来る、と信じてやまなかった。

「赤也、お前さん大丈夫か」

 頭上に陰ができる。ぼんやりと視界の中にうっすらとした白が見えた。そしてぱちぱちと幾度か目を瞬きして、自分がまた意識を飛ばしていたということに気がついた。赤目モードになったときはそれこそ意識ははっきりしているのでそれではない。真田ならばここで一喝でもするだろうが、仁王はそのようなことをするような人間ではない。「さーせん」と掠れた声で呟きながら立ち上がった。仁王はコートの中で指導をしている真田をちらりと捉えて、その視線がこちらへ向いてないことを確認してから赤也に向き直った。

「日射病か。大分、目が虚ろじゃった。水分でも取ってき」
「平気ッス。ちょっと考え事してただけなんで」
「倒れたらそれこそ練習にならんじゃろう。行ってこい」
「……もしかして柳生先輩ッスか」

 彼は仁王の珍しい最もな台詞に、訝しげな表情を見せた。それに仁王は「あほか」と軽く赤也の頭を小突いた。どうやら、本物の仁王らしい。先輩風というか、後輩を気遣うようなことを見せたことが無い彼がこのような態度にでるのだから、自分はそれほど悲惨な顔つきで呆けていたのだろう。「すんません」と再び呟いて、マネージャーのいるベンチへ向った。

 夏になると余計に酷くなるらしい。彼女との別れは今日のように溶けてしまうほど暑い日だった。運動部に所属していた彼女の肌は健康的な小麦色で、買ったばかりという白のワンピースが浮いてみえた。けれど、そのコントラストは彼の記憶から離れない。うっすらと笑みさえ浮かべて彼女は自分の肩を細い腕で抱きしめて、残酷な一言を告げたのだ。

「さよなら、赤也」

 フラッシュバックでそこまで思いだして、涙が出そうになった。たった今、体の中にじんわりじんわりとしみ込ませていった貴重な水分をのがしてなるまいかとぐっと顔をしかめる。タオルを頭からぶら下げて、コートからは絶対に見えない部室の裏の木陰までふらふらと歩いた。

「好きだ。俺はが好きだ」

 誰よりも。本当は別れたくなかった。あの時どうしてそう言えなかったのか、今となっては後悔ばかりが押し寄せる。好きだ。好きだ。好きだ。そう、毎日毎日、馬鹿の一つ覚えのように繰り返している自分にほとほと呆れもさすが、感情をコントロールすることを彼は苦手としていた。特に、こればかりはどうしようもない。忘れるどころか、年を増すごとにその感情は膨らんでいっているような気がした。幼い頃は漠然とした好きという感情だったものがいつの間にか執着という色を併せ持つようになったのだ。



 雲ひとつない清々しいほど真っ青な空を見上げた。どうしては自分の傍から離れて行ってしまったのか。あの小さな腕に縋ってでも「別れたくない」と言えなかったのか。その答えはまさに今の自分自身だった。それに薄々彼も気がついている。いや、認めずにはいられなかった。離れてみて初めて分かるということもある。彼女がいなければ生きていけない。そんなことを懸念させるような行動が当時の赤也にはあった。そして彼女は彼の過剰な依存を恐れたのだ。しかし、だとすれば赤也は一生この喪失感を味わったまま生きることとなろう。代替する存在が見つかればいい。だが、それもまだ叶わなかった。震える指先でぎゅっと汗臭いタオルを握りしめる。小うるさいセミの鳴き声が彼の思考を邪魔するようにこだましていた。



強すぎる欲望は、

人を盲目にさせる

*100711  (title by.precious days / タロットカード22のお題より)