わくわくする、という言葉を呪文のように唱えていた昔。今でも新たなものに出会った時にびしびしと流れる興奮を抑えることはけして無い。けれど、昔のようにはしゃぎまくるようなこともなくなったわけで。テニスに精を出してコートを駆け巡っていたときは今のような状況なんて予想もしていなかった。心持ち、いつかはそうなるだろうという懸念はあったかもしれないがこんなにも早くあっという間で呆気ないものだとは思ってもみなかった。交差点を過ぎて薄暗いトンネルの中を歩く。一人暮らしのアパートは狭くて寂しい。帰宅した後に誰もいないなんてことが今まで無かったから、それに慣れるのには苦労した。

 電車の時間をベンチで潰す。カフェオレを口に含みながら、金曜日という魔法の日を嬉しく思った。この日ばかりは車内のほとんどの人の足が軽やかだ。明日は何をしよう、ゆっくり昼まで寝てやろう、なんて考えているせいかもしれない。ジローはつかれた顔でこくりこくりと眠っている親世代の男を盗み見しながらくすり、と笑った。人はまばらだ。都心へ向かうならまだしも、更に外れた奥地へとこの電車は向っているからだろう。自分も電車の振動に耐えかねて眼を閉じようとしていた。一定のペースで揺れるそれは気持ちいいリズムとなって体に刻まれる。

「ジローくん?」

 小さな呼びかけに彼の脳は奇跡的に反応した。重い目を薄く開けてみると、自分より少し小さい女性が探るようにしてこちらを見ている。だれだったかな……と疑問に思いこちらもじーっとみていると、やっぱりジローくんだ、ととてとてと近づいてきた。肩まで伸びた髪の毛を耳の横でちょこんと結んで、化粧っけの薄い顔をしている。首を右にこてんと傾げれば、苦笑いされた。

「覚えてないかな。中学の時に同じクラスだったなんだけど」
……ちゃん?」
「そう、あたり!よかった、覚えてもらえてて」

 彼女の名前は確かに馴染みが合ったけれど、とても昔のと今のでは似ても似つかぬほどの差が合った。あの頃は化粧なんてするようなタイプではなかったし、教室の隅っこで本を読んでいるような大人しい子だったのでこんなにふんわりとした雰囲気を持っているとは気付かなかった。女の子ってすごく変わるんだなあと感心していると、柔らかい笑顔で彼女は微笑んだ。

「仕事の帰り?」
「うん。そー、俺、こう見えて普通のサラリーマンだから」

 実家のクリーニング屋は兄が継いだので実質自分はこうして他の企業に勤めるしか働き口がなかった。兄はしっかりしているし個人経営に向いていると思うので、親の判断は間違いではなかったけれど今思えば自分があの家でクリーニング屋をついでいたらこんな言いようのない寂しさは押し寄せてこなかったのではないか、と後悔している。歳が離れているので自分が高校生だったころにはすでにあの店は兄のもの、であったのだけれど。釣り革に伸ばす手を緩めて、持ちかえればお疲れさまと言われた。

ちゃんは確か、県外に引っ越したんだよね。就職はこっちでしたの?」
「両親は反対したんだけど、こっちに会いたい人がいたから無理やり出てきちゃった。就職難だって言うのに、今考えればすごく運がいいと思う」
「……会いたい人?」

 こてん、と問いかけるように首を傾げれば強く首を縦に振った。会いたい人……、といえはばこちらで過ごした中学が一緒だった者とかに限られてくるのではないだろうか。あの頃に彼女と特別親しくしていた人って誰が居たっけ、と思考を膨らませていると、ぴんと薄いピンクのマニキュアが塗られた人差し指が芥川を指した。

「会えて、嬉しいよ」
「え?ちょっと待って。…………俺?」
「そうだよ」

 突然のことについていけずに目を白黒させているとくすりと彼女は微笑んだ。意外な事実に驚きを隠せない。名前を聞いてやっと思いだしたくらいだから彼女と自分の交流なんてほとんどないようなものだった。なのに、彼女の就職先まで左右してしまう人物が自分だったなんて。

「ジローくんの笑顔が好きだったから。会いたかったんだ」

 率直に好き、と言われて心臓がどくりとした。

「笑顔だけ?」
「……ジローくんが好きだよ。特に笑顔が一番好き」

 伝えられてよかった、とほっとしたように零した。いきなりの展開に着いていけない頭をふる作動して、ぐいと手首をつかむ。

「携帯番号、交換しよ?」

 わからない気持ちが胸をいっぱいに駆け巡る。花のように笑う彼女の笑顔に、どこか、わくわくとした高揚感が押し寄せてきた。感じたことのある懐かしい感情。耳元で囁くとぱっと頬を赤くさせた彼女がとても可愛かった。



新鮮な環境、すべての始まり

*100206  (title by.precious days / タロットカード22のお題より)