しょっぱい味がした

 の身長は一般的な女の子と頭一つ分異なる。
 自分の身長にコンプレックスを感じた体験が殆どないとは言い切れない。幼い頃から身長が高かったので、自分よりも背が低い男子がやっかみを持ち、何かと「デカ女」と悪口を言われていた。しかし、はそれに簡単に屈することはなく、むしろ「チビ男」と果敢にも言い返していた。
 背が高いことは悪いことではない。逆に言えば背が低いことも悪いことではない。コンプレックスに思うことでもない。幼い頃からそう信じてきたし、今でもその信念を貫いている。
 このようにはっきりと割り切ることが出来たのは、もちろん、の性格があってのことだが、なによりは長身の家系に生まれているという一点に尽きる。上の兄は男性らしくコンプレックスになることもないだろうが、彼は家族に似て高い身長を手に入れてしまった妹に対してよくこのように言い聞かせていた。
 スラリとした体型なので、大人っぽい服がよく映える。一方で可愛らしい服は似合わない。それを自覚していれば、自分に合ったスタイルというものが解ってくる。
 スポーツの才能はそこそこでも、手足が長いことでボールやゴールに手が届きやすい。努力で補えば、それなりに運動ができるようになる。人一倍、スポーツを楽しむことができる。持って生まれた武器の一つだと成長をしていくにつれてより肯定的に捉えるようになっていた。
 は背の高い自分が決して嫌いではない。
 嫌いではない、はずだった。

 の視線はこの頃いつもとある方向へ向く。
 自分よりも背の高い、大きな背中。高校生にもなるとと似たような身長の男子はごろごろ存在するけれど、中でも彼は群を抜いて高かった。百八十センチにもう少しで達するという。世界的に見れば低身長の多い日本人の中では、かなり背が高い。
 たまたま先週出された課題を図書室で終わらせて帰ろうと思い、立ち寄った日のこと。普段は当学校の競合クラブであるサッカー部に所属し、放課後は多くの時間をその練習に費す。その日は偶然にも練習が休みだったらしく、彼は図書室にいた。と同じように、先週に出された課題を終わらせようとしたのだろう。
「これ?」
「あ、うん、それ。ありがとう、杉江くん」
「いや、大したことじゃないから」
 目当ての本を探している最中に、手が届かなくて困っている彼女に救いの手を差し伸べたようだった。はその姿をバッチリと目撃してしまう。杉江を見上げ愛嬌のあるハニカミを見せる彼女に、理不尽にも苛立ちを感じた。
 優しい人だなあ。
 心の中に浮かんでくる羨望の気持ちを否定することなく素直に心の中に浮かべた。ぼんやりと二人の様子を目で追う。どことなく良い雰囲気である。それがまた苛立ちを誘った。いいなと再度心の中で嫉妬に似た感情を繰り返し呟く。
 隣の友人がツンとの肩を人差し指でついた。
「不機嫌そうな顔して。睨むのはやめなよ」
「……睨むまでいってた?」
「そりゃあもう、恨めしそうにしてた。一体何を見てたの」
 はチラリと視線だけを二人の方向へ向けた。友人もそれをそっと目で追い、仲睦まじくなにやら話し込んでいる二人を視界に入れた。そして「なるほど納得がいった」というような、何かを悟った表情を浮かべる。彼女の目が面白そうに弓なりに曲がった。
「あの二人、なにやらいい感じだねえ。付き合ってるのかな」
「知らない」
 素っ気なく返事をする。ますます友人はにやにやと笑みを深める。これは本格的に面白い獲物を見つけたと思われているのだろう。ずいずいと椅子を寄せて内緒話ができる距離まで身体を近づけてきた。
「いつから」
 女子というのは、大概が他人の恋愛話を好む。もそれを否定するような性格をしているわけではない。だが、いざ自分がその標的となると好奇心むき出しの態度にはやや逃げ腰になってしまう。押し寄せてくる友人に対しての身体は自然と後退した。いつもターゲットにされていた女の子たちはこんな気持ちだったのか。自分が体験して初めてその人の気持ちが理解できるというのは紛れもない事実だ。
「一ヶ月くらい前」
「に、なにがあったの。そこのところ詳しく教えなさい」
「……」
「ここじゃ話しにくいなら、ちょっと場所を変えようか」
 彼女はにこやかに笑いかけ、の手を取り誰もいない教室へ足を進めた。

、ちょっといいか」
  ある日の放課後。部活の予定もなく、これからただ帰るだけのを呼び止めたのは、副担任の化学教師だった。模範的な学生であるは「はい、なんですか」と律儀に立ち止まる。まだ若く親しみやすい態度で生徒に接する彼は、ぱちんと両手を口元でついて、「すまないが」と口を開いた。ああなんだか厄介なものに引っかかってしまった気がする。脳内で後悔の二文字がこだました。
「すまないが実験室の右上のガラス扉においてある使い古しの顕微鏡を取ってきてくれないか。先生、これから会議でな、取りに行ってる暇がないんだ。机の上に置いておいてもらえればいいから」
「え、思いっきり雑用じゃないですか」
「お前なら届くだろ。よろしく頼む」
 かよわい女子に顕微鏡なぞという重い物体を運ばせるおつもりですか。
 なんて冗談を込めた不平を口にしようと思ったが、会議はもう目前に迫っていたようで軽口を挟む間もなく、先生は焦った様子でその場を去った。頼まれたものはしょうがない。はしぶしぶ化学室へ向った。
「あれか」
 ガラス扉の中にしまわれていると教師は言っていたが、実際には棚の一番上の空いたスペースに置かれていた。これはの身長をもってしても台を利用しなければ届かないだろう。取り難いところに収めやがってと、脳内で教師に文句を垂れ流す。
 その時、実験室の扉が勢いよく開いた。慌てて室内に入ってきたのは、スポーツバックを肩に掛けた同じクラスの杉江勇作だった。何故、放課後のそれもこんな人の寄り付かない場所に杉江がいるのだろうか。彼は普段は一目散にクラブハウスへ行っているような、クラスでも有名なサッカー男子だったはずなのに。
「ごめん!」
 一応クラスメイトであるし何かしら声を掛けようとが口を開きかけたその瞬間、謝罪の言葉が彼から飛び出した。さらに彼は、前髪が垂れるほど深く頭を下げたのだ。は驚いて目を丸く見開いた。いきなりの不可解な行動に頭が付いていかず、混乱ばかりが脳を占拠する。
 自分は何か謝罪されるようなことを杉江にされただろうか。否、まるで記憶はない。
 現状に置いてきぼりのの様子にも気がつかず、杉江はひたすら申し訳なさそうに続きを述べた。
「今朝までははっきり覚えてたんだけど、放課後にはすっかり忘れてしまってて。そのまま部活に行ってたんだ。本当にごめん!」
 さっぱり話についていけないが、人違いであることは理解した。には杉江と何かしら関わったような記憶がさっぱりないからだ。
「多分それ私じゃないよ」
 困ったような表情で幾度も謝罪を繰り返す杉江に対し、つとめて冷静な声で告げた。杉江は「え」と小さく零したあと目をぱちぱちと瞬いた。拍子抜けしたようにぽかんとしている。
「あれ、さんじゃないの?」
「うん違う。というよりも、もしかして告白? 呼び出されたの?」
 杉江の浮いた噂はあまり耳にしたことがないが、この慌てようだともしかしたら恋愛絡みの話なのかもしれない。ふとその結論に思い至った。野次馬根性がむくむくと湧き、思わず問いかけてしまう。
 杉江はきょとんとした顔をした後、表情を崩して、「違う違う」と手を横に振った。
「今日、ここの教室の掃除当番だったんだ。だけど、ついそのまま部活行っちゃってさ。人に言われてやっと気が付いて慌てて来たけど、……もう掃除は終わってたみたいだね」
「私が来た時にはもう誰もいなかったから、結構前に終わってたのかもしれないよ」
「やっぱりそうか。あー、明日また謝らないと」
 くしゃりと短く揃った後ろ髪を掻き回す。杉江がどれほどサッカーに打ち込んでいるか、それはHRを終えるとすぐさまグランドへ顔を出す姿を知っているクラスメイトたちは「さもありなん」とすぐに許してくれると思うけれど。
さんは、どうしてここに?」
「化学の先生にちょっと頼まれてさー」
「あれ」と右上を指差す。杉江は示した方向に沿ってくるりと後ろを振り返った。ガラス板から透けてよく見える大きいダンボール。その辺りに沢山椅子は転がっている。それを引っ張ってくれば、多少重さはあろうけれども間違いなく自分は簡単に取ることができる程度の高さにそれはあった。
 けれど。
「ああ、あれ? ちょっとまってて」
 杉江はそう言うが早いかずるずると生徒用の丸椅子を引っ張り出した。そのまま上履きを脱ぎ、椅子の上に立つ。ほんの少しだけ背伸びをし、棚の上に手を伸ばした。不安定に見えたので、は慌てて椅子を支えた。
「はい、どうぞ」
 埃を被ったダンボール箱を差し出された。
 至極当たり前のように為された行為に、は言葉を失う。なんと返答すればいいのか、それは考えずとも自然と口から出てくるべき感謝の言葉なのだけれども、少しだけ戸惑った。口がまごつく。落ち着かない気持ちもある。それは、背の高いにとって今まで決してしてもらうことが無かった対応だったからだ。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
 当たり前のように杉江は返し、微笑みを浮かべる。それが酷く気恥ずかしい。
 杉江にとっては全く特別なことではない。もちろん、は解っていた。自分よりも背の高い男の子。このように頼まずとも率先して自分から動いてくれるというのは、それだけ他の場面でも同じように頼りにされていることが多かったということ。彼にとっては当然の行いなのである。自分を特別視しているわけではない。だが、はそれでも嬉しく感じた。何故か。生まれ持った身長がその体験をより一層貴重なものとさせていたから。恥ずかしながらも、自分には相応しくないと解りきっていることに女の子らしさを感じ、憧れていた部分があったということを否定することはまるでできなかった。
 その日を過ぎてから、は杉江をよく目で追う様になった。

 体験の一部を友人に話して聞かせた。全てを聞き終わったあと、彼女は何か言いたそうな意味のある視線を自分に寄越した。
 なるほど、その瞬間、杉江に恋をしたのか。
 得意げな表情をして、言いたくてたまらなそうだ。にはそれが手に取るように解る。けれど、果たしてこれが本当にそうなのか。自分でも気持ちがよくわからない。なにせ、は今まで高校生にしては珍しく恋というものを自覚したことがないのだ。恋というのは「はいこれが恋なんです」と判断できるような明確な基準は存在せず、徐々に本人が己のなかで結論をつけていくものであるが故に余計に。は自分の中に芽生える感情を大きく持て余してしまっていた。
「今まで私はああいうことしてもらえなかったから」
「え?」
「……なら自分で取れるだろって呆れた顔をされるんだよ。大概、椅子を持ってくれば取れるし、男子の手助けをむしろ私がするくらいだったから言われても困るんだけどさ」
は杉江の身長に魅力を感じちゃってるわけだ。自分よりも背の高い人間なんて滅多にいないもんねえ。まあ、身長を未だ成長途中の男子高校生に期待するのも難しいのかもしれないけど」
「そうなるのかなあ」
「何でそんな微妙な顔してんの?」
 友人は不思議そうに首を傾げた。
「背が高いっていうのもまあ限定された狭い校内だとその人だけが持ち得た身体的な彼の特徴でしょう。それにプラスして相手にはを気遣うだけの優しさが備わっていた。好きになるには十分の要素だと思うよ。なにをためらうことがあるの」
「ためらっているわけではなく」
「でも、気になるんでしょ?」
「……それはまあ」
「私は応援するよ。頑張れ」
 ぽんと手のひらで右肩を軽く叩かれた。はどうしたものかなと苦笑いしながら「適当にやるよ」と返した。

 秋も中盤に差し掛かると日照時間はだんだんと短くなり、下校時刻にもなると綺麗な夕焼けが顔をのぞかせていた。クラスの異なる友人とは下駄箱の場所も分かれているので、少し先にある門で待ち合わせてある。今日は課題を片付けようと思ったのに、途中から妙な話題にずれてしまった。あの話が済んだ後も、は杉江のことをもやもやと考え続けていた。お陰で課題はあまり進まなかった上に、より一層彼のことを意識している自分に気がついてしまった。すっきりしない感情と課題を抱えたまま下校放送が流れ、帰宅することになった。
 木製の下駄箱から履きなれたローファーを取り出す。出席番号のおかげで自分の腰よりも下に入れなければならず、少々取り難い。しゃがんで上履きを収めていると、ふっと真上に影ができた。誰だろう、と顔をあげると丁度その人も下を向いていたらしくばっちり目が合った。ごくりと息をのむ。杉江勇作がそこに居た。
さん、おつかれ」
「お、おつかれさま」
「またあした」
「うん、またあした」
 オウムのように杉江の口から出た同じ言葉を繰り返すことしかできなかった。彼もまた人と待ち合わせをしているのか、そのままにむかって小さく手を振り早足で門へと向かっていく。も手を振り返す。たったの二言三言の会話なのに、今まで感じたことのない緊張がを襲った。苦しいのか嬉しいのかよく解らない。
 これが、恋なのだろうか。
 にとっては未だ体験したことのない、未知のもの。
 そんな感情を今、自分は彼に対して抱いているのだろうか。
 は杉江の広い後ろ姿が見えなくなるまでその場に立ち続けた。茜色を帯びていた空は青へと移り、ゆっくりと夜の空へと変貌していく。ふうと小さく息を吐いて、玄関で待ちくたびれているであろう友人にどう言い訳したものかと考えながら一歩足を踏み出した。

121018