薄暗い室内に仄かな明かりを灯す照明灯。ぼんやりとした思考のまま辺りを見渡す。二つ分の枕が添えられたベッドルームは今の状況を端的に表している。ここは所謂ラブホテルというもの。ムーディな空間に男女が二人きりで取り残されている。どのような状態にあるのか、想像は容易い。
目の前には、現状にどのように対処するべきか迷いを見せている男性がいた。
「止めましょう、さん」
柔らかだか拒絶を表している男の低い声が響く。私は恥ずかしげもなく衣類を脱ぎ散らかしてベッドに身を任せた。ここまで来てしまえばすることは一つなのに。あとは、最後の壁を突き破るだけだ。とん、と彼の胸を軽く押した。
私は杉江のことが好きだった。
彼とは仕事の付き合いで知り合った。外見は好みのタイプというわけでもなかったが、段々と彼の内面を知っていく内に惹かれていった。思いやりもあり、杉江の恋人になりたい。私のことを好いて欲しい。単純にそう願うようになった。
しかし、その恋が実ることはなかった。杉江にもまた好きな人がいた。その人物は、彼にとっては決して手の届かない人だった。既婚の壁は大きい。付け入る空きがあるならまだしも見るからに夫婦円満。きっと彼女たちは仲睦まじい自分達をみて切ない感情を抱いている人間がこの世に存在しているということを知らない。
私がその事実を知ったのはほんの偶然からだ。彼は報われない恋をしている。自分の好きな相手が一途に別の相手を想っているさまを、傍から眺めるしかできないのは非常に辛かった。見ていられない。杉江が不憫でならない。というのは私の一方的な感情で、どう同情したところで彼の気持ちが報われることなどないし、本当は報われて欲しくもなかった。
「その恋は叶いませんよ。だから、早く諦めて私を好きになってください」
この台詞が幾度も脳内を駆け回った。実際に音として言葉には出来ずとも、何度も浮かんでは消えを繰り返した。けれど、私がそう念じているにも関わらず彼はずっと彼女に囚われ続けていた。――彼の気持ちが解らないわけでもない。私自身、こうして杉江に囚われ続けているのだから。
両想いなんて幻の代物だ。どうせ気持ちが手に入らないのなら身体だけでも欲しい。一夜だけでもいい。彼に抱かれたい。今夜は酔いがその気持ちに拍車を掛けた。気が付けば、ほどよく酒に飲まれた彼をホテルへと引きずり込んでいた。
耳元に唇を寄せる。逃げ腰になった杉江を上から押さえつけて、かぷりと甘噛みする。こめかみの辺りからはすっと爽やかな香りがした。彼らしい、清涼感のある匂いだ。目を細め、くんと鼻を鳴らす。耳の形に沿って舌を這わした。「ん」と杉江の肩が微かに震えたのが見える。自然と口元には微笑みが浮かぶ。
「さん」
咎めるように強く名前を呼ばれる。焦りが含まれているようにも聞こえ、気分が良くなる。少しは感じてくれているのだなと嬉しくなった。
そのまま行為を続けようとしたが、次の瞬間にはあっさり引き離されてしまった。
「後悔しますよ」
彼の言葉と動作に思わず不満気に顔を顰めてしまう。
「俺にその気はないですから」
私は聞いていない素振りをして、再び唇をつんと尖った耳へ寄せた。特徴的な形をしているとよく指摘されるであろうその部位が、私はたまらなく好きだ。可愛らしくみえる。外側をなぞるように再び舌を這わした。態と吐息が交じった声で囁く。
「少しも、その気にならない?」
熱さと興奮を含んだ声に、ぞくり、と彼の身体が震えるのが解る。むき出しになった太腿に大きな手のひらが忍び寄る。が、寸の所でぐっと離れた。自制心が強いにもほどがあると心の中で落胆する。杉江が手の早い人だったら、こんなに苦労していなかっただろう。
「ならない」
はっきりと聞こえた声に、急に羞恥がこみ上げてきた。大きなため息が背後で聞こえる。キングサイズのベッドが大きく軋んだ。二人の距離が少しだけ開く。手を精一杯伸ばしてようやく届きそうなところに杉江は腰を下ろした。ぽっかりと空いてしまった空間がもの寂しい。
「杉江さんは馬鹿だなあ。流れに身を任せれば美人が抱けるっていうのに」
内心の悲しさを誤魔化すようにそう呟く。精一杯の強がりだった。
杉江は呆れたように嘆息した。
「自分で美人って言うんですね」
「だってそうでしょう。美人だっていう自覚ありますよ」
自ら口にすることでもないが、自分の外見が男性にとって魅力的であるということは二十数年生きた今、よくよく解っている。対象を杉江に絞らなければ相手に困ることはほとんどないと言い切る自信もあった。「胸もそれなりにあるし」と豊満なそれを持ち上げて強調してみせた。つられるようにして杉江もそれまで敢えて視線を向けないようにしていた胸部をみた。すぐさま視線を逸らす。慌てた様子がないのは残念だ。胸が全てではないというタイプなんだろう。
杉江は、散乱している衣服の中から自分のジャケットを取り出した。それを剥き出たままだった私の肩にかける。散々醜態を晒した私にも紳士らしく接してくれるようだ。杉江らしいとふと頬を緩める。彼は優しい。残酷なほど優しい。だから私は勘違いしてしまう。もしかしたら欠片でも可能性があるのではないかと独りよがりの解釈をしてしまう。
「私、杉江さんのこういうところが好き」
気が付いたら私はそう口にしていた。何年も彼を好きでいるが、「好き」という感情を言葉にしたのは初めてのことだった。たったそれだけで胸が締め付けられたように苦しくなった。杉江の瞳が揺れる。
「大好き」
おまじないを唱えるように再度繰り返した。
一昔前の自分だったら杉江のことなどとっくに諦めていただろう。恋愛は引き際も肝心だ。あまりにしつこいと相手の迷惑にもなってしまう。好きな相手に心の底から嫌われたくはない。そう考えて何も行動できずにいた。本来の私はそのような性格だ。誰だって嫌われるのは怖い。しかし、杉江の場合は何を犠牲にしても彼が欲しかった。手に入れたかった。何がそうさせるのかは解らない。どうしようもない彼への執着心が私をここまで突き動かした。
ぎゅっと鍛え上げられた腹部に手を回して抱きついた。アスリートらしい腹筋がそこにはあり、頬を寄せると固く引き締まっているのがよくわかった。
「さんは、俺とどうなりたいんですか」
苛立ちを含んだ声が上から降ってきた。冷静沈着に彼にしては珍しく、怒りを隠せていない。態度の変化に目を瞬く。伺うように彼の顔を見上げた。
「さっきから嫌な挑発ばかり。抱いてあげれば、本当に満足するんですか?」
突き放すような言葉。数秒間、見つめ合った。答えられない。
本心は異なる。満足などできるわけがない。沈黙を肯定ととったのか、杉江は眉を煩わしそうに顰めた。そのまま、たくましい腕で押さえつけられる。ぽすん、と背が冷えたシーツに当たる。彼の端正な顔が目の前にあった。柔らかい唇が肩に押し付けられる。大きな手のひらが下半身をなぞる。望んでいた展開のはずなのに、その表情があまりにも冷たくて私は怯えてしまう。なんと、情けない。
叶わない恋ならば一度だけでも抱かれたいと考えた自分は大馬鹿ものだった。
「なんでさんが泣きそうな顔をするんですか」
短いため息が聞こえる。暖かい指先が前髪に触れた。視界がクリアになった。「泣きたいのはこっちの方だ」と呟く彼の表情がよく見えた。ああ、今度こそ本当に呆れられてしまった。どうしようもなく涙腺が緩む。泣くなと強く自分に言い聞かせた。ここで泣き顔を晒してしまうのは卑怯だ。女の涙ほど同情を引くものはない。
けれども、流れてくるものは後を絶たない。はらはらと頬を伝って流れる。暖かい雫がぽたりと皮膚を湿らせる。杉江は当惑していた。
「なんでこんなことしたんです」
「杉江さんのことが好きだったから。他の人ばかり見てる貴方を見るのが、辛かった。もう、貴方を好きでいるのが苦しかったんです。私は貴方に愛されたかったけれど、貴方にそんな器用なことはできないでしょう? だから、ケジメを付けたかったんだと思います」
私が杉江の片想いに気がついていることを、彼はここで悟ったようだった。苦い笑みを浮かべる。「ごめんなさい」という言葉が上から落ちてくる。
「さん」
小さな声で、宥めるように名前を呼ばれた。
「早く服を着て。出ましょう」
杉江の指がこぼれ落ちる雫を救った。そのまま、優しく私の乱れた髪の毛を撫でた。触れた手のひらは私とは比べ物にならないほど大きく、一時だけでもその暖かさに全てを委ねたくなった。報われない恋に終止符を打ち、私はホテルを去った。
120503 恋を諦められない人と諦める人