ふわり、と夏の夜風が風呂上がりの火照ったからだを優しく撫でる。体に心地よい涼んだ風がシャンプーの香りがする髪の毛をそっと持ち上げた。夏の夜に庭に出て涼むのは結構好きだ。古い家なので縁側があり、そこに西瓜やかき氷を持ってきて子どもの頃はよく食べていた。ちりん、となる風鈴はもう出すことを止めたが夏のこの場所はにとって思い出の場所の一つだった。

 小さい頃、そこをお気に入りにしていたのはなにもだけではない。お隣に住んでいる、所謂幼馴染といった存在の柳生もよく一緒にこの場所に腰かけて遊んでいた。それこそ夜だけではなく、朝は風通しのいい縁側の前の畳で小さなテーブルを出して二人で宿題をしたり、昼間は適度に芝生のある庭で家庭用プールを作って水浴びをしたり。もちろん、夜は大人が酒を交わしている横で二人で並んで星を見上げたこともあった。幼い頃は地元の花火大会は人ごみが怖いからと出店のあるところまで連れて行ってもらえず、子供用の浴衣を着たままこの縁側から花火を見上げていた。今はもう数キロ先に大きなマンションが建設させてしまってここからは見えないけれど、当時は障害になるものなど一切なく大きなしだれ柳も綺麗に見ることができた。

「懐かしいなあ」

 ぽつり、と一言呟きながら今とは全く変わってしまった過去に思いを馳せる。懐かしさと同時に恋しさを感じていた。

「何がですか」

 急に聞こえてきた声にはびくりと肩を震わせた。今の今まで頭の中で思い描いていた人物の声がしたので驚くに決まっている。ちらりと視線を玄関先へ寄せるとちょうどそこを歩いていたと思われる柳生が立っていた。制服姿のままなので恐らく塾の帰りなのだろう。テニスの全国大会が終わると同時に彼は大学受験のモードに綺麗に切り替えた。ほとんど毎日遅くまで塾に通っているのか、彼の部屋の電気がつくのは夜11時を過ぎてからという日々が続いている。はすっかり背の伸びた彼を見て、こっちおいでよ、と手招きした。彼は少し渋るように沈黙を維持する。時間ないの、と問いかければ、今更ですか、と呆れたような溜息が落ちてきた。

「今更って、何が?」
「……自分の格好をよく見てください」
「ああ」

 風呂上がりだったので短パンにキャミソール姿だったことをすっかり忘れていた。けれど、柳生のいうようにそれこそ今更だ。小さい頃は一緒にお風呂も入っていたし、最近までも寝起きの乱れた髪の毛やら酷い姿を見せていたのでとしてはこれくらいならまだマシな方に入ると思っている。確かに女の子としてはあるまじき行為だがこれも柳生との小さい頃からの関係の延長戦だからこそ。誤魔化すようにへらり、と笑いながら隣に座るように促した。

「毎日大変だねえ、比呂ちゃん」
「そうでもありませんよ。勉強は嫌いではありませんからね」
「……そうだったね。誰よりも早く夏休みの宿題を終わらしてたのを今思い出した」

 の中の柳生との学校生活は小学校までの記憶で止まっている。何故ならば彼は神奈川でも名門とされる私立の立海大付属中学校を受験し、見事合格してしまったからだ。そのまま地区指定された公立中学校に通ったとはそこで学校を媒体とした関係性が途切れてしまう。それでも、柳生にべったりだったは宿題を教えてもらうことや柳生家の夕飯にお呼ばれするなどなにかにつけて柳生の家に押しかけては構ってもらっていた。当時、趣味だったゴルフに加えテニスをやるようになっていた柳生は部活動で忙しく、実のところあまりに構ってやれるような時間は持っていなかったのだが、それでも久し振りという言葉を口にした機会がほとんどないくらいのために時間を割いてくれていた。優しい人だ。

 懐かしさに目を細め、よく一緒に宿題をやってもらっていたなあと口にした。柳生がいたからこそ毎年は早めに夏休みの宿題を終えることができ、8月末に泣きながら徹夜で仕上げるという出来事に遭遇したことがないのだ。そのように懐かしむ自分を見て、彼は呆れたように肩を大きく下げた。

「私のことより、も受験生でしょう。ちゃんと勉強してるんですか」
「……適度には」
「返事に間がありましたけど」
「ちゃんとやってるよ。この間の模試では国語の点数上がってたし」
は文系が得意ですからね。……数学はどうだったんです?」
「うん」
「うんじゃありません」
「それなりに」
「……」

 彼はの両親よりも、勉強面について厳しく追及することがある。自分が理系が苦手だということを知っておきながら、毎回数学はどうでしたか、と聞いてくるのだ。それは、が苦手でもやればできるのだということを彼が信じているから。諦めないということの大切さを、彼が知っているからであった。仕方ないですね、などという妥協をけして口にしない彼に、少しだけ嬉しさが込み上がってきていた過去の自分がいた。なぜならば、やればできる子なんだよ、ということを半ば怒りながらも自分に言い続けてくれたからだ。数式を見るのはもちろん嫌いではあるが、彼にだけでも認めてもらえていることがなんとなくくすぐったくて、年に1回くらい平均点を上回る点数を取ろうと意気込んでいたのを思い出す。さすがに高校生になって、このように無言のお叱りを受けたのは久しぶりだったのでふふふ、とは小さく笑みをこぼした。

 と柳生がこれほどまでに長い間、けしてその関係が薄れることなく幼馴染を続けてきたのはお互いのことをある程度共有しながらも、他人であるということを割りきっていたからだとは思っている。独占欲―嫉妬心ともそれは繋がるであろうが、自分たちの間にはそれはなかった。何故だろうか、彼に始終べったりであったも、中学に入りお互いの通常生活で見える範囲が狭まった時に、彼は他人なんだということをいとも簡単に受け止めてしまっていた。柳生は自分のものではない。そこに寂しさがなかったと言えば嘘になるが、で彼氏ができたときは彼に相談したり、柳生に彼女ができたときはごく稀ではあったが、彼の相談を受けたりしていた。全てを話してくれなくとも、何かあった時に頼りにできる存在であるということがその感情を薄れさせていたのではないか、と今では思っている。けれど、とあることを聞いてからこの平穏な彼に対する気持ちに変化が現れた。

「ねえ、比呂ちゃん」
「なんですか」
「東京の大学には受かりそうですか」
「今のところ判定は問題はありません。……誰から聞いたんです?」
「母親同士の情報交換をなめたら痛い目みるよ」

 夏休みが始まった頃、の母親がぽつりと零した。柳生が東京の大学を目指している、と。まだ合格もしていないのにそのようなナイーブな事実を同じく受験生であるに漏らすのは失礼なことだろうとその時は思っただけだったのだが、あとからじわりじわりと今まで感じたこともないような感情が込み上げてきた。

(比呂ちゃんが遠くへ行ってしまう)

 彼が受からない、という選択肢はには存在しなかった。彼の実力はよく知っている。テニスでもゴルフでも、何かにおいても妥協しない。彼が行きたいと思うのなら、それこそその大学に見合ったように勉強を繰り返すだろうし、行きたいという気持ちを裏付けるような成果を彼は取得しているはずだ。

は地元の大学を受けるんでしたよね」
「ほら、やっぱり比呂ちゃんも知ってるじゃん。私、比呂ちゃんに言ったことないよね」
「そうですね、今思い出しました」

 が神奈川を出ようとは思わないのは、この家で暮らしたいからであった。一人暮らしを憧れると言い、そのために他県を目指す同級生も少なくはないが、自分はそこまで積極的にそうしようとは思えない。自分の行きたい学科が近くの大学に存在するのだから変に遠くに出る必要もない。ただ、それは、柳生との緩やかな関係が途切れてしまうことを意味する。今までだって毎日会えていたわけではない。けれど、本当に会いに行きたいとき、すぐに彼に会えなくなってしまう状況下に置かれると想像しただけでぽっかりと心に大きな空洞が空いてしまうのだ。想像するだけで、自然と涙が零れそうなほど切なかった。

(彼氏でもないただの幼馴染にこれほど情を寄せるのはおかしいことだろうか)

 すっと、不自然なほど真っ白なシャツの裾を掴む。幼い頃から何か不安を抱えているときにが無意識のうちに行う癖の一つだった。

「ねえ、比呂ちゃん。来年の夏休みは東京に遊びに行くから、案内してね」

 不思議そうに柳生は首を傾げる。まだ受かってもいないのに気が早いですよ、とは呟いたが、その時は是非遊びに来てください、と緩やかに諭した。伊達に幼馴染を続けているわけではない。彼にもの心細さがなんとなく伝わっているのだ。彼は続けて約束ですね、と柔らかく告げた。



雫は永遠に眠る

100905   ( title by.cathy