世の中は、酷く便利になった。一見しただけでは、かつてこの土地で殷周易姓革命が行われたとは思えない。伏義は、久し振りに訪れた土地に昔の面影を感じられず、不可解な気持ちのままそこに腰を下ろした。昔の記憶の中では、緩やかに流れる川と少し湿った砂と植物が呼応していた。実際に彼の周りにあるのは堅いコンクリートだったが、彼には昔見たそのままの状態を体感していた。混沌とした道しるべのないこの世界の未来をもはやだれも知見しうることはできない。このまま進めばどこへ向かうのか、再生と破壊を繰り返してきた地球は久方ぶりの自由を得たけれど、果たしてそれは正解だったのか。伏義は昔、彼の友人がそこに剣を投げ捨てたであろう場所をさらりと撫でた。後悔はしていない。見守り続ける覚悟はある。人間たちの行く末を、彼らの手で改造されていく世界を。 「どちらさまですか」 不意に声を掛けられる。大凡、二百年ぶりだった。彼は一人で世界をぶらぶらするのが好きだった。誰よりも、縛られることを苦と感じていた。否、あの封神大計画を成し遂げたのだからこれくらいの休暇は頂いてもいいだろう、とずるずる休んでいたら既に四千年の歴史が経っていた。いくらなんでも休みすぎだった。そして、ある日気まぐれに自分の過ごした故郷を懐かしく思い、過去をめぐる旅に出た。戻ってきたのだ。帰ってきてみるとそこに面影はほとんどなくなっていた。あまりの豹変ぶりに、言葉もなかったのだが。彼は声の主をちろりと一瞥した。一人の女だった。少女というには年をとっていて、かといってご婦人というには若かった。 「すまん、お主がこの家のぬしか」 「ええ、そうです。……兄のお知り合いでしょうか?」 「いや、昔、この地に縁があった者でな。少々懐かしく思って、ずっと眺めておっただけだ。不審に思われてしまったかのう」 「そうなんです、か」 彼女はきょとんとした。無理もなかった。仙道は年をとるペースがとても遅い、と言われている。伏義の見た目はせいぜい二十代前半程度にしか見えない。元々童顔ということも手伝って、二十歳も超えていないと見られても可笑しくはなかった。そんな彼がまるで年よりの様な口調で、回顧の情を思わすようにじっとこのなんの変哲もない自宅の庭を眺めていては誰だって可笑しく感じるだろう。伏義はそんな彼女の困惑がわかって、へらり、と害のない笑みを浮かべた。 「そろそろお暇することにしよう」 重い腰を挙げて、彼は立ち去った。 あくる日、彼はまた同じ場所に立っていた。幾度見ても、その場所は同じ、人工的なものに覆われている。花の香しい匂いもしなければ、柔らかい小鳥の歌も聞こえない。血みどろになって共に戦った友人の姿もない。騒がしかった仲間の残像だけが伏義の記憶の中に息づいている。本当なら、もうとっくに大陸を出てどこかの島国にでも足を運ぼうかと思っていた。過去を懐かしむという目的で行われた今回の旅ではあったが、過去はあまりにも残酷だった。いい思いでもたくさんあるけれど、大半は悲しみに包まれている。年を重ねていく上で、楽しかったことよりも辛かったあの一瞬一瞬の方がより鮮明に思い出されてしまう。この旅では自虐と後悔しか浮かんでこなかった。だからといって再びそれを悔み続けたいわけではない。過去を悔んでも仕方がないということはわかりきっている。ただ、それを思い返したいと希望したことを敢えて避けようとは思わなかっただけだ。 ぽつり、ぽつり、と白いものが落ちてきた。雪だ。鼻先に当たり、体温によって溶かされたそれは伏義の頬をするりと滑るように流れ落ちた。冷たい。空を見上げた。厚い雲に覆われた空は、彼の帰郷を嘆いているかのようだった。今更、過去にとらわれてどうなるのか、と。テメェの知ったことじゃねぇ、と彼の中にいる誰かがぽつりと零す。その時、ふわり、と小さな影が彼の頭上に表れた。 「風邪、引きますよ」 彼女だった。ピンク色の熊がプリントされた小さめな傘を彼に遠慮がちに差し出していた。振り返りざまに、それを手渡される。伏義は、黙ってそれを受け取った。それに安心した彼女はそのまますとんと彼の隣に腰を掛けた。 「この地によほど思い入れがあるのですね」 なんと答えようか、彼は迷った。しかし、彼女の笑みを見て、ああと一言頷いた。思い入れ、は何も楽しいものばかりでなくていい。そう思ったので、彼は素直に首を縦に振った。 「ここで、一人の男を亡くしたのだ」 正確にはこの場所ではないが、もしここで彼が止められていたら、彼はもう少し長く生きていたのかもしれない。しかし、それを妨害したのも自分自身だった。結局、彼は彼の手で一人の友人の死を防ごうと躍起になり、そして死へと追いやったのだ。この身が一つになった時に、付きつけられた真実だった。それでも彼は自分の中で渦巻く自身を拒むことはできなかった。あのまま彼が生存し、ことの成り行きを終えるためには彼の体が必要だった。 「何が正しかったのか、正直、善悪両方とも担いでしまったわしにはわからぬ。しかし、目を背けるわけにもいかないのだ。それを、痛感させるためにわしは此処に戻ってきたのだと思う。……この歳になってやっと」 彼女は何と答えていいかわからなかった。その瞳は戸惑いで満ち溢れている。それはそうだと伏義自身、思う。いきなり意味のわからないことを聞かされても返答に困るだけだ。しかし、中の彼はそれを渇望していた。昨日、彼女の顔を見た後から内側にいた自分が騒ぎ始めた。間違いない、彼女だと。彼は彼女の名を呼び続けた。伏義は自分のことでありながら、彼女のことが当初は全然わからなかった。しかし、おかしなことに初対面の女性に、心の奥は熱く燃え上がった。そして、自分は一人で無かったことを久し振りに思い出したのだ。 「年よりの戯言と思い、聞いてくれ」 「……ええ」 「おぬしが、この傍でこの土地を守り続けてくれたことをわしは感謝しておる。未来永劫、おぬしに会えぬと思っていたからこそ、わしは嬉しかった」 「感謝していただけたなら、光栄です」 にこり、と彼女は微笑んだ。恐らく、精神病に病んだ患者を相手にしているつもりで話しているのだろう。それか若くして痴呆症に悩まされた青年かどちらか。伏義はそれでも十分だった。彼女がなんの巡り合わせかは知らないけれど、彼の最も悔いている場所の傍にいてくれたこと―例え彼女が覚えておらずとも―ただただ嬉しかったのだ。 「」 その名を呼ぶ。幾度も口にした名前だった。口調の悪い彼がどんなに威嚇しようとも怒鳴りつけようとも、彼女は呼べばすぐに姿を現した。手荒く扱ったこともある。何しろその頃の彼女の立場はほとんど奴隷のようなものだった。お金もなく、ただ身一つで彼に売られてきた。伏義―否、王天君は彼女を買った。太公望たちとの宴の一つの催し物として、彼女を利用したのだった。そののち、彼女は短い生を路地裏で終えた。彼女がぼろ雑巾のように朽ち果てている姿を見た王天君の心の中に残ったのは、快感でもなんでもなくただの喪失感だった。 見ず知らずの男に名前を呼ばれた彼女は大きく目を見開いた。 「お前は今、満ち足りているか」 「はい。家族もお金も友人も、全てに満たされ、幸せに暮らしております」 「……なら、いい」 うっすらと、影が笑う。伏義の右目は涙ぐんでいた。どうして彼が彼女の名前を知っているのか、どうして彼がそんなにも泣きそうな顔をしているのか。それは彼女にはわからなかったが、到底怖いとは思えなかった。むしろ、自分の心情にもむくむくと焦げるように甘く儚い想いがこみ上げていていた。彼は誰なのか、それはわからなかったが、きっとどこかで会ったことがある人なのだろうと思った。こんなにも、胸が熱くなるのは初めてだった。 「元気で」 彼はの頭をぶっきらぼうに一撫でし、小さなピンクの傘を持ったまま歩いて行った。その後姿が見えなくなるまで彼女は茫然と彼の姿を追っていた。 100528 ( title by. LIFE ) |