久し振りにこのような綺麗なバーに来た、と太乙は優雅に流れるBGMを聞きながら少しだけ異質感を感じていた。三十を超えてから、飲みに行くといっても可愛い女の子と行くのはどこかめんどくさくなってしまい、男同士のそれこそ飲み会、という日常の愚痴をぶつけ合うような酒の飲み方が多くなってしまったからだった。今回も、このような場所に自ら進んでこようとは思ったわけではない。が、教師としての後輩であり、また小さい頃からの知り合いでもある天化が中々結婚しない自分のことを気にかけてこのような席―合コン、というなんとも懐かしい響きだけれども―を用意してくれたのだから無理やりにでも行かなければ彼の面子が立た無いということを知っていたからだった。

「太乙さん、こっちさ」

 名前を呼ばれてテーブルの一角へと視線を寄せる。そこには既に全員がそろっていたようだ。ぱっと相手の女性陣に目をやってみると、思いの外年齢層が自分よりも若いなという印象を受けた。それにますます及び腰になってしまいながらも、天化が早く来いと言わんばかりに手招きしているので逃げるわけにもいかない。こんばんは、と生徒に対するような人のいい笑みを貼りつけて席へと向かった。その時、一人の女性がじっとまるで穴があかんばかりに太乙を見つめていることに気がついた。視線が余りにも集中していたので不思議に思い、彼も見つめ返す。知り合いだろうか。思い当たる人物はいなかったが、彼女が意を決して呟いた言葉を聞いた時にはっと思いだした。その声は確かに昔、自分のことを呼んでいた気がする。

「私のこと覚えてますか」
「えっと…………もしかして、さん?」

 ぱっとそれに反応して目を見開く彼女に、なんていう偶然だ、と一瞬思考が停止してしまった。。それこそ、六年前だったろうか彼女は彼の初めての教え子だった。太乙がしどろもどろしているとそれがにも伝わったのか、少しだけ緊張を帯びた声で彼女は口を開いた。

「あたりです。お久しぶりです」

 知り合いさ?、と後輩である天化は彼に問いかける。はっきりここで元教え子なんだよ、と言いきっても良かったが合コンの席でそれはタブーに感じられた。まあね、と言葉を濁せば、空気を読むということを知っている天化はそれ以上追及してこなかった。もしこれが雲中子だとか道徳だったら問いつめてきたに違いない。彼らは空気を読むということを知らない奴らだ。じゃあ、ということでの前に太乙が座ることを余儀なくされた。ふ、と真正面から彼女と目が合いどちらともなく曖昧に微笑み合った。

 大人になった、と太乙は思う。まだ高校生だった頃の彼女の面影はぼんやりとしか浮かばない。黒髪で化粧っけの全くなかったあの頃と、ほんのり髪の毛が茶色に染まり濃すぎず薄すぎずのバランスで飾られている今を比べること自体が間違っているのかも知れないが。自分の同級生でも、同窓会などで再会すればそれはそれは見違えるほど変わっているものもいる。しかし、仮にも当時はまだ十代で教え子だった子と合コンという場で再会することとなるとは。なんとなく居た堪れない気持ちが襲ってきた。

「あーその、元気にしてた?」

 在り来たりな言葉しか浮かんでこない自分に呆れた。太乙の問いかけに彼女はもちろん、と綺麗な笑顔を添えて答えた。それからは、彼女の大学の話、そして就職先の話を聞く側に回る。大学生活はやっぱり楽しかったとか、社会に出てみてもっと勉強しておけばよかったとしみじみと感じるだとか、就職先では困難にぶつかりながらも刺激的な毎日を送っているとか、一方的にしゃべり始めた。旧知の存在とはいえ友人のように親しい間柄ではない。彼女が間を悪くしない様に必死に口を開いてくれているのがよくわかった。そこから話は切り変わり、今度は彼自身のことをぽつりぽつりと語り始めることになった。初任の学校からはもう転勤して三年目になること、転勤先では根っからのインドア派だというのにいつの間にかバスケ部顧問にさせられていたこと、など。語り始めればこちらもきりがない。

「じゃあ、天文部の顧問はもうされてないんですね」
「……あ、ああ、そうか。君は天文部員だったっけ」
「覚えていらっしゃらないんですか、酷い。合宿も一緒に行きましたよ?」
「うーん、あの頃はいっぱいいっぱいだったからさ。飛んでる記憶もしばしばあったりするんだよ」

 正直に言ってしまえば、何百人も生徒を毎年送りだすのだ、いちいち細かいところまで覚えてはいられないというのが本音だった。自分のクラスを持っていたならまだしも、彼女は受験生の補習コースの物理を受け持っただけの関係性であり、天文部もそれほど活動は活発ではなかった。自分はよく顔を出していた方だったが、それでも何かしら個々人での活動が多く和気あいあいとした部活ではなかったように記憶している。生徒の名前が咄嗟にでてきたこと自体、奇跡なのだ。どうしてだかそこで少しだけ悲しそうな顔をした彼女に、ごめんね、と苦笑いをした。いいえ、ととりあえず彼女はにこりとした笑みを顔に貼りつけたものの、やはり心の底では芳しく思っていなかったのか、彼の内心を抉る様な反撃が待ち構えていた。

「こんなところにいるってことはまだ結婚されてないんですね」
「ぶほっ!……君ねえ、それは言っちゃいかんでしょ。空気読んだらすぐわかるよね」
「だって、太乙さんそれなりにもててましたよ。不思議だなあって思ってるだけです」
「こればっかりは巡り合わせだからね。いい出会いに恵まれないだけだよ」

 ははは、と太乙は彼女の言葉を軽く受け流した。自分が異性に人気があるという事実は自惚れだと思われようがなんだろうか、多少自覚している。けれどそれはあくまで外見が割と整っているということと、外面がいいという二つの面から起こる所謂印象の問題であり、彼の内面がひょいとでもでるとたちまちついていけないと嘆きはじめる女性が増えるのだ。それは太乙が科学技術オタクという少し異様な趣味を持っているが故なのだが。如何せん、友達同士の気楽な付き合いを最終的に求められることが多い。こればっかりは太乙にとって、直すべき事柄ではないと自分でも思っているし、そういう部分でさえ受け止めてくれない女性とは付き合えないと、譲れないことでもあった。そのまま、ずるずる結婚できないまま三十路を越えてしまったのである。

「勿体無いですね」

 ぽつり、と零した一言に含まれている意味深な何かを感じた。そこではっとまた要らぬ自分の恋愛事情を聞かせてしまったと己を恥じた。教え子に話す様な話ではないだろう。それにしても、自分は何故のことを記憶していたのか。これといって関わりがあったように思えなかった上に、忘れ去られても可笑しくはない存在だったはずなのに、脳はおぼろげでも彼女の存在を書きとめていた。柔らかな声……とそこで太乙は自分の思考もどんどん怪しげな何かに染まっていくように感じ、慌てて話題を変えようと考えることを止める。辛口のビールを流しこんで、疑問を投げ捨てた。

「そういうさんは?彼氏はいないの?」
「いないからここにいるんじゃないですか。新しい出会いは自分から取りに行かないと」
「逞しいね。さすが若い子だ」

 半ば強制的に天化に引っ張られてきた自分とは大違いだ、と苦笑する。しかし、見習わねばというような気力はもう自分にはないこともわかっていた。それが知らず知らずのうちに表に出ていたのだろうか、頑張らないと気がついたらおじいちゃんに成りかねないですよ、と釘を刺された。

「それは嫌だなあ。しかし、さんも随分はっきり言う様になったね。昔は私のとこに質問に来るのも中々できなかった、それこそ紙に質問を全て記入して持ってくるような子だったのに」
「そういうことは覚えてるんですね。……社会に出ればいつまでもシャイなままではいられませんよ」
「はは、成長のあかしってやつかな」

 拗ねたようなどこか恥ずかしげな様子でカシスオレンジを口に付ける彼女が少しだけ微笑ましかった。昔の自分を知る者からこのように言われるのはやはり人間だれにとっても過去を蒸し返すようで恥ずかしいことなのだろう、と思う。このような顔を見ていると、合コンという場ではあるものの、自分の教え子の成長した一面を垣間見るという面で、中々嬉しい出来事ではあるなと幾分か太乙は気分を良くしていた。そのまま、長い昔話や現在の話しを交えながら、艶めかしいやり取りの全くないままお開きとなった。





 それが一週間前の話しだ。偶々、そのあと今度は男同士で飲みに誘われた太乙は天化にその時話していなかった事実を告げる。彼も太乙の知り合いであったというに対して関心があったらしく、先に話題を振ってきたのは彼の方だった。一通りのことを話しおえると、へえ、と彼は眉をあげた。彼もまだ新米ではあるが教師という役職に勤めているだけあっていつか自分の身にも起こり兼ねないことだ、と思っているのかもしれない。

「そりゃ、偶然も偶然さ。しっかし、太乙さんがそのさんのこと覚えてたのも珍しいけど、彼女の方も太乙さんのことを覚えてるってのも不思議だねぇ」
「あー……私、教師の中では若かったから印象深かったんじゃないかい」
「いくらなんでも普通六年もたって、ほとんど関わりがなかった物理教師を覚えとくもんさ?」
「嫌にその話題引っ張るね。さんのこと気に入ったの」

 珍しいしつこさを見せる彼に対して、なんとなくふとそう呟けば、呆れたような情けないような顔をされた。わかってねぇさこの人、とぽつりとつぶやいたのが聞こえる。聞き捨てならない台詞に、どういう意味かと問いかけようとしたが、彼はぱっと、一枚のメモを取り出しそれを遮った。中身にさっと目を通したあと、どういうことだと天化を真正面から見つめ返す。

「太乙さんにとっては一生徒だったかもしれないけど、彼女にとっては違ったってことさね。俺っち一応幹事だったから連絡が回ってきたってわけ。あとは太乙さん次第」

 丸っこい字で書かれていた、名前と連絡先、そして短いメッセージ。あの時は成長してはっきり物事が言えるような大人になったのだ、と誉めていたがどうらやそれはあくまで一部分に過ぎなかったらしい。核心というか本当に彼女が言いたいことを伝えるときにはまだまだ、この文字という媒体に頼りきっているようだ。久し振りに見た、彼女の独特の可愛らしい写体に懐かしさを感じながらも微妙な心境であったというのも事実だった。

 どうしようか、と苦悩が頭一杯に押し寄せてきていた彼だったが、気がつけば短いけれど核心を付いたようなメッセージを幾度も読み返していた。私は先生を忘れたことは一度もありませんでした、という色っぽさも何もないその堅い言葉に彼女らしさを感じる。居酒屋を出て自室に辿り着いた時、自然と右手が携帯を握りしめていたことに苦笑いを隠しきれなかった。本来ならしないであろう行動を彼がとっているのは偶然という名の再会故か。気まぐれだよ、と心の中で零しながらもコール音は確かに彼の心拍数を乱していた。





異常な異常

100627 ( title by. LIFE )