![]() しとしと、と雨が降る。 雫は何もかもをまる流しにした。けたたましく響いていたうめき声は段々と小さくなり、後には雨音しか残らなかった。静かな、静かな時がこの大地を覆っていた。 語るにも、遠い昔のことすぎて記憶している者はほんの一握りしかいないだろう。それは恐らく名高い崑崙山の十二仙でもごくわずか、或いは原始天孫ほどではないとその事実を知らないのかもしれない。それこそ、かの有名な殷の軍師―聞仲が生まれるよりもずっと先。玉鼎が一人の人間として、生きていたころの話しだ。これから未来に彼がどのような活躍をするのか―それを知っている者からすれば容易い想像だが、彼は剣士だった。一人の剣士として、殷の皇帝に忠誠を誓っていた。控えめな仕草と態度はその頃から変わっておらず、冷静で一人を好む青年であった。その頃はまだ自分が仙人になれる逸材であったことを知っていたわけではなく―普通の人間として生活していた。実力は確かで朝廷でも一目置かれる存在でこそあったものの、根本的には冷静沈着というスタンスは崩れていなかった。 「玉鼎、ちぃっとばかし飲んでいかねぇかい。いい酒が入ったんだぜ」 「申し訳ない。……また次回、誘ってくれ」 「お前さんはそればっかだなあ、酒が飲めねぇってわけでもないんだろ」 「人付き合いはどうも苦手でな。今日は酒よりこれを読破してしまいたんだ」 「ふうん、堅苦しいこって。……次を楽しみに待っておくからな」 現に、飲みに誘われても始終この態度である。呆れ顔で仲間の剣士は玉鼎の様子に溜息をついていた。繰り返される会話なので、相手はもう慣れたもので残念そうな顔はするものの嫌味のある言葉は寄こさない。玉鼎の人の良さもある―無理やり付き合わせたところでどうにもならないと相手もわかっているのだろう。ただただ、残念だなあ、と惜しむように零すのだった。 玉鼎は本を片手に溜息をついた。申し訳ないことだとは思っている。けれど、どうも行動に移そうとは思えなかった。そそくさと足が自宅へ向うのだ。静かな環境が彼にとっては一番、落ち着く場所なのかもしれない。別段、妻も娶っていなかった玉鼎は宮廷近辺に一室を持っていた。実家は都から千里も離れている。朝廷に仕えるようになってから家族もこちらへ呼ぼうと思ったのだが、両親は気ままな田舎暮らしがいいのさ、と承諾しなかった。たまの休みに元気な顔を見せてくれれば、それでいいのだ、と。賑わう城下町を歩いていると、一人の女性が目にとまった。知り合いだった。 「、か」 「あら、玉鼎さま。また御一人、……ということは断られたのですね」 「なんだ、お前も知っていたのか」 、と呼ばれた女性は朝廷に仕える一人の娘だった。主に宮仕えというよりも、下っ端の雑務などを担当していた。身分が低いため、こうして城下町にも簡単に顔を出せる。玉鼎とは、出仕が同時期だったために自然と知り合いになった。双方とも人付き合いが得意と言うわけではなく、特に最初のころはぽつんと一人落ち込んでいるを宮廷内でよく見かけたものである。同じく休憩の合間はただぽつりと佇んで休んでいた玉鼎に彼女は仲間意識というか―親しいものを最初から感じていた。なんとなく自分たちは似ている、と。そうして、落ち込む彼女に声を掛けたところから出会いは始まり、彼の数少ない顔見知りとなっていった。 「彼も随分私のところへやってきますもの、どうにかして玉鼎と飲む機会はないのかって。私にきかないで下さいよ、と何度も言ってるんですけど」 「……そんなに晩酌を交わすことは大事なのだろうか」 「さあ、私は殿方ではありませんから。しかし、出ることもなく断り続けているのでしょう?一度体験なさったらどうです。実際はそんなに悪いものではないかもしれませんよ」 「余暇があったら、だな。今日は特にそんな気分ではなかった」 彼女の視線が包まれた風呂敷に注がれた。また読書ですか、とそんな声が飛んできそうだったが、それはなかった。も根っからの読書家だったのである。包みを発見すると、今度はどんな本を読んでいるのです、次は私にも貸してくださいませ、と嬉々として尋ねるのだった。玉鼎との縁が深まったのも実は趣味がこうして重なったからだ。 「酒が入れば読書どころではないですもの。……ではこうして時間を取らせてしまってはいけませんね。また後日、感想などお聞かせくださいませ」 「ああ、また」 朗らかに彼女は微笑んで、優雅な足取りで夜道を歩いて行った。身分が低いと言えども、きちんとした貴族の娘だ。教育だけはしっかりと受けていたようで、知識、仕草からその賜物が伺える。玉鼎は彼女のことを好ましく思っていた。そして、恐らくそれは彼女も同様なことだろう。しかし、それはきちんと確認し合ったわけではない。お互いの態度を見て、なんとなくそう感じている程度。上手く進めばこのまま太師になるであろう玉鼎の身分を考えれば、彼女の家柄は全く等しくはないのだ。たがそれでも玉鼎は彼女のことを好いていた。はっきりと言葉にできないまま、玉鼎はのことをぼんやりと思っていた。後にも先にも、彼女以上に気の合う人間はいなかったが、同時に娶るということも考えてはいなかった。 黒雲が殷を囲む。会議は厳しい面で一旦、休憩となった。軍議に剣士が参加することはそうそうないが―太師の後継者と見染められている玉鼎と、もう一人の剣士はその場にいた。そして、北の大地で起こっている豪族の反乱に眉をひそめた。久しく平和な世が続いていたが、そうも言っていられないようだ。反乱が都にもなんらかの流れを引き起こすやもしれなった。早急に鎮圧せねばらない―が、このときの殷は指して大きくなかった。過去に中国で遺跡の実在する最古の王朝となるのだが、まだまだそのときの面影は見えない。始まったばかりであった。そして、この鎮圧軍の指揮に玉鼎と彼が選ばれたのだ。 「玉鼎、今日こそは飲みに付き合ってくれっかい。二人で語り合おうじゃねぇか」 数日後、また声を掛けられた。彼は変わらぬ笑みを浮かべている。今日こそ、という言葉に、先の遠征のことを匂わせているのは確かであった。指揮を任されたもの同士、ここらで酌を交わしておこう、というつもりらしい。さすがに玉鼎も断るにいい文句が浮かばなかった。飲まなかったといって戦いに悪影響が及ぶわけではないが―彼の目が断ることを拒否していた。いつもはもっと穏やかな目をしていたが、どうも今日の彼は違う。戦いの前ということで幾分かの興奮もあるのだろう。今日だけだぞ、と玉鼎が言えば嬉しそうに彼は頷いた。 「さあて、いっぱい用意したんだ。お前さんは白酒が好きだと聞いてな」 「どこでそんな情報を。って、ああ……」 「吃驚したぜえ、お前さんこの嬢とは酌を交わしていたそうじゃないか」 くすり、と笑みを零したが盆に酒を持って入ってきた。彼女とは仕事の上がりに飯を共にしたこともある。ついついそのまま酒に手を出したこともあった。やはり、彼女はそう言った意味で玉鼎に気を使わせない人だったのだ。飲もう、というのではなく、飯をと誘われるのとは随分違った。なにより好ましいと思っている女性からの誘いを無毛に断る彼ではない。男同士の仲をもっと大事にしてほしいもんだな、と零す彼に苦笑いを向けた。 「お前の飲みは多数の人が来るだろう、そういう席が苦手なだけだ。……こういう個人的な誘いなら断りもしなかったよ」 「それなら早くそう言って欲しいもんだ。嬢も知ってたんなら早く教えてくれればいいものを」 「ふふふ、だって御酒と言ってもご飯のついで、程度なものでしたから。……鈴を置いておきますので、足りない時は鳴らして下さいませ。では、失礼いたします」 綺麗に微笑んで、は退出した。身分は低いが、気量はそこそこある。彼はの姿を見て、いい女だ、と一言零した。玉鼎も静かに同意する。 「嬢と付き合ってんだろ」 「……」 「黙秘かい?別嬪さんなのにねぇ」 「……付き合っているわけではない」 しかし、それなりの逢瀬があることをその会話で彼は理解した。勿体無いことをする、とちびりと酒に口を付ける。豪酒で名高い彼にしては、控えめな飲み方だ。同じく一口飲みこんだまま杯を床に置いた玉鼎に言い聞かせるように彼は言った。 「後悔すんのは明日かもしれんぞ。俺にはかみさんがいるが、好いた者を傍に置けるということはこれ以上なく幸せなことだ。お前さんは淡泊すぎっから、心配してたんだがよう、嬢みたいなんが傍に居てくれる内に繋ぎ止めておくべきだ。身分のことはあれにしても……あんな上玉はいねぇぜ」 戦前で感傷的になっているのか、遠いものを眺めるように彼はいった。剣士として幾度も修羅を乗り越えてきたが、このたびは規模が違う。新人の軍師として任されたはいいものの、ほとんど捨て駒だと噂されている。時間を稼ぎ、冬になるまで。―極寒の地が使い物にならなくなるまで、なんとかその間を保とうとしているのは目に見えていた。 「負ける、と思っているのか。我々鎮圧軍が」 「北の邑の数は膨大だ。簡単に落とせるというわけじゃあないということは誰しもがわかってら。……嬢も表面上は隠してっけど、内心は複雑に思ってんじゃねぇの」 「それを態々言うために?」 「それだけじゃねぇ。前々からお前さんとは飲んでみたかったんだ。……余計なお節介かもしれねぇけどよ、これだけは言いたかったんだ。さ、飲め飲め!こういうことも含めて、語り合おうじゃねぇか!」 バシン、と勢いよく背中を叩かれた。辛気臭い空気は一転して、酒臭いものへと変わっていく。玉鼎は彼は恐れているのだと思った。手にした幸福な時間を手放すことを。家族のことを物語る、彼の表情は酷く優しげで儚いものだった。手にした幸せが大きければ大きいほど、話したくはないと思う。しかし、最後には確固たる態度でこう述べるのだ。 「家族を守れんのが男として、夫として一番名誉あることだ」 夜は更けていく。空に瞬く星達の姿は段々と消えていき、白い太陽が顔を出していた。秋の夜更けは肌寒い。随分、飲んでぐだぐだになってしまった仲間を一瞥して、僅かに残っている酔いを醒ますために井戸へと出た。明後日には出陣だ。本来ならこうして飲んでいる場合でもないのだが、皇帝から御許しを得た、ということは皇帝自身もこの戦に何かしら感じているということだ。身を震わせながら水を汲み、顔を洗っているとしゃなりという金属音が耳を掠めた。 「……」 「おはようございます、お早いですね」 彼女は笑みを絶やさなかった。昨晩も彼らの酌の準備に勤しんでいたため、彼女も満足に寝れなかっただろうにいつ見ても彼女の魅力は衰えることが無かった。眠くないのか、と聞けば、これから、休みを頂いておりますから、と返す。 昨晩の彼の言葉が玉鼎の脳にこびり付いて離れなかった。今回の戦の真意を彼女が何処まで悟っているのかはわからないが、もしも、その胸の内は今見せた笑顔のように暖か出はないとしたら。……聞き出そうとしている自分に腹が立った。泣きつかれたとしても、玉鼎にはどうしてやることもできない。死の覚悟は剣士として生きている上でとっくにしている。私も水を、と桶に汲むの後姿を見て、玉鼎は強く触れたい、と思った。彼の感情が乗り移ってしまったのかもしれない。気がついたらそのまま彼女の右手を掴んでいた。驚いたようにぱちり、と瞬きをする。 「酔っておられるのですか、珍しい」 「いや、そうではなく……は花が好きだったな」 「ええ、好きですよ。花は美しいです。香しい花なら尚更大好きですよ」 「では、私が戦から帰ってきたら、花を、たくさんの花を贈ろう。どんな花でもいい。たくさん、それこそ部屋が埋まるくらいに贈ろう」 「……玉鼎さま、やはり酔っているのではございませんか」 「酔ってなどいない」 珍しいものを見た、というきょとんとした眼では玉鼎を見た。年に数回しかない逢瀬の中でも、このようなことは酷く稀で、彼女は戸惑いを見せていた。しかし、帰ってきたら、という言葉に言わんとする真意を悟ったのか、角張った手を握り返して左手で彼の頬をやんわりと撫でた。 「楽しみに、お待ちしております」 だから必ず帰ってきてくださいませ、とは言わなかった。待っている、とただそれだけだった。けれど、玉鼎の心はそれで十分満たされた。帰ってこれないかもしれない、という隠された真意を告げた後でも彼女は一粒も涙を見せなかった。最後の最後まで、玉鼎の脳内には彼女の笑顔だけが映っていた。 しとしと、と雨が降る。 彼は血に濡れ、片腕を玉鼎に向けて伸ばそうとしてそれが無いことに気がついた。もげてしまった左手が遠くにあった。玉鼎は、茫然とそれを見ていた。静かだった。そこはあまりにも静かだった。雨は止むことを知らずただただ彼の頬を濡らしていた。 100509 ( image by. ×× title by. LIFE ) |