※ 満月の綺麗な夜に、続編。


 肌寒くなってきた十月の下旬。三橋はいつも通り朝練を終え、同じ野球部のメンバーと共に教室に向っていた。下駄箱にはちらほらと人がおり、適度にざわついている。三橋はその中にとある人物を見つけて、ぴたりと歩みを止めた。只でさえくりくりとした目を一際大きく見開く。三橋の視線の先にいたのは、という同じクラスの女子であった。幾度か言葉を交わしたことがあるだけという、至って普通の関わりしか持っていなかった。

 それが、どうして、三橋の特別になってしまったのか。それは数週間前の迷子事件が切欠だった。三橋はその日、部活帰りに数人のメンバーと一緒に、近場にできたという巨大スポーツ専門店へ訪れていた。三橋の住む地域にスポーツ専門店はちらほらあるのだが、どの店も新設の店より規模は劣るものばかり。どれほどの大きさと品ぞろえなのだろうかと日々野球に励む少年たちは嬉々として向ったのだ。三橋にとって運が悪かったのは、その店が三橋の家からほどほどに遠いことだった。昼間ならまだ方向感覚を掴めていただろうが、帰る頃にはもう九時を回っていた。暗闇の中、見知らぬ道をひたすら彷徨い、途方に暮れていたところで彼女に出会ったのだった。

 は風呂上がりのラフな姿だった。最初、三橋は名前を呼ばれた時に彼女がだということに気が付かなかった。なんでこの人は自分の名前を知っているのだろう。それにしてもクラスメイトのという女性によく似た人だとびくびくしながら思っていたら本人だったのだ。彼女はどうやら三橋が迷子であると悟っていたようで、たどたどしい三橋の言葉を繋ぎとめて理解し、大通りまで送ってくれた。あの夜から、なんとなく三橋の中で彼女の存在は特別なものになった。「とってもいい人!」と自分の中で認識されたということもあるが、彼女の姿は教室でみる姿とはまるで別物のように思えて、なんとなく優越を感じていたのである。

 以後、三橋は教室の中でも外でも自然と彼女の姿を追う様になった。

「どーした、三橋?」

 ふと立ち止まってしまった三橋の肩を叩いたのは田島だった。きょとんと不思議そうな表情をしている。三橋ははっと今どのような状況下にいたのか思い出し「なんでもない」と小さく首を振った。隣に居た泉は三橋の不審な行動に首を傾げている。二人はなんの気なしに三橋の視線の先を追った。クラスの女子が丁度靴を履き替えているのを目にする。顔を見合わせてぱちぱちと瞬きを繰り返し、「ははーん」と言わんばかりの含みのある表情をした。思春期にはありがちな出来事なので想像も容易かったようだ。三橋自身も自覚していない感情を悟られてしまった。

! おっはよー!」

 手をぶんぶんと振り上げてに突進せんばかりに近づいたのは「何事も行動あるのみ!」の田島である。三橋はぎょっとして彼の行動を見送った。どうしてそこで彼女に話しかけるのだろうかと心の中は焦りと緊張でいっぱいだ。思わず数歩後ずさってしまった。そんな消極的な三橋の腕をがしっと掴み、の近くへ強制連行したのは泉だった。名前を呼ばれたは笑顔で振り返る。二週間ぶりに視線が合い、三橋はうへと気の抜けた声をあげた。

「おはよう、田島くん。泉くんと三橋くんも」
「おお、おはよ」
「お、はよ」

 田島は持ち前の人懐っこさで会話を広げ、自然に彼女の隣をキープし教室まで並んで歩み始めることに成功した。「今日は特別寒かったな」とか「今日提出の課題ってなんかあったっけ?」とか彼の口からは次々と話題が零れ落ちる。どれもこれも、ありふれた取りとめのない話だったのだが、口下手な三橋からしてみればどうしてそのようにぽんぽんと会話が出てくるのか不思議でならなかった。やっぱり田島くんは凄い。尊敬の念を込めてじっと田島を見つめていると、くるりと彼は三橋を振り返った。にんと白い歯を見せて笑う。

「三橋さあ、古文の課題やった?」

 田島の言葉にじりじりと冷や汗が流れた。もつられるように後ろを振り返り、三橋のことを視界に収めているので余計だ。脳内はフル回転していた。課題。古文。今日提出。ピピピと頭の中でキーワード検索を始める。導き出された答えは、全く記憶にないという嬉しくない事実だった。

「やって、ない」

 絶望的な三橋の答えに、田島はますます笑みを深める。ぴしっと手を挙げて「俺もなんだ!」と言われた時はどうしてそのように楽しそうにしているのか丸で理解できなかった。

と泉はちゃんと課題やってるんだって」
「う、うん?」
「俺は泉の写させてもらうから、三橋はのな!」

 田島の高らかな宣言に虚をつかれたような声が二つ重なった。一つは言わずともわかる三橋のもの、もう一つはいきなり指名されたのものだった。なんで、自分がのプリントを写させてもらわなければならないのだろう。よくわからない。しかし、一時間目が古典なので残された時間はあと僅かという現実を突きつけられるとろくに反論も言えなかった。二人で一つのプリントを見るのは効率が悪いので、間に合わない可能性が高いと付け加えられると尚更だ。おろおろとしている三橋を見ても仕方が無いと諦めたらしい。は「貸し一だからね」と苦く笑った。

 三橋はから受け取ったプリントを急ピッチで写し始めた。とても綺麗で丁寧な文字で書かれていたので作業はさくさくと進んだ。写しながら、頭の中では恥ずかしさがぐるぐると渦巻いていた。彼女にかっこ悪いところを見られるのはこれで二回目だ。この年齢で迷子になってしまったと白状したときもかなりの羞恥が込み上げてきたのだが、プリントを忘れて見せてもらうというのも相当の恥ずかしさだった。あの日、と別れて一人で自転車を漕いでいる時、もう二度と彼女の前で恥を晒したくないと強く思ったのだが、人生とは上手くいかないものである。そうやって悶々と悩んでいると思いの外早く単純作業は終わった。

「ありがとう」

 小さな声でお礼を言いながら三橋はプリントを彼女に返した。

「次からは忘れないようにね。毎度毎度貸さないよ?」

 は笑いながら三橋に釘をさす。「もちろんです」と言わんばかりに三橋は強く首を縦に振った。

「まあ、野球部って大変そうだから解らないわけでもないけど」

 「部活の調子はどう?」と彼女の方から問いかけられたことに三橋は驚いた。あの満月の夜の日に話した内容から、はそれほど野球に関心が無いということを知っていた。ルールに関しても全くの無知で、ポジションの解説をしてなんとか話題を繋ぎとめていたことは記憶に新しい。その彼女が積極的に野球のことを聞いてきたので、意外性が大きかったのだ。だが、同時に、自分が野球部に所属していることを覚えていてくれたのだと嬉しくなった。

「調子、いい、と思う。今日も、コントロール、褒められたんだ」

 「阿部くんに」という言葉を小さく添える。はきちんと阿部がキャッチャーだということも覚えていたようで、「あの阿部くんに? そっか、良かったね」と自分のことのように喜んでくれた。あれからプロ野球の試合が自宅のテレビに映ったら父親と観戦するようになってしまったのだと彼女は笑いながら語った。プロ野球ではどのチームが好きなのか。また、どの選手が好きなのか。なんて、興味津々に三橋に問いかける。自然と広がっていく話題に困惑しながらも、大好きな趣味の話なので嬉々として答えていった。

 まるで満月の夜に戻ったかのような気持ちにさせられた。ここには、あの時の様な気まずい二人きりの空間は存在しないけれど。そういえば、あの夜の彼女の格好は新鮮だった。自然と視線がの髪の毛へ移る。しばらくすると、戸惑ったように「何かついてる?」と言われてしまった。うひゃっと変な声を上げてぱっと視線を下げた。どうやら無自覚の内に凝視してしまったらしい。綺麗な黒髪から机の下の大きな埃に視界が移り変わって、罪悪感と同時に残念な気持ちが芽生える。一連の三橋の行動を不思議に思ったらしく、は再度「どうしたの?」と問いかけてきた。

「か、髪の毛……」
「うん?」
「ど、して、下ろさない、の?」
「え」

 三橋に指摘されては自らの高く結んだポニーテールの縛り目を触った。オレンジと赤のチェック模様が入ったシュシュはとても可愛らしい。実際のところ、が髪の毛を常に結んでいるのは、長いので授業中に邪魔になってしまうからという現実的な理由と、ただ単に髪を弄るのが好きだったからという趣味的な理由の二つからだった。冬になって首元が寒くなるとマフラーの代わりに下ろしたりすることもあるが、今はその変わり目なので日々悩んでいる。
 
「三橋くんは、下ろした方がいいって思う?」

 に問いかけられて、三橋は即座に頷いた。

「なんで?」
「え、あの、それは……」

 深く理由を問われて、視線をふわふわと彷徨わせた。は忙しない三橋の態度にもじっと耐えて返答を待っている。彼女の瞳が真剣味を帯びていたので、言い逃げは出来そうになかった。観念して口を開く。

「いい匂いが、ね。ふわって、揺れたときに、飴みたいな、甘くていい匂い、したんだ」

 恐らく彼女が使っているシャンプーの匂いだと想定するのだが、三橋にとってはとても印象深いものだった。自転車を押しながら半歩後ろを歩いていた三橋の鼻を擽るように、ふわふわと香る甘い匂い。きゅんと胸が締め付けられるように痛んだのも、その時だった。髪を上げることによって見えるうなじも好きだが、あの夜の記憶がどうしても頭に残っていた。思い出しながら、ぼそぼそと言葉を続ける。

「その匂い、好き。とっても、美味しそう」
「……美味しそう」
「う、ん!」

 余計な表現を付け加えてしまったことに気が付いたのは、ががくりと肩を落として項垂れた姿を見た時だった。さあっと顔を青くする。三橋からしてみれば精一杯の賛辞を並べたつもりだったので、「美味しい」という言葉が持つ違和感には気が付かなかった。普段の三橋の行動を考えれば、仕方が無いと言えるだろう。もし傍でこの会話を泉が聞いていたら思い切り頭に手を当てて「やってしまった」と溜息を吐いていたに違いない。

「あ、ごめ、俺、変な事言った」

 慌てて口を押さえて謝る。三橋に悪気が無かったことをきちんとは察してくれたようで、ひらひらと軽く手の平を振って構わないよという仕草をした。

「いや、……嬉しかったよ?」
「ホントに?」
「うん、ホント。それだけ気に入ってくれたってことだもんね。明日は髪の毛下ろしてくる」

 ぱっと三橋は頬を上げた。餌を与えられた犬の様な反射具合だった。

「楽しみに、してる。絶対、可愛い、よ!」

 三橋は満足感でいっぱいになっていて、思わずそう呟いた。音量はとても小さかったが二人の距離が近いため、三橋の独り言はちゃんとの耳にも届いていた。は頬を真っ赤にさせて目を見開く。どさくさに紛れてぽつりと零した本音の一部が九回裏の満塁ホームランに匹敵するほどの威力を持っていたなど三橋は想像してもいないようだ。ひたすらにこにこと微笑んでいる。遠目で観察していた泉と田島が「あの天然同士がくっつくのって何時だろうな」「さあ? 果てしなく時間かかりそー」と呆れたように呟いていた。





それは恐らく、恋の始まり

111030