秋の終わりの夜はとても優しい風が吹いている。昼間は夏らしい暑さが残っているけれど、夜になると昼間のむんむんとした熱気とギラギラと肌を刺す光が嘘の様に消えて、穏やかなさわさわとした風を吹かせていた。風呂上がりの火照った身体と少しだけ湿った髪の毛がそれを受け入れて、心地よい感触を与えてくれる。は自転車に乗って、近くのコンビニへと向っていた。楽しみに取って置いたアイスを姉に食べられたことが発覚したのはほんの数十分前。「今日食べようと思っていたのに!」と必死に彼女を非難したところ、手の平に落ちてきたのは満月の様な500円玉だった。「ハーゲンダッツでもなんでも買ってくれば」とうっとおしそうに彼女はそう言った。ついでに、おつまみの類いを何か買ってこいと付け足された。どうみてもいいように足に使われただけであったが、は意気揚々として出かけた。100円の安いバニラアイスの代わりに高くて滅多に口にすることができないハーゲンダッツが降ってくるとはなんとも美味しい話である。飛びつかないわけがなかった。 近くのコンビニまで自転車で五分。途中の分かれ道は一つで信号に引っかからなければもっと早く辿り着いてしまう。風呂上がりのラフな格好で少々躊躇いはあるが、九時過ぎの微妙な時間帯に知り合いに会うこともないだろうと気楽に考えていた。が、家のすぐ傍の例の十字路で見たことのある後姿を見つけてしまったのである。 彼は、三橋廉という。の通う西浦高校の生徒で、同じクラスだった。それほど仲が良いわけではないが、話したこともあるし、恐らく向こうもの名前くらいは覚えてくれているのではないかと思う。どうしてこんな遅い時間にうろついているのだろうかと疑問だったが、そういえば三橋は野球部に所属しているらしいことを思い出した。泉や田島といったクラスメイトも野球部に入っており、休憩時間には三人揃って顔を伏せ、睡眠を貪っているのは恒例の姿だった。他の運動部はそういったことは滅多とないのに、何故か野球部だけが飽きることなく寝こけているのである。だらしないなあとその光景を見たときは思っていたが、これほど遅くまで部活に励んでいるのなら無理もない。疲れた身体を最も効率よく回復するのは、睡眠だ。頑張るなあとクラブ無所属であるは彼の後ろ姿を見つめて思った。 それにしても、どうも三橋の様子がおかしい様に感じる。普段からおどおどしていて、行動に落ち着きが無いことを知っていたが、今はより一層不審な行動を取っていた。きょろきょろと辺りを見渡す仕草。電柱に貼ってある何町何番地という表示を見ては首を傾げている。信号が青になってもどちらへ進めばいいのか解らずずっとそこに佇んでいる。周りに三橋以外の人間はおらず、明らかに困っているようなのだ。これはやはり自分が話しかけるべきだろうか。三橋はどうやら自分のことに手一杯での存在には気が付いていないらしい。素通りすることもできるが、同じクラスのメンバーとしての後ろめたさが「声をかけろ」と訴えかける。 さささっと風に靡いて乱れてしまった髪の毛を整えて、躊躇いながらも声を掛けた。 「三橋くん?」 「うひっ」 一瞬、飛び上がったように見えたのは気のせいだろうか。彼は、ぎぎぎと後ろに化け物でもいるのではないかというほど緊張した素振りで振り返った。失礼な態度だが、彼ならば仕方がないと解りきっていたので苦笑で流す。三橋はの姿を見て、首ときょとんと傾げた。「どうして俺の名前を知っているの?」と言いたそうな怯えた表情をしている。どうやら同じクラスで何度か離したことがあるにもかかわらず、顔を覚えられていなかったようだ。少しだけショックだった。だが、「だよ。同じクラスの、」と言ってにへらと笑えば、彼は目を何度もぱちぱちさせて驚いていた。 「え、あの、、サン?」 「そうだよ。三橋くん、こんなところで何してるの?」 「あ、その、スポーツが、み、で……」 もごもごと何か言いたそうにしているのは解るのだが、声が小さくて、何を言っているのかさっぱりわからない。普段あまり関わったことが無いのでこういう時にどう対処していいのか、わからなかった。いつも傍に居る、泉とか田島とか浜田とかあの辺りが一緒に居たらなあと思わずにはいられなかったのだが、彼らが隣にいたらこんな人気のないところでおろおろと戸惑っているはずがない。「んんん」と辛抱強く彼の言葉を待つ。しかし、内容も支離滅裂で理解が難しかった。これは一個ずつ問うて誘導していった方が早いかもしれない。 「えっと、まず、スポーツがどうしたの?」 「スポーツ用品店が、そこに、できて」 「ああ!そういえば、新しくスポーツ用品店が出来たんだっけ。でも此処から結構距離があったような気がするけど」 「……帰り道、わからなくて」 「なるほど、迷子か」 ぼそりと呟いたら、「ひい!」とがくがくぶるぶるしながら頷いた。目に涙が溜まり始めている。何も泣くことは無いだろうに、と思ったけれど、闇に包まれた見知らぬ土地で迷子になる恐怖を自分で想像してみると思いがけずぶるりと肩が震えた。は生憎、夜遅く迷子になった経験はなかったが、高校に入ったばかりの時、昼間の学校で教室が解らなくて彷徨っていたことがあった。昼間でもその時ばかりは授業に間に合わない恐怖としんとした教室を一つ一つ確かめて歩く緊張に板挟みされてかなりの心労があったことを思い出した。自分ももし三橋の立場だったら涙の一つくらい零していたのではないだろうか。ふと息を吐いて肩の力を抜いた。三橋を家に送るために、いろいろと聞きださねばならない。果たして自分の力でこの問題が解決するだろうか。特別、この辺りは観光地というわけでもないので人に道を聞かれたことがあまりない。初めてのことに自信は半分ほども無かったが、なんとかせねばと三橋に問いかけた。 「三橋くんの住所、教えて。うち、この辺りだから土地勘はある方だと思うんだ」 「え、えっと……」 ぼそぼそと彼が言う住所を聞く。聞き覚えのある地名にほっとした。三橋の家はの家からは遠いわけでもなかったが、それほど近いわけでもないところにあるようだ。何か目印になるものがあの辺りに無かっただろうか。あれこれルートを探して、真っ直ぐ抜けた大通りにレンタルショップがあることを思い出した。 「三橋くん、レンタルショップがある通り、解る?」 「レンタル、ショップ……あ、パン屋さんがある隣、の」 「そうそう!あの辺りまで行くと、帰り道わかるかな」 「う、ん。いっつも、そこ、通ってきてるよ」 は胸を撫で下ろした。住所でだいたいの位置は把握できたけれどそれはあくまで大きな町としてだ。具体的に近くまで案内するのはとても難しい。基本的に、中心となっている店がある大通りが並ぶところまでしか行ったことがなかった。三橋の見覚えがあるところまで案内できるとわかって、安堵する。 「じゃあ、そこまで案内するね」 「え、あ、さん……!」 方向転換して、歩き始めた。三橋は戸惑いながらも、おずおずとの跡を付けてきた。は、黙って斜め後ろを歩く三橋を一瞥した。彼は口数が少なく、自らしゃべることを得意としていないことは知っていたが、どうも無言でただただ歩くのは苦手だ。話しかけるのは迷惑になってしまうだろうか。不安を抱えつつも意を決して口を開いた。 「何買ったの?」 「え、あの、……グローブのオイル」 「オイル?」 「そう」 こくんと三橋は頷いた。動きが小動物みたいにぷるぷるしてて面白い。仮にも男の子に対して小動物だなんて、失礼なことを考えてしまったのだが、それ以外にたとえようがないのでどうしようもない。は内心で申し訳なく思いながら、できるだけ会話を引き延ばそうと浮かんでくる疑問を次々と投げかけた。は野球に関しては初心者もいいところだったので、質問はいくらでも思いついた。 「オイルって何に使うの?」 「手入れ、だよ。これ使わないと、ボール弾いたり、する、から」 「え!弾くことあるんだ」 「うん。乾燥すると、たまに」 「じゃあ手入れって大切なんだね。……そういえば三橋くんって、どこのポジション?」 「ピッチャー」 うひっと口元がV字を描く。彼が今恐らく夢中になっているであろう部活のことが話題になるとやはり嬉しいらしい。笑顔と形容していいのか微妙な表情ではあったが、おどおどしている先ほどの態度よりは何倍もマシだった。会話もテンポは遅いが、上手いこと成立している。 「ピッチャーって、……投げる人だよね?」 「そう、だよ!」 「よかった。合ってた」 自ら質問を投げかけておきながら、野球のポジションをうろ覚えでしか記憶していないなんてなんとも情けない。野球の試合なんて今まで一度も見たことが無いのだから、仕方がないと言えば仕方がないのだが。中学時の野球部は専用グラウンドが校舎外の離れたところに存在し、試合風景を部活の合間に見ることも無かった。知り合いもいなかったので応援に行ったこともない。また、両親もそれほど野球中継を見ることはなくドラマ優先になってしまう。こうなると、野球のルールを知る機会が減って当り前だ。 そんなに対しても、三橋は「おいおい知らないのかよ」というような馬鹿にした態度を取らず―三橋がそのような態度を取るわけがないのだが―素朴な疑問に対して一つ一つ丁寧に答えてくれた。例えば、同じクラスの泉がセンターで、田島がサードだということ。そのポジションが大体どの位置にあるのかということ。いつから野球を始めたのか。野球のどういうところが好きなのかなどなど。三橋がに対して自ら話題を振らなかったので、必然的にの方が質問攻めをしてしまう形になったが、三橋はうっとおしそうな表情はせずきちんと対応してくれた。 暫くあるくと大通りが見えてきた。街灯の薄暗い光ではない、沢山並んだ商店の照明によってだんだんと視界が明るくなる。三橋も見慣れた光景にほっとしたらしく、表情が緩んだ。 「今度は、迷子にならないように、田島くんか泉くん辺りと一緒に行きなね」 「う、ん」 「それじゃあ、気を付けて」 最後まで自分が喋り通しだったなあと苦笑いした。バイバイと手を振って、は自転車に跨ってくるりと反転する。そのとき、あうあうと小さな声がしたので漕ぎかけた右足を降ろして、後ろを振り返った。三橋はまだその場に立っていて、口をもごもごと動かしていた。何か伝えようとしているのだ。は「ん?」と首を傾げて彼の言葉を待った。 「あ、ありがと、う!」 くりくりとした瞳が真っ直ぐを捉える。初めてまともに視線が合った瞬間だった。ほんわりと胸に温かいものが沸き上がってくる。日常会話で話している時に、視線が合う合わないなんて滅多に気にしないけれど、大切な事なんだと実感した。会話が通じているのか。どのように受け止められているのか。肯定的なのか否定的なのか。それらを視線だけで判断するわけではないが、ずっと逸らされているのと、目が合って微笑まれているのとでは心境的に大きな差がある。は、出来る限り明るい、にかっとした笑顔を浮かべて、「こちらこそ、ありがとう!」と返した。嬉しさのあまり声が大きくなってしまったため、三橋はびくりと肩を震わせたが、そのあとこてんと首を傾けた。クエスチョンマークの幻が彼の横に浮かんでいるように見えた。 「な、なんで?さんが、ありがとう、って……」 「たくさん野球のことを教えてもらったから。楽しかったし、勉強になったよ」 ありがとう。もう一回そう告げると三橋もあの例の変な笑顔を浮かべた。それから、再びバイバイと手を振って今度こそコンビニへと向った。たった、アイスを買いに行くだけの簡単なお出かけのはずが、こんなにも長引いてしまった。だが、もしあの交差点で三橋に出会わなければ、今のくすぐったい様な満足感と嬉しさは感じることが無かったのである。ふんふん、と鼻歌を歌いながらは強くペダルを漕いだ。 110921 |