瞼を閉じて真っ暗な世界を漂っていると脳内に一人の男性の姿が浮かびあがる。背が高く、見上げなければ見えなかった顔。太陽に照らされてキラキラと光る銀色の髪。本当に笑っているのかどうかよくわからない右目が印象深く刻まれる。後ろ姿はとても遠く、いくら追いかけても追いつきはしない。ぽたぽたと汗が顔を伝っては跳ねる。

「不合格だ」

 低く硬い声に彼女はびくりと肩を震わせた。息をのむ音が辺りに響いた。荒い呼吸と心臓を揺るがすほど強い痛みがを襲う。視線は一点に注がれたままだ。何よりもそれを見たくないと思っているはずなのに、逸らすことができない。どうしようもない自分の両目を潰してしまいたかった。




 真っ暗な世界から一気に爽やかな朝の風景へと様変わりする。窓際で柔らかなグリーンのカーテンがゆらゆらと風に吹かれ揺れている。はぼんやりとそれを眺めながらぎゅっと歯をかみしめた。もうあれは過ぎたことだから、大丈夫だ。怖くはない。目を何度か瞬いて先ほどの光景は夢なのだということを自らに言い聞かせた。枕元に投げ出した右手を動かしてそっと目元に触れれば大粒の雫が指先を濡らした。は泣いていた。もう何年もこの夢に囚われている。思いだしたくない記憶のはずなのに、の脳裏に焼き付いて離れずたびたび夢として現れるのだ。

 いつまでもぼんやりしているわけにはいかない。ぐいっと涙をパジャマの裾で拭きとって洗面所に向かった。冷たい水で顔を濡らし、朦朧とした意識をはっきりとさせるべきだった。

 しっとりとした朝露に濡れる木々を自転車で通り過ぎながらが向った先は勤め先の飲食店だった。昼と夜の営業を主としている。といっても朝から食材の仕込みがあるので、ぐずぐずはしていられない。何度も洗ってすっかり白の輝きが落ちてしまったエプロンを身につけて、今日も調理場へ立った。普段は接客を主としているが、食材の仕込み等の空いた時間はも調理場の方を手伝っている。さすがに味付けや調理までいくと自分の腕では厳しいところがあるが、ある程度の基本的なことはできるので出来る限りは働かせてもらっている。

「どうした、今日は随分早いな」

 声を掛けてきたのは既に調理場で働いていた店長である。飲食店といえば中年を過ぎたおじさん、おばさんが営業するイメージが強いだろうが、が勤めるこの飲食店の店長はまだ三十代半ばと若かった。料理も懐かしの味というよりは沢山の国の調理を真似た洒落たものが多い。労働者全員の年齢がと近い分、話しやすく働きやすい環境だった。

 は寝不足で腫れたまぶたを誤魔化すように目を細めた。店長は特に気に留めなかったのか視線をこちらの方には向けず、作業を続けた。

「珍しく早く目が覚めてしまって」
「……まあ、最近夜暑いから、寝苦しいよなあ」
「熱帯夜ですよね。じゃあ、私仕事に入りますんで。今日もよろしくお願いします」
「おう」

 タイムカードを押して、さて、と下準備に取り組む。の日常が普段通りに始まった。




 昼時になると店は込み合う。働き始めて随分経つので顔なじみのお客さんも存在し、親しげに話しかけてくれる人も幾人かいる。軽く会釈をしながら席へと案内している最中にカランとドアノブに掛けた鈴が鳴り新しくお客さんが入ってきた。

「いらっしゃいませ!」

 仕事以外では出番が無い様なとびきりの笑顔で対応する。しかし、彼女の笑顔は入ってきた人物が誰か理解できた瞬間跡かたもなく無くなってしまった。今朝彼女の夢に出てきたその人、がそこにいた。

「一名様ですか」
「はい」
「お席へ案内します。どうぞ」

 の胸の鼓動は不気味なほど速くなっていた。彼―はたけカカシと会話をしたのは約十年ぶりだった。狭い里内なので何度も出会う機会はあったが、視線を合わせたことさえなかった。の心臓は張り裂けてしまいそうだった。伝票を持つ手が震えそうになるのをなんとか堪えて、なるべく笑顔を浮かべようと頬を持ちあげた。引きつっているのは自分でも明白だった。気持ち悪い笑顔を相手に晒していることになるけどこれ以上改善することもできない。精いっぱいだった。

「メニューはお決まりですか」

 硬い声を気にせず彼は「これ」と指さした。焼き魚定食。この店の中でも低価格な和物だ。はさらさらと伝票にメモを取り「以上でよろしいですか」と再度問いかけた。彼は手持無沙汰なのか水滴のついたグラスを弄んでいた。カランと中の氷が涼しげな音を出す。カラカラに乾いてしまった喉を潤すために、奪い取ってでも飲んでしまいたい衝動にかられた。

 この一室の中にカカシがいるという事実は異様な緊張感を彼女に与えた。どうして彼はここに訪れたのだろう。がここで働いていることを知らなかったのか。否、そんなはずはない。働き始めてもう五年になる。つまり彼はのことを全く気にしていないということだ。自分はこれほどまでにカカシに捉えられ、悪夢として最後に言葉を交わした日のことを思い出すというのに彼はそうではなかった。当然だ。彼にとってはただのできそこないの生徒だった。関心などどうして抱くだろうか。は一度ぱちんと軽く両頬を叩いて、気合を入れ直した。ここで失態を晒して更にどうしようもない奴だと思われたくはない。もう二度と、カカシにそのような印象を抱いて欲しくはなかった。

 出来上がった定食をカカシの元へ運ぶ。意識をすると汁物を零してしまいそうになるので、できるだけ彼を彼でない様に思うことにした。それこそ畑に立っている本物の案山子なんていいのではないだろうか。必死の攻防が功を奏したのか、失敗もなく一連の動作を終えることができた。少なくなってしまったお冷に水を足す。一礼をして、清算場へ戻った。一時半を回ると大体客足も落ち着いてくるが今日は普段に比べて客が多いのか一息つく間もなかった。

 忘れもしない、夢に出てくるほど強烈な出来事は、実を言うとどちらに非があるわけでもなかった。は下忍になったばかりの新米忍者だった。アカデミーを一年留年したは十三歳でようやく下忍になり、その時の班の担当上忍となったのがカカシだった。カカシは当時二十一歳で、暗部を出たばかり。恐らく彼が最初に上忍講師として向き合った生徒というのがたちを含めた三人の下忍だったろうと推測する。三人は、カカシの洗礼というべき最初のテストを受けて、見事に落ちた。後から聞けば、カカシはその翌年もまた翌年も合格者を出さなかったらしい。最初の彼の生徒となったのは、それから五年後、里でもある意味で有名だったうずまきナルトを含む三人だ。それだけでも彼に対する厳しさが伺えた。実際、忍というものは甘い認識や覚悟で全うできる職業ではないのでカカシがあれほど厳しく試験を行っていたのは正しいといえる。彼に非など何もない。あるとしたら、自身に存在する。

 はカカシから不合格を受けた後、あっさりと忍を諦めてしまった。それが後悔の念を強くしている一因だ。幼いころはあれほど忍になりたいと懸命に、一浪してまでアカデミーに残ったはずなのに、しがみついていたはずなのに、カカシのたった一言で大きな挫折を感じて逃げるように忍の世界を諦めてしまった。今の生活に不満があるわけではない。料理をすることも接客をすることも、大変だけれどそれなりに充実した日々を送っている。だが、後悔するのはどうしてあの時あっさりと諦めてしまったのか。もがき切れなかったのか。それが一番大きい様に思う。

「お前、忍に向いてないよ」

 カカシの一言がいつまでもの心に残る。それは忘れようとしても、中々消えてくれなかった。




 硬い椅子がカタンと床に擦れた音がした。カカシが立ちあがり、レジの方へ向ってくる。少々昔の思い出に引き戻されていたようで、ぼんやりとしていた。はカウンターへと急いだ。伝票を渡され、記入されている値段を打ち込む。「六百五十円になります」と呟いた声はいつもより少し小さくなってしまった。札を渡されて、おつりとレシートを手渡す。「ありがとうございました」と口にしたところで、カカシは右目を細めてゆっくりと笑った。

「ありがとう、美味しかった」

 ちゃりんと小銭をポケットに突っ込んで、カカシはそのまま何事もなかったように店を出た。の手は震えた。自分に向けられた優しい声色に、リップサービスだとしても、なにげない一言だとしても、どうしようもなく、泣きそうになった。そこで初めては気が付いた。過去の自分が頑張れなかったそのことに対する後悔はある。自らの挫折への虚しさは今も拭いきれていない。だが、夢にでてくるのは後悔だけではなくカカシに対する恐怖や悲しみだった。つまり、自分は他の誰でもないカカシに認めてほしかったのだ。肯定的に自分を捉えてほしかった。だから、十数年という長い間彼は夢に出続けたのではないだろうか。ぐだぐだと脳内で考えが巡るが、一周したところでそんなことはもうどうでもいいと思った。彼の言葉に喜ぶ自分がいるのは紛れもない事実だったからだ。は咄嗟にカカシの跡を追った。運がいいことにカカシはまだ数メートル先を歩いていた。

「カカシ先生。ぜひ、また、食べに来てください」

 カカシはの声が聞こえたようでぴたりと足を止めた。そして、驚いたように振り返る。目はきょとんとしており、のその行動が意外だったと物語っていた。けれど、さすが忍なだけあって行動の切り替えがはやくすぐにこう口にした。

「もちろん」

 カカシはひらひらと軽く手を振って「またね」と言った。覆面でよくわからないけれど、には彼の口元は弧を描いているように見えた。カカシの後姿を数秒だけ見送って、はすぐに店に戻った。あれほど遠かった後姿がとても近しいものに感じた。先ほどとは百八十度異なる、嬉しそうな表情のがそこにあった。




冷徹な仮面を剥いだら

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