チャイムの音が鳴り響く。百数人の人数が収まる大講義室では、それまでの静寂から打って変って一斉に学生が動き始めた。ある者は我先にと出席カードを提出し、またある者は出題されたレポートの内容を反復している。私は後者と同様で出題されたレポートの再確認を友人と行っていた。
ふと携帯に視線を落とすとピカピカと青い光が点滅していた。開くとそこには三件の新着メールが存在した。一つはメールマガジン、もう一つはアルバイト先から休みを交替して欲しいという要望、最後には彼氏であり同居人でもある尾浜勘右衛門からのメールだった。
「サークルの飲み会なので遅くなります」
内容は酷く簡素なものだった。広い画面にポツンと表示される文字を一度だけ読み、すぐさま「了解」という二文字を入力して返信する。もっと可愛げのある絵文字を使ったり、くだけた言い回しをすればいいのだが、そういう可愛らしさからはかけ離れたイメージが私にはついているらしい。そのイメージに沿う様に、ついつい素っ気ない言葉を返す癖がついている。零れた深いため息を友人は聞き留めたらしかった。彼は「どうしたんだ?」と首を傾げる。
「折角バイトが休みになったのに、勘が飲み会行くんだって」
「あそう、ごちそうさん」
彼氏の名前を口にした途端「惚気は聞きたくねえよ」と突き返された。問いかけてきたくせに、その手の平を返したような態度は一体何だ。
「……あ、彼女と別れたばっかりなんだっけ」
「もうその話し止めてくれ。散々この間ネタにしたろ!」
「ごめんごめん。傷心の食満には酷だったねー」
先週の頭に、年下の彼女に振られた食満を慰めたことを思い出す。二人は傍目から見ても迷惑なくらい仲が良さそうに過ごしていたので、落ち込んだ彼から事情を聞いて驚いたのを覚えている。つい先日まであんなにイチャついていたのに。当日は視界に入れたくないほど痛々しい様子だったが、今は幾分か落ち着いたようだ。こうやってネタにされても普段の食満を崩さない程度には。
「早くいい出会いがあるといいね」
「……相変わらず酷い奴だよ、お前は」
「お褒めに預かり光栄です」
じっとりとした目で睨まれるが、こちらも負けじとにっこりとした笑みを浮かべた。
「お前らはもう長いよな。一緒に暮らし始めて二年だっけ」
「うん」
「何時までも仲睦まじいようで」
「ええ、どうもありがとう」
嫌味がまるで応えてないことに、食満はひくりと口元を引き攣らせる。「ああ、くそ」と悪態を零してから、配布資料を収め始めた。ただ、私の中では食満の言葉がこだましていた。仲睦まじいと言われながらも、最後に尾浜の顔を見てきちんと話をしたのは思い出せないほど前のことである。この事実は、仲睦まじいと表現されるに相応しいことではない。
闇に包まれていた空が徐々に白む。カーテンの隙間から青みを帯びた光りが入り込んだ。そろそろ夜が明ける。私はパソコンと分厚い専門書を何度も行ったり来たりしながら、レポートに文字を詰め込み続けた。余りにも落ち着かないから始めた行動だ。ずっと目を酷使していたのでいい加減目に疲れが溜まってきた。
尾浜はまだ帰ってこない。
パソコンと睨めっこをすることにも飽きてしまった。何か飲み物でも作ろうか。立ち上がりリビングへと向かった。冷蔵庫を開き、常備されている無糖のコーヒーボトルを取り出した。私も尾浜もコーヒー派で、一緒に暮らし始めてから一度も切れたことがない。
慣れたように氷をゴロゴロとグラスに放り込み、砂糖とミルクを注いだ。私はこうしないとコーヒーは飲めない。反対に尾浜は無糖派なので氷だけ入れて飲んでしまう。偶に、そのままペットボトルで飲むこともある。行儀が悪いので止めて欲しいと言ったが、大雑把なところがある彼は積極的に直そうとはしていないようだった。
スッキリとした甘さのアイスコーヒーに口を付ける。カラン、と涼しげな音が鳴った。
その時、外からタクシーのエンジンの音と金属が擦れるような音が聞こえた。足音が近づく。尾浜が帰ってきたのだ。流し台に凭れながら一服していたがどうにもこの場で尾浜を迎えるのはバツが悪かった。所在なさげにその場に留まっている訳にもいかず、慌てて自室に滑り込む。書籍と資料でごった返した机の上にグラスの置き場はなく仕方なく両腕で抱えたまま、手元の書物を熱心に読む振りをする。
カチャリと玄関の鍵を回す音が響く。襖の奥からあかりが漏れていることに気がついたのか、そのまま足音が近づいてきた。そっと私の部屋の襖が開かれる。寝ているのか起きているのか確かめるような小声で名前を呼ばれる。
「おかえり」
私は今ようやく尾浜の気配に気がついたかのようにゆっくりと振り返った。取り繕った笑顔がわざとらしかっただろうか。見れば尾浜は随分と上機嫌で、私の芝居がかった行動を不自然だと思わなかったようだ。酔っ払い特有のもそもそとした動作で近づいてくる。
「ただいま。まだ起きてたの」
「うん。レポートが終わらなくて」
「へえ」と尾浜は私の手元を覗き込む。ぎっしり文字が詰まったレポートを眺めて、「大変だねえ」と労わりの感情がまるでこもっていない口調で呟いた。ふわりとアルコールのキツイ匂いが漂う。思わず顔を顰めた。
「勘、酒臭い」
「ふふふ、結構飲んだもん」
心地よい低音が耳元で聞こえる。その吐息が擽ったく、堪えきれないのでやや身をよじった。それを尾浜は腕に力を込めることで留める。ああ、酔っぱらいの行動だ。抵抗を諦め、小さく息を吐いた。抱きしめられるのは良いが、アルコール臭いのが如何せん不快だ。煩わしさ半分、嬉しさ半分である。
「気持ちよく飲むのはいいけど、限度は守りなよ」
「うん、わかってる」
ふわふわとした浮遊感に眠気が少し混ざっているのだろうか、珍しく甘えたような雰囲気。共にお酒を飲んだことは数えるほどしかないけれど、こういう時の尾浜はちょっとだけ子どもっぽくなるのだ。年下であるから、彼に可愛さを求めることもあるが、たった一つの年齢差ではほとんど意味がないに等しい。ましてや尾浜は精神的には私よりも大分大人だ。私が心の奥底で一つ上の先輩という立場に自負を持ち、それに見合った態度をしようと必死なだけなのである。
「ああ、これ、史料学か。レポート多いし単位取りにくいって有名な」
「そう。課題は多いけど、その分、内容が濃くて面白いよ」
「えぇ? 俺は絶対取りたくないね」
書籍に軽く目を通して、すぐに嫌そうに顔を顰めた。中身は古文もびっくりの文章がつらつらと並んでいるので、それほど史学に関心のない尾浜が見ればそういう反応を取るのは当然かもしれなかった。面白いのに、と苦く笑う。私は物心ついた頃から歴史や史実に基づいた創作物を読むことが好きで、そこから史料学にも関心を持った。直接的に自分が専門として学んでいる学科とは関わりが無い、必要単位を稼ぐための教科の一つとして選択したのだが、自分には合っていた。レポート一つに対してここまで楽しく挑めることは少ない。
「提出いつ?」
「来週」
「ふーん、まだ結構時間あるけど」
「明日からバイト入ってるし、今週中に終わらせておきたくて」
「そうか。来週からまたバイト連勤なんだ」
少しだけ残念そうな声が聞こえたと思ったら、いきなり背後から強く抱きしめられた。すりっと洗いたての髪に頬を押しつけられる。カッチリとした上着は少し冷たく、自分の体温が奪われていく感覚がする。
「レポート、進まないんだけど」
「進まなくていいよ」
「それじゃあ単位落としてしまうでしょうが」
「明日のバイト休めばいい」
「今度はバイトを首になる」
酔っぱらっているとしても、非常に無茶苦茶なことを口にしている。ちょっと様子が可笑しいな、と首を後ろに向けようと軽く捻ったが、尾浜は私の肩に顔を埋めていて表情を伺うことはできなかった。
「さあ、先月からずっと夜バイト入れてるじゃん。たまの休みもいきなり入れてくるから、今日だって、飲み会入れててさあ、俺断り切れずいっちゃったし。最近、全然話せてないんだよ。解ってる?」
「う、うん」
「その割にまーったく寂しそうじゃないじゃん」
拙い返事を聞いて不満に感じたのか、それまで見させようとしなかった顔を上げた。真っ赤な頬をぷうと膨らませる。どこの女子かと疑うが妙にその仕草が似合っているので突っ込みを入れることはやめた。
「そんなことないよ」
「嘘付くなよ。にとっては俺なんていてもいなくても変わらない、彼氏なんでしょ」
「違う。私だって、すれ違ってばかりで、会いたいって思ってたよ」
「うそ、うそ。うそだ」
ぐりぐりと頭を擦りつける。口調が少年のように舌足らずになっていた。ああ、なんだか、寝てしまいそう。目がとろんとしている。いい歳をした大人がと呆れてしまうどころか、何故だか可愛いと思ってしまうのは非常に厄介だ。つくづく自分はお姉さんぶりたいらしい。
「勘、寝てしまう前にお風呂入っておいで」
「ん、うん」
尾浜はぎゅうと一際強く身体を抱きしめて、ふうと息を吐いた。そのままバスルームへと入っていく。足取りは思ったよりもしっかりしていた。念のため水音が聞こえるまで耳を澄ませてみる。シャワーの音がきちんと聞こえた。
「大分、酔ってたみたいだったけど」
先ほどの尾浜の言動を思い返して、ぱちぱちと何度も目を瞬いた。ずっとパソコンに向かっていたせいでしょぼついていた瞳もスッキリと冴えてしまっている。普段の尾浜は酔うと甘えるような言動をするけれども、今日のように駄々をこねるようなことは、一度もなかった。これは相当酔っていると判断していいのだろうか。
私も彼も我儘をいうようなタイプではない。すっきりと一線を引いた、その距離感は束縛がほとんどなく居心地の良いもの。楽なパートナーであったけれど、これまではっきりと寂しいという言葉を彼から聞く機会がなかったというのもまた物足りない事実である。不謹慎ながらも、嬉しさを感じてしまった自身の気持ちは誤魔化しようがなかった。
もしかすると、アルコールの力がないと彼はこのように不満を言うことができなかったのではないだろうか。自分の方が年下であることを彼は意識しており、子どもっぽい甘えを表に出すことをずっと堪えていたのではないだろうか。私ももっと素直に自分の気持ちを告げるべきなのではないだろうか。全ては憶測の範疇。酔っ払いの言動をどこまで信じればいいのかその曖昧性もある。
でも。二人の時間を作ることがいまは最優先だろう。
私は課題を放り投げそそくさとスケジュール帳を取り出した。どこを調整するべきかと詰め込まれた日程との長い睨めっこが始まった。
130124