「ご用意は整いましたか」
障子の向こうから低い声が届く。私は伏せていた目を上げて声のする方向へ視線を寄せた。「勘右衛門」と名前を呼べば、それを「了解」と取ったらしい。彼は恭しく室内へ入った。
「お似合いですよ、姫さま」
白無垢姿の私を見て、勘右衛門は目を細めた。穢れのない白を身に纏い佇む私の心情などまるで存在しないかのように扱う。自らの美しさを褒められたところで嬉しくもなんともない。ただ心が沈むばかりだ。ああ、とうとう、この日が来てしまったのか、と。
「外へ。人払いを」
私は周りにかしずく女房達に有無を言わせないような硬い声で命じた。忙しなく婚儀の衣装を整えていた彼女達は不満そうに眉を顰める。勘右衛門に視線を寄せて、薄っぺらな笑顔を確認すると「ほんの少しだけですよ」と言い残してしずしずと外へ出て行った。嫁入り前の大切な身だ。こうして我儘が通るのも最後だろう。この機会を存分に使わせてもらわなければ。
しんと静まり返った室内には、衣ずれの音すら響かない。勘右衛門はまっすぐこちらを見ていた。愛嬌のある顔で微笑む。こんな時でさえ何を考えているのか理解できない彼が、憎らしいほど愛おしかった。
「姫さまにお会いできるのもこれが最後になりますね」
勘右衛門は私の御目付け役ではあったけれど、私の所有物ではない。それ故に、供として連れて行くことは不可能。それは重々承知していた。けれども、改めて本人から別れの言葉を聞くと堪らなくなる。
何故、父上はこの若く逞しい忍を御目付け役にしたのか。このような展開は頭が大層働く父上にも想定できなかったことなのだろうか。否、気が付かなかったはずがない。それまで城の奥深くに囲われるようにして育てられた一人の少女に、外の世界を熟知している勘右衛門が魅力的に見えないはずがない。その魅力から導かれた好意が定められた婚姻を躊躇うまでの恋心に発展してしまったことは父上にとって唯一の誤算だったのかもしれない。
彼は私が十になるかならないかの年齢の頃にやってきた。城には年の近い兄弟はおらず、それも男ばかりなので、必然的に遊び相手といったら年齢を重ねた大人ばかり。物語にでてくる「友達」が一般的にどのようなものを指すのかわからなかったが、私はそのような存在に憧れていた。同時にそれを求めていたというのは寡黙な父上にも見て取れたのかもしれない。私は気の許せる人間が欲しかった。その結果、頃合いだろうと宛がわれたのは、忍者として一人前になって間もない勘右衛門だった。
もしもあの時来たのがお前ではなかったら、何かが変わっていたのだろうか。呟きは静かな空間に吸い込まれるようにして消えていった。
勘右衛門はひょうきんな性格で、畏まった場以外では随分と遠慮のない態度で私に接した。城主の一人娘に対して平気で胸を抉るほどに辛辣な小言を口にするくらいだ。歯に衣を着せぬその言動は当時の私からしてみればとても腹立たしく、新鮮で嬉しくもあった。彼は本音で話をしてもいい人間なのだと勝手に喜び、彼を特別視するようになった。
彼は厳しくも優しかった。私は面倒見の良い勘右衛門に心底懐いた。いつからか、身分の違いなど気にならないほどに、男として逞しく成長していく勘右衛門のことを好きになっていた。憧れから恋心への転機は、いつの時だったか。忍ほど観察力に優れた人間はいないはずなので、勘右衛門はとっくに私の中で燻る気持ちを承知しているはずだ。今まで、のらりくらりと交わされてきた。父上の信頼を守り、私が嫁ぐまでの長い間ずっと御目付け役から外されることがないくらいには、上手く巧妙に。
途端に虚しくなる。私は数週間前に痛めた左足に手を添えた。弱弱しさを装って彼の名を口にする。
「勘右衛門」
「どうされました、姫さま」
「足が」
「痛みがぶり返りましたか? 医師をお呼びいたしましょうか」
「必要ない」
これ以上、拒ませてなるものか。勘右衛門の進言をぴしゃりと跳ねのける。
「触って」
足を崩す。眩しいほど白い衣から、ほとんど日に当たっていないことが一目でわかるような肌をちらりと出した。年頃の娘が、それもこれから他所の武家に嫁ぐような女子が、はしたないことをしているという自覚はある。ただ、「私にこれ以上の恥をかかせないで」という気持ちが伝わったのか彼は煩く窘めはしなかった。
勘右衛門は、ゆっくりと手をのばした。手の大部分が黒い布きれに覆われていて指先しか素肌を伺うことはできない。壊れ物を扱うかのように丁寧に足袋を脱がせていく。青白い肌に一か所だけ赤みを帯びた個所があった。勘右衛門は冷たい指先を這わせ、そろそろとなぞった。
「熱はないようですが。痛いですか」
「少し」
平気で嘘をつく。腫れはもう収まっている。痛みなどまるで皆無。それでも、ちょっとの時間でも彼に触れられていたかったので、痛いふりをする。きゅっと眉を顰めてみせる。勘右衛門は下手な芝居に付き合うつもりでいるらしい。大きな手のひらで私の足をふわりと包み込む。
「こうしていると、昔を思い出しますねえ」
不意に勘右衛門がぽつりとつぶやいた。
「何か似たようなこと、あった?」
「まだ私がこの城に来たばかり頃の話です。寝付けずに床を御一人で抜け出された真夜中のことを、御覚えではございませんか」
「さっぱり覚えていないわ」
割とよく寝室から抜け出していたので、どの日が彼のいう真夜中に該当するのかまるで解らなかった。
「月が欠けた三日月の夜でした。私は咄嗟に姫さまを連れ戻そうと思いましたが、しばらく躊躇したあと気づかれないよう跡をつけることにしました。随分と動作が手馴れており、これが初めての事ではないと悟ったからです。しばらく歩いたのちに、とある一角で立ち止まられたのでその折に声を掛けました」
「その時、私はなんと?」
「足が寒いので温めて、と。まるで私がついてきているのをご存じであったかのような口ぶりで肝が冷えたものです。私の尾行に隙があったのではないか動揺しておりましたが、姫さまはそれに気が付くことなく、手のひらにすっぽりと収まってしまうような可愛らしい足を私に向けて差し出されました」
これくらいの大きさだっただろうかと椀を抱えるように丸めて見せた。勘右衛門が過去を回想する様を眺めて、ようやくそれが私と彼が出会った夜のことだということに気が付いた。父上から御目付役を付けることになったと言われた時は、窮屈で不快な思いを感じたものだが、真夜中に彼に出会ってとても安堵したのを思い出す。頼りがいのある何か。そんな印象を私に与えた初めての出来事だった。
「目元には泣いた跡があったのをしっかりと覚えております。泣きべそをかいていたあの頃が、とても懐かしい」
自分が覚えているような美しい思い出ではなく、彼の目にはやはりただの子どものように見えていたと知って少し気分が悪くなる。相変わらず彼は意地が悪い。
「……今は、随分とお綺麗になられました」
世辞を付け足される。全く嬉しくない。
「どうせ同じような言葉をいろんな姫に言うのでしょう。いままでも。そしてこれからも。私の後に仕える相手に対して」
撫でていた彼の手が止まる。嫉妬を匂わせた発言に、彼は微笑を浮かべた。
「不満ですか」
「ほんの少しだけ」
そうと唇が足元へ寄せられる。何をしているのだとつぶやく暇もなく生暖かいものが触れた。
「私は姫さまの忍ですよ」
乾燥した肌を僅かに吸われる。薄れてはいたが多少の赤味を帯びていたので見目の変化はない。が、確かに勘右衛門の唇はそこに触れた。触れられた場所が熱をもったかのように火照る。捻挫の痛みとはほど遠い、別の痛みがじわじわと私を侵食する。
「お前は父上の忍でしょう。私のものではない」
「いいえ、姫さま。私は姫さまの忍です。私が生涯を掛けてお救いしたいのはさま一人でございます。どうか、お忘れにならないでください」
目の前の男はなんといっているのだ? しばし、私は固まってしまった。
お前が私の忍であるなら、どうして私をここから連れ去ってくれないのだろうか。それが私を救うことになるというのに。どれほど私がそれを願ったか夢見たかこの男は知っているだろうに、何故そうしない。想定外の彼からの言葉に涙腺が緩む。口先だけでも今のように囁けば満足して大人しく嫁に行くとでも思っているのだろうかと声を荒げたい衝動に駆られる。
思いとどめたのは、先ほどの勘右衛門の台詞だった。
彼の真意は闇の中。本音を口にしているのか定かではない。底知れない彼の内側を恋に溺れていた私ですら薄らと感じている。気が付かないほど頭が鈍く生まれていないでよかったと心から思う。思い余って愛の逃避行をせがまない人間であれてほっとしている。
ここで、勘右衛門にそう命じたとして幸せになれる人間など一人も存在しない。武家の娘に生まれたからには婚姻は一生をかけた役目である。父上の面子を守るためにも、やはり私はここから去らなくてはならない。勘右衛門と共に生きる道は元から存在しない。
「感謝するわ、勘右衛門」
例えまやかしであろうとも今の言葉を支えに私は生きていける。乱世を生き抜いてやる。大往生をしてこのような儚い恋もあったのだと笑って死んでやる。――ああ、これは勘右衛門が私を生かせようとするためにわざわざついた嘘なのだ。そう考え至った時に再び胸が痛んだ。
120402 城主の娘と一介の忍