学校帰りの静かな夜。隣には私よりも少しだけ身長が高い久々知がいた。先ほど受けていた講義に彼は相も変わらず熱心に顔を出し、その流れで一緒に帰っているのだ。鉢屋という存在が脅威だと感じなくなって大凡二週間が経つ。私たちの生活は徐々に変化していた。例えば、未だにマスターのところにお世話になっている鉢屋がわざわざ晩御飯だけを食べにやってくることが増えたりだとか。あの日、鉢屋が彼らに囚われてから謎の鍋パーティーまで事態は急展開を見せたが、二週間経つ今も彼らの仲はそのままだった。つまり、好転もしていなければ悪化もしていない。ただ、大きく挙げられる変化としては、あまり過去に固執することがなくなったということだ。鉢屋を敵視しなくなった。簡単に彼らが鉢屋を疑わしい存在ではないと認めたわけではない。忍として最低限の警戒は今も続いている。ただ彼に対する接し方に優しさが垣間見れる様になったとでも言うのだろうか、恐らく、鉢屋が学園を抜ける前に近い対応を四人は鉢屋に対して行っているのだろうと思う。少なくとも私にはそう見えた。 そして、鉢屋。彼も彼なりに私たちに近づこうとしているようで、頑なだった態度が和らぎ始めた。竹谷に対して冗談を飛ばしたり、久々知がもちゃもちゃ豆腐を食べているシーンを目撃して「相変わらずだな」とげんなりしたり。なによりも鉢屋が不破の顔を付けてこの部屋に現れるのだ。不破は、久し振りに見た己の変装に、泣きたい様な困った様な表情をしていた。彼は戻らない過去をここで懐かしんでいるのだろうか。どういう心境で四人と関わっているのかその本意は解らなかったけれど、誰もそれを拒絶する人などいなかった。驚くほど穏やかな時間が流れている。私はちらりと久々知を見上げた。彼の視線は宙をぼんやり彷徨っており、何を考えているのかさっぱり分からない。 「ねえ、兵助」 「なに」 「今日って三人分で良かったんだっけ?」 「ああ。雷蔵と勘ちゃんと三郎はバイトだからいらないって」 スーパーの袋を二人で分け合って持つ。今夜の晩御飯は久々知のリクエストにより、豆腐ハンバーグだった。久し振りの豆腐料理だ。夕食の献立は料理を手伝ってくれる久々知か不破と一緒に決めることが多いのだが、そうなると必然的に久々知は豆腐をメニューに組み込もうとするので、どうやってそれを宥めすかせて回避させるかが専ら私の重大任務となっていた。健康的で身体にはいいのだろうけれど、食べざかりな青年に毎日大豆ばかりを食べさせるわけにはいかない。栄養が偏る。男なら肉を食え。どこぞの船長はむしろ肉しか食ってないぞ。それも身体には悪いのだろうけど豆腐よりはマシな気がする。 二人分の足音だけが静かな夜道に響く。会話は特に無い。けれど、気まずさは一欠片も存在しなかった。どうしてか。実のところ私はあの五人の中で最も久々知と共に過ごす時間が長いのだ。大学でほとんど毎日一緒に講義を受けているし、バイト先も同じとなると必然的にそういう生活になる。久々知は自分から口を開くタイプではないのであまり話すということをしない。つまり慣れてしまったということである。もちろん、それだけではない。会話がほとんど無いにもかかわらず、いや、無いからこそ、久々知の隣は妙に落ち着いた。気遣って無理に口を開く必要が無いと双方が解り合っている性もある。もちろん、久々知もずっと黙っているわけではない。私が話しかければそれ相応の返答を用意してくれる。彼の言葉はとても率直で突き刺さるように痛いこともあるが、オブラートに包み隠されることが無く、逆に安心感を抱くことさえもあった。こうして彼らと一緒に過ごすことができて、私は本当に幸せ者だ。 いつもの帰路コース。マンションを目前にして、久々知の足がピタリと止まった。 「ん? どうした」 訳が解らず、突然立ち止った久々知を訝しむように見つめた。彼の視線は真っ直ぐ前に向けられている。周りが暗いのでよく見えなかったが、目を凝らしてみればエントランスの外側に人が一人立っていた。さすが夜目が利くと豪語する忍である。私は久々知を伺う様に服の裾を揺すった。彼を警戒しているのであろうか。久々知は暫く相手をじっと観察したあと再び歩き始めた。不審者かもしれないと不安に思いながら彼の後に続く。 近づくことによってそこにどのような人物が立っているのかはっきり見えてきた。ジーパンにラフな上着、そして青いマフラーを首に巻いている若い男性だった。キリっとした眉毛には見覚えがある。それもそのはず。そこに立っていたのは竹谷だったのだ。どうして彼がこのように外に出て待っているのか全く解らない。普段なら暖かい部屋の中でゲームをしながら待機しているはずである。竹谷は私たちのことに気が付いたようで、にかっとした爽やかな笑顔で「おかえり」と手を振ってくれた。私は疑問に思いつつも、彼のお迎えを嬉しく感じ小走りで駆け寄った。買い物袋の中に収まっていたミネラルウォーターがたぷんたぷんと揺れる。 「どうしたの?」 「いや、ちょっと」 竹谷の目線は私を通りぬけて、後ろに居た久々知に定まった。竹谷は久々知を待っていたのだろうか。わざわざ、外に出てまで。二人は無言で見つめ合う。言葉を交わしていないというのに、その視線の交差で久々知は察するところがあったらしく、はあと一つ溜息を零してこちらに近づいた。彼の冷たい手がひやりと私の手に触れる。三人分の―いつもに比べたら大分軽めの―荷物を奪い取られた。 「できるだけ早く上がってこいよ。飯はが作らないといけないんだから」 「わかってる。ありがとな、兵助」 頭上で繰り広げられる会話に、首を傾げる。竹谷は私に用が合ったのか。久々知にやんわりとした笑顔を向けたあと、彼はすっと私を見下ろした。表情には変な緊張が見えた。どうして今更私に緊張することがあるのかそれは理解できなかったが、竹谷が私に何か特別な―久々知が隣に居ては告げることができないほどの―用事があるのだと結論付けて、茶化さずに彼の口が開かれるのを待った。「どうしたの」と問いかけることで先手を打ち軽く導いてみる。その方が言い出し安いだろうと配慮してのことだったが、竹谷はうろうろと目を彷徨わせて限界まで悩んでいるようだった。いつも潔く即決が多い彼にしては珍しい。それほど、言葉にするのを躊躇うような事なのだろうか。そこでピンとくるものがあった。ああ、なるほど、もしかして。 「新しいゲーム機買っちゃったんでしょ。PS3前から欲しいって言ってたもんねえ」 カツカツの生活を営んでいる私たちにはまるで手が届かない高級品だ。うちにあるのは64からPSPまでの私がよく使うゲーム機ばかりだったので、ここのところメキメキとゲーマーとしての腕を上げている竹谷はPS3の存在を知った途端「これが欲しい」と何度も口にしていた。PS3の価格と竹谷の毎月の給料と私に支払わなければならない金を計算したところでこれを買うにはかなりの努力が必要だということを散々説いて納得させたのだが、どうやら我慢が出来なかったらしい。それならこれほど緊張しているのも解る。「言いだしにくいよなうんうん」と一人頷いていると、竹谷は気が抜けたように息を吐いた。 「違う。全く違う。……お前ってどこか抜けてんだよなあ」 呆れられたようだ。しかしながら私としてはこれ以外に思いつくものが何もない。はっきりしない竹谷の態度にイライラして、「なんなのさ」と不満気に唇を尖らせた。 「は、今日が何日か知ってんの」 「……三月十四日?」 「わかってんじゃん」 カサ、と紙で出来た袋が額に当たった。なにこれ。ぴたりと私の身体が固まった。今日は、三月十四日。つまりはホワイトデー。今年は大学の男友達にチョコレート配るような余裕がなかったので、お返しをもらうこともなく竹谷に言われるまで全くその事実に気がつかなかった。私が彼ら以外にあげたのは、バイト先の男性だけだ。今日はバイト先に顔を出さなかったので―シフトが入ってないにも関わらず態々足を運ぶとお返しを期待しているように見えてしまうだろう―一つもホワイトデーに値するものをもらわなかった。というよりも、彼らがホワイトデーの存在を知っているとは思わなかった。バレンタイデーでさえ知らなかった彼らだ。たまにテレビで特集されているとはいえ、ホワイトデーとなるとバレンタインより知名度が低い。知っているわけがないと思っていた。 私は紙袋を竹谷から受け取った。驚きからか、それとも寒さからか微かに手が震えていた。片手にすっぽり収まる程度のそれには、私がよく通っているアクセサリーショップのロゴが入っていた。 「……」 「無言は止めて欲しいんだけど」 「……なんでお気に入りの店を竹谷が知っているのかがわからない」 「それは、……吃驚するくらいの偶然の結果だよ」 「開けていい?」 「どーぞ」 竹谷は私の独り言に律儀に答えていたが、正直頭の中には入っていなかった。喜びが脳を全て占拠してしまっていた。ピリとピンク色のテープを剥がして中身を取り出す。そこにあったのは、ピアスだった。蝶のデザインをしたそれが手の上でころんと転がった。藍色に近い、深い青が真ん中に収められている。今にも飛んでいきそうな、銀と青の蝶だ。 「綺麗」 自分の目の上まで持ちあげると、街灯の光でキラキラと輝いた。私は一通りそれを眺めて、ぱっと自分の耳に手を当てた。先ほどまで耳たぶで存在を主張していたピアスを外す。なくすといけないので竹谷に一度預け、もらったばかりの新しいピアスを耳に付けた。鏡が無いので自分では見えない。だから、私は髪を耳にかけて竹谷と向き合った。 「どうですか」 こういう時、不破だったら優しく微笑んで「似合うよ」と言ってくれただろう。尾浜なら褒めた後に「俺が選んだだけあるよね」という余計な一言が添えるに違いない。久々知は「良く解らない」と悪気もなく告げそうだ。鉢屋だったら、何も答えないというのが私の予測だが最近の彼は前と違う行動パターンで接してくるので、正直なところ想像がしにくい。案外普通に「いいじゃん」と言ってくれそうな気もする。 竹谷は四人とは全く違う。女性を素直に褒めることに慣れていないようで、口元に手を当てながら「うん」と短く発しただけだった。恐らくそれが彼の精一杯だ。不十分だとは思わなかった。できることならはっきりと肯定して欲しかったが、ホワイトデーの事実を知り、これを買いに行くに至って、何倍も恥ずかしい事態を経験しているに違いない。なにしろこのアクセサリーショップは女性専用の店なので、当然客は女ばかり。そんな場所に入り込むこと自体、竹谷には苦行でしかなかっただろう。姿を想像するだけで自然と口元が緩み、だらしない顔を晒してしまいそうになる。私は普段なら出来ただろう気遣いを忘れてしまうほど舞い上がっていた。あの竹谷が私の為に選びプレゼントしてくれたのだ。幸せすぎて死にそうという過激な表現でも追いつかないくらいである。 「とっても嬉しい。ありがとう、竹谷」 先ほどのにやけた面ではない、できるだけ女の子らしい笑顔を浮かべてそうお礼を言った。竹谷はほっと胸を撫で下ろした。 「喜んでもらえたなら、何より」 「……青色ってさ」 「うん?」 「私、好きなんだけど、今まで一つも持ってなかったんだ。だから、余計に嬉しいよ」 「そっか」 彼も嬉しそうに目尻を下げた。私は本当に言いたかった言葉とは違う内容を口にした。青色。即ちそれは、私にとっては彼らを示すカラーだ。つまり、彼らが元の世界で身につけていた装束の色なのだが、私がその事実を知っているということを竹谷は知らない。彼がこれを私にプレゼントしようと決めた一番の要因は何だったのだろう。インスピレーションという可能性もあるけれど、私が思う意味で青を選んでくれていたらいいのになあと思わずにはいられなかった。 |