*竹谷視点 震えるような寒さから脱した三月の温かい日差しの中、竹谷は部屋の主であるに言われた通り、外に干していた布団を取り込んでいた。日が大分傾き、夕暮れが近い。空気の匂いがほんの少し変わるこの時間帯に取り込んだ布団からは太陽の甘く優しい香りがした。ぽすんとその布団の上に圧し掛かり、一息つくように顔を埋めた。 「はー……」 声が狭い室内に響く。ここ二週間辺りはとても穏やかな日々が続いていた。殺伐とした時代からいきなり現代に飛ばされ時代のギャップに戸惑いつつ、常に久々知とに対して警戒心を抱きながら過ごした最初の一ヶ月。次の一ヶ月には、出来ることならあまり触れたくはなかった過去がそのままドンとこちらの世界にやってきた。最後に、鉢屋と真っ向から対面したあの日。立て続けに、竹谷にとっては重大すぎるくらいのことが起こり、心身はその出来ごとについて行くことで精いっぱいだった。それ故に、これほど落ち着いた時間は久しぶりだ。なによりも、誰も人が傍に存在しない空間というのはこの世界にやって来てからほとんど零に等しかった。余計に静かな空間が愛おしい。布団の柔らかな温もりと香りにうとうとと意識を飛ばしかけた。 時の流れは恐ろしく早い。ついこの間、こちらの世界へやってきたと思ったら、既に四ヶ月が経つ。何時になったら元の世界へ戻れるのか。それは、何度も何度も繰り返し脳内に浮かんだ問いである。トリップした当初は関連文献を漁ったりなんだりと思考錯誤をし、できるかぎりもがいていたが、もう好機を待つことしかできなかった。とりあえず、無事に戻れることはある一人の人物によって証明されている。ただ、それが何時かは解らない。自らに何もできることがないのだとすれば、のんびりと過ぎゆくこの時がとてももどかしかった。何時までここに居ればいいのか。気持ちが焦らないわけがなかった。 何よりも危機感を強めているのは、己の中の感情の変化であった。日に日に、帰りたいと切望する気持ちと比例するようにここに一生残ることになっても構わないという気持ちが増幅しているのだ。見覚えのない、知り合いもいない、知らないものばかりのこの世界。本来ならなんの未練も残るはずがなかったのだが、唯一のネックとなっているのが、同居人であるの存在だった。 竹谷が彼女のことを好いていると自覚して随分の時が経った。あれから想いが変わることは無い。彼女には隠し通そうとすぐさま決断したことが幸いとなって、己の感情が自分たちの関係に何らかの影響を与えたわけではなかったが、自身の気持ちは幾度も揺れ動いた。好きだと、伝えたい。伝えるだけでも、できたなら。願望に心が苛まれた回数は数え切れなかった。本来、竹谷は自らの感情に正直な人間だ。好きだと思った相手には、きちんとそう告げたい。手に入れたい。愛して欲しい。人として、素直な欲望を持ちあわせている。しかしながら彼は同時にそれらの欲望に耐久するだけの技量があった。冷静に物事を見極めることができる分、思い余ってついぽろりと口から本音が零れ落ちることがないのだ。自制ができてしまうからこそ、苦しくて仕方がなかった。自然の流れに任せ、感情に促されるまま、彼女のことを好きでいることができたなら、どれだけ幸せであろう。実りのない恋など、切ないだけだ。そう竹谷は考えた。現実には起こり得ない仮想の世界を何度も想像しては、無駄な時間をつぶしたと嘆くはめになっていた。 「兵助に忠告されたこと、全く守れてねえな」 くつりと自嘲気味に喉を鳴らす。嵌り込む前に自制をした方がいいと竹谷に対して告げたのは他でもない旧友の久々知兵助だった。竹谷の感情は鉢屋とを除いた他の三人には既に知られてしまっている。竹谷が自覚したと同じころに勘づいて挑発してきたのが尾浜、半信半疑で問い掛けてきたのが久々知、その後随分経って気が付いたのが不破だった。久々知が竹谷に対してその話題を振った時、竹谷にはまだ心の余裕があった。これ以上の深入りはしないと断言できる程度には。鉢屋のことがあったので、ただ守りたい、辛い思いをさせたくない、笑っていてほしいと思っているだけだった。庇護欲からくるそれは、生命に対して優しさを惜しまない竹谷にとっては当然芽生えるべき感情だった。それが、一体どうして恋心へと変化していったのだろう。目を閉じれば、すぐさまの姿が浮かびあがる。彼女の笑顔を見るとほんわりと心が温かくなる。一方でぎゅっと心臓を鷲掴まれた様な痛さも伴っていた。不思議な、感情である。 んん、と大きく伸びをする。ここのところ脳内ではひたすら堂々巡りにのことを考えていた。いくら一人で悩んでもこちらもトリップのことと同様に安易に解決できる問題ではなく、考えれば考えるだけ想いが募っていった。ただの悪循環だ。気分転換に、ゲームでもしよう。寝転んだままテレビの電源を入れた。丁度、夕方のニュースが始まる時間だった。昼が終わり、晩御飯までのゆったりとした時間を彩る軽やかな音楽が流れた。竹谷はBGM代わりにそれを聞き流しながら、どのゲームにしようかとパッケージを見比べた。 「さて、本日はホワイトデーでしたが。斎藤さんは奥さんに何かお返ししました?」 ふ、と耳に入ったのは三十代半ばの女性アナウンサーの一言。メインキャスターで、既婚者の彼に問いかけたなにげない言葉に竹谷は聞き覚えがあった。そう、先月のあの変な行事、バレンタインデーとどことなく響きが似ている気がする。知識の無いはずの竹谷がこのような敏感な反応をしたのは、バレンタイン当日にあまりにも印象的すぎる出来事が起こったせいだ。自分の軽率な行動で―忍としてあまりにも危機感がなかったと後に大きく反省した―を泣かせてしまった。あの時の彼女の感情の吐露、泣き顔は今でも脳内に刻み込まれて忘れることができない。どちらかというと気丈な彼女が初めて見せた弱音の部分は、とても衝撃的だった。そのバレンタインデーに類似する行事がまだあるのか、と竹谷は画面に集中する。 今日がなんの日か振りかえるための話題の一つの過ぎなかったのだろう、二人の会話はほんの数分で終わってしまった。けれど、それだけでもチョコレートを貰った男性が女性に対して何かお返しをする日だということはわかった。斎藤という少し生真面目そうなキャスターが「まあ、妻が前々から行きたがっていたコンサートのチケットをですね」と照れを含んだ苦い表情で語っているのだからそれくらいは掴める。つまるところ、竹谷はバレンタインにケーキを頂き尚且つそれを美味しく食してしまった自分が画面に映るキャスターと同じ行動を取らなければならないと思い込んでしまったのだ。本来、ホワイトデーは特に強制されるイベントではなく、チョコレートを貰ったからといって必ず返さなければならないという決まりごとはない。法律で決められているわけでもない。しかし、そんなことまで竹谷が読み取れるわけもなかった。手にしていたゲームを放り投げ慌てて自らの財布を漁った。給料日前なので、財布の中はもの寂しいことになっている。例えあと数日困窮することになったとしても何か彼女に送りたいという気持ちが彼にはあった。そこには罪悪感もあったのかもしれない。すぐさま上着を羽織って外に出た。 咄嗟に財布を掴み家を出たのはいいが、一体何を彼女に送ればいいのだろう。テレビの彼はコンサートチケットとやらを送ると言っていた。竹谷にはその片仮名文字が何を指すのかはよく解らなかったが、あれほどの年齢の男性が竹谷の財布に入っている金で買える範囲のものを妻に送るわけがないと確信はしていた。いっそのこと本人に直接何か欲しいものはあるのかと問いただしてみればよかったのだが、送りものの醍醐味は開ける瞬間までそこに何が入っているのか解らないあのドキドキ感だ。無難な選択肢を自ら率先して潰すところがまた自分らしいと苦い笑みを浮かべた。 近所のスーパーの前を素通りし、コンビニの前も素通りし、最近出来たばかりの新設のラーメン屋の前も素通りする。気が付けば、バスで十分程度はかかるはずのメインストリートまで歩いてきてしまった。ある程度店が集合する場所なので、平日にも関わらず人で賑わっている。竹谷は幾度かこのストリートを歩いたことがあった。なので、大凡どのような店が設置されているか、その知識はあった。女性が好みそうな店が確かこの辺りあったよなと歩き回っていると、不意に後ろから声を掛けられた。 「……竹谷さん?」 呼びとめられた、その時の声を聞いて相手が誰だかすぐに解った。この世界で、竹谷のことを呼ぶ人間はせいぜいバイト先の人達か、旧友か、彼女しかいないからだ。手に数冊の本を抱えている彼女と出会うのは三度目だった。「偶然ですね」と微笑む律子の表情にあの朝の面影はなかった。 「お買い物ですか?」 「え、あ、……まあ。律子さんは本屋ですか」 「はい、ちょっと久し振りに読書でもしてみようかと思って。竹谷さんはどちらへ?」 聞かれたくないことを聞かれてしまった。返答に困る。けれどこれは逆にいいチャンスだと考えた。何しろ律子はの友人である。彼女の好みについては確実に竹谷より詳しいだろう。限りなく正解に近い助言を彼女から貰えるのではないだろうかと淡い期待を抱いた。 「あの、ほわいとでーって何をもらったら嬉しいですかね」 思い切ってそう口にする。その瞬間、律子の微笑みがにっこりと一層深くなったような気がした。律子は「それはにですか」と問いかけながら、ずいと足を踏み出してきた。随分と近くなった距離に戸惑いを隠せない。こくりと冷や汗を流しながらも頷くと、彼女は満足そうににっと口の端を上げた。 「……そうですね、一般的なところだとアクセサリーですか。ネックレスとかピアスとか指輪とか」 「あくせさりー」 アクセサリーがなんたるものか、それはに何度か教えてもらっていたので理解はできていた。久々知とと三人で買い物に出かけたことが何度かあるのだが、その時無理やり「どれか好きなのを選べばいいよ」と言われ手に取ったのだ。しかし、冷たい金属の感触に不快感を抱き、竹谷も久々知も買わなかった。ひんやりとしたその感覚は―物としては全く異なるけれど―刃物を首に突き付けられているようで、違和感が拭えなかったのだ。それから特にアクセサリーの類いを意識したことはなったが、なるほど、確かに彼女もたまにそういった装飾品を身につけていた。ただ、どのようなものを彼女が好むのか竹谷は全く解らない。渋い表情で考え込む竹谷を見て、律子は付け加えるようにこうアドバイスした。 「特に、指輪は嬉しいと思いますよ」 「そうなんですか」 「間違いなく」 左手の薬指に、律子は視線を落とした。つられるように竹谷も目線を下げる。細い指に指輪は嵌められていなかったけれど、恐らく数か月前にはそこに存在したのだろうと思う。薄らと日焼けの跡が付いていた。竹谷は女性に男性が指輪を送るその真意を知ってはいなかったが、彼女の表情からして何かしら特別な意味がそこにはあるのだと判断することはできた。自らの過去を思い出して切なくなったのだろう、律子の眉はきゅっと細まる。竹谷は気まずくなった雰囲気を遠ざけるべく、再び彼女に問いかけた。 「……うーん、と、じゃあ、が好みそうなお店ってこの辺りにありますか」 「ああ、よく一緒に買い物に行くところがこの辺りにありますよ。この道を真っ直ぐ行くと、スタバがあるじゃないですか。そこの二軒となりのアクセサリーショップです」 仕草付きで一生懸命に説明される。それからどのようなものをが好むのか、二つ三つくらい例えを挙げてもらった。これからバイトがあるという律子とはそこで別れた。「良いものが見つかるといいですね」と別れ際に言われて、竹谷は「はい」と笑い返した。喜んでもらえれば何よりだなと心の中で呟く。内心は、複雑だった。 |