*鉢屋視点 鉢屋はぼんやりと夕日に染まった空を見上げていた。この世界に来てもう三ヶ月となる。恐ろしい平安がそこには存在していた。ここ数年、想像したこともないほど、心地よいものだった。それと同時に、ぼんやりと転換期となったあの時期のことを思い出す機会が増えていった。心のゆとりができたからかもしれない。余計な事を考える時間が増えた。特に―このような寂しげな空を見上げた時は一層そのような状態に陥りやすかった。 出来事は数年前―それこそ、自分たちが卒業する前に遡る。恐らくその頃は自分たちは最上級生として合戦場にていくつもの実践に向けた演習を繰り返していた。生臭くも、現実味のあった時期だ。夢から覚めるように、刻々と卒業の時期が近づいていた。囲いに覆われた学園という名の保護下から巣立ち、一端の忍者として闇夜を駆け巡る日はそう遠くなかった。鉢屋も卒業を見込まれ、その後の進路も明確であった。少なくとも、あの一通の知らせが届くまでは。 ある晩、鉢屋は夜中にひっそりと担当教員であった木下に呼び出された。同室である不破に悟られない様に、彼の居ない時期を狙って内密に、と。呼び出された先は学園長室だった。真夜中のそれに、始めは過去の悪戯が発覚したのだろうかと思ったが、すぐさま学園長の嫌に緊迫な空気に違うと思い直した。差し出されたのは一通の白い文だった。まさか実家の里に何か起こったのではないかと嫌な予感がしたのだが、直接的にそれは関係がなかった。ただ、鉢屋にとって酷く残酷な知らせであったことは間違いない。 「これは、いったい、どういうことですか」 薄暗い小さな炎の中、読みにくい文字を読み上げた鉢屋は学園長にそう問い返した。そこに書かれていたのは、一言でいえば、鉢屋を我が組織に組み込みたいという勧誘だった。自分の才能―と、いうには聊か傲慢すぎるかもしれないが、自分の名は忍の中でももはや有名になりつつあった―を見込まれてのことだ。実を言うと、今回ばかりではなく以前にも何通か勧誘の文が届いていた。それらはすべて断っていた。鉢屋の就職先は既に決まっていたので、このようなことは一蹴してしまうべきことだ。わざわざ夜中に呼び出すことでもない。だが、学園長は重い沈黙の末に、彼にこう切り出した。 「一つの任務を授ける」 学園長が問題としたのは、それがどこのどのような組織であるか、ということだった。鉢屋も最近、耳にしていたことはあった。山陰に得体も目的も知れない不透明な組織が存在しており、徐々に勢力を付けているということを。近畿にその所在を持つ忍術学園とその山陰は土地から見ても関わりが深い。山を超えればそこには山陰がある。先生方も不確かな動きを見せている集団に以前から気を配っていた。そんなところからまさかの就職の依頼である。それだけ、鉢屋の能力を見込まれていたのだろうし、学園からしてみれば悪いことではない。だが、問題はどうしてここに文を届けることができたか、だ。忍術学園はその組織の特殊性から幾恵もの場所を特定されないための工夫が施されている。実際に直接かかわりのある城から文が届くこともない。それができる城はほんの一握りと限られている。つまり、山陰の組織は忍術学園の在所を突きとめており、襲いかかろうと思えばいつでも実行できるということだ。その脅迫の目的も兼ねて直接こちらに文を届けたのであろう。遠まわしに、鉢屋を条件にかけて学園に揺さぶりを掛けているのだ。そこで、学園長は鉢屋に託すことにした。目の前にいるまだ卒業もしていない一人のにんたまに。 「長期の潜入捜査じゃ。内部を探り、不信な行動をしておればそれを内部から壊していく。けして楽な仕事ではない。万が一に少しでも油断をすれば、すぐさまお前は殺される。相手もそれをわかってこその勧誘じゃろう。それだけお前のその能力は恐れられている。……老いぼれた学園長からの任務じゃが、お前は受けてくれるか」 ここで自分が首を振ることはなかった。もしも鉢屋がこの山陰行きを断れば自分の母校がなくなってしまう可能性は高い。現役で戦える教員も六年も優秀なその他にんたまもいるが、それを上回る勢力を彼らは保持していると自負しているからこのような揺さぶりをかけることが可能だったのだ。計り知れない、謎な部分を多く持つ不確かな存在を泳がせていることほど気がかりなことはない。 「御意に」 気がつけば自分は頭を垂れていた。右隣に腰をおろしていた木下が再度、いいのか、と問いかける。学園長のいつにない深刻な表情を見、そして、この学園で過ごしてきた六年間のことを思い返した。自分はこの学園に入れたからこそ、救われた過去がある。その場所を鉢屋は壊したくなかった。 (なんて言ってしまえば、ただの阿呆のようだが) それだけ、馬鹿みたいに、鉢屋はこの学園で過ごした過去に執着していた。ここがなければ、自分は感情を一切持たないただの殺し屋になっていたかもしれない。今でもそれではないときっぱりと言い逃れることはできないけれど、ここにきて、複数の光を知ったのも事実だ。同時にその中に潜む闇の真意を垣間見た。きっともう、あそこまで暗い底に沈むことは二度とないのだろう。その様な場所を、後世の自分の様な存在のために残したい、という気持ちは鉢屋の心の奥に既に芽生えていた。しっかりと一つ頷いた鉢屋に対して、老人は厳しい視線を投げかける。 「お前にとって酷く辛い道になろうともか」 「それで、私の大切な場所を守れるのなら」 「そうか」 この任務は原則として内密を課された。疑われては元も子もない。この現状を知っているのは、学園長と、担当教員であった木下と、本人である鉢屋だけだ。家族にも、友人にも、あらゆる情報の漏れを避けるために彼は卒業を控えた一ヶ月前に学園を抜け出し自らの意思で闇に潜っていったのだとそう思わせることにした。けれど、残された者の戸惑いは大きかった。元々、飄々とした内実を掴ませないような性格をしているために、彼の行動は謎とともにどこか納得せざるを得ないものでもあった。あの鉢屋ならやりかねない、とそういうことであろう。でも、四人は違った。明らかに鉢屋に対して疑いを持った。どうして彼がそのような暴挙に出たのか、それが彼の本意だったのだろうか、と。けれど、それを問いかける相手はおらず、学園長にも木下にも他の先生に問いかけても詳しい事情はわからなかった。 いつの間にかそこまで回想をしてしまっていた自分に苦い笑いを浮かべた。告げるわけにはいかない事実とはこのことであった。それは任務だからというよりも、ただの鉢屋の自尊心がそうさせていた。自分が選ばれた、否、自分に向けられた挑戦状だと思っていた。この任務に彼らを関わらせるわけにはいかない。事実をしれば、きっと彼らは―特に不破は―介入してこようとするだろう。標的が忍術学園であるならば、戦う理由は彼らにもある。それを、鉢屋は恐れていた。自分一人が怪しまれず、なんとか内部を探るだけで鉢屋には手一杯なのである。敵だらけの中に一人入り、何年かかるかわからない、成功する可能性もわからない任務に没頭するのは自分だけでいい。手の内を明かすことがないようにしなければならない。 成功する可能性が零に近いと、立花に告げられてからより一層その感情は募った。知らせるわけにはいかない。どうすれば、いいのか。戸惑いだけが鉢屋の中に残る。ふつりふつり、と黒い渦の様なものが胸の中から湧き出ては消えていった。 「三郎。ぼうっとして、どうしたの」 突然、背後から声が掛った。振り返れば、がそこには立っていた。―気配だけは感じていたので、別段驚くこともなく鉢屋は上半身を捻るようにして軽く後ろを向いた。は、両手にスーパーのレジ袋を抱えていた。自然な動作で鉢屋はその一つを受け取ると、半歩先を歩き始めた。 「なんでもない。帰ろうか」 そうぽつりと零した鉢屋をぱちぱちと眺めて、は嬉しそうに笑う。うん、と勢いよく返事をして急かすように歩く鉢屋を追い掛けた。夕日に照らされて細長く伸びた影が仲良く並んだ。帰る場所は―あの小さな、アパートだ。お腹を空かせたであろう四人が自分たちの帰りを待っていることだろう。一時の幸せをかみしめるように、鉢屋は控えめな笑顔を浮かべた。 END ← home → |