鉢屋は入り際に少し会話しただけですぐに裏方に引っ込んでしまった。彼の後ろ姿を見つめながら、前途多難だな、と苦い笑いを浮かべた。鉢屋との距離は一歩一歩近づいてはいるのだろうが、そのペースがあまりにももどかしくて―まだ、出会っていく日も経っていないのだから当り前なのだが―もっともっと近づきたいという感情が胸いっぱいに敷き詰まっている分苦しさが襲う。つまらないという感情が顔にありありとでていたのか、鉄次が苦笑いを浮かべて私を見つめていた。 「私ではお相手は務まりませんでしょうか」 そんなことはないです、と首を振るもそれが口先だけの言葉だということは鉄次もわかりきっているだろう。そのやり取りを隣で見ていた夢菜がぱしん、と勢いよく私の肩に手を当てた。景気づけによく彼女が行う行為だ。鼻にかかる息は酒くさく不快ではあるが、彼女に悪意がないことは承知済みである。 「そーんなに彼と話したかったん?」 「……どういう目的があって私がここに来てるか、知ってる癖に」 「だって。お酒は楽しんで飲まんと美味しくないし。うちとマスターじゃ不服なんかなあって落ち込むやん」 大分出来上がっているのか、甘えた声で夢菜は凭れかかってきた。そう頻繁に彼女と飲みに行くわけではなかったが、それにしたって彼女のペースは以前と比べて酷くなっている気がする。まだ飲み始めて一時間も経っていないのに首まで真っ赤。赤くなりやすい体質だということは知っていたが、こうも回りが早いと不安になる。嫌な事でもあったのだろうか。弱音を吐かないという面では夢菜も自分に似たようなところがある。情けない部分を見せたくないという気持ちが強いのだろう。ぺったりと張り付いてきた彼女の体を押しのけて、綺麗に染め上げられた髪の毛をぐしぐしと撫でた。 「そろそろ、卓也を呼びもどしてきましょうか」 「え、あ、マスター」 「お客様のご指名とあれば、呼ばないわけにはいかないですからね」 なんとウインクの似合うおじさまか。暫く空けますね、と一言告げてから中に入っていった。 「マスターって独身かな」 思わず口にした独り言を夢菜はしっかりと耳に入れいてたようで、意味ありげに微笑みながら答えた。 「好きな人はおるみたいやで」 あの鉄次に好きな人が。何故夢菜がそんなことを知っているのか問いつめたかったけれど、あまりにも彼女がにやにやとした微笑みを浮かべているので立ちいるべきではない―とてもプライベートな内容なのだと―と直感的に判断し、開きかけた口を閉じた。 しばらくして、カランとドアの鈴の音が鳴った。鉢屋を呼びに行くにしたって、長い時間がかかり過ぎである。ほとんど透明になってしまったグラスの氷をカラカラ回して帰りを待っていたせいか、その高い響きは私の頭の中に印象的に残った。その時、夢菜にくい、と服の裾を引っ張られた。先ほどまであんなに赤く染まっていた顔色が、段々冴えてむしろ青くなっていたことに驚いた。もしかして嘔吐してしまいそうなのだろうか、と彼女の背中をさするように手を回す。が、近づいた耳元から聞こえてきた内容はそれとは全く別の意味で聞きたくない内容だった。 「後ろに、兵助くんともう一人おる」 とっさに後ろを振り返ろうとしたが、夢菜に阻止された。人の話し声が散漫しているこの空間の中で、やけにはっきりと私の名前が囁かれるのが聞こえた。 「」 それはここで聞くことのないはずの声だった。夢菜の言葉が疑りから確証へと変わる。私は呼ばれた声に先導されるかのようにくるりと後ろを向いた。本当に、そこには久々知と竹谷の二人が居た。冷や汗が背中を伝う。さっと顔色が悪くなったのを見咎めたのか、二人とも渋い表情を浮かべた。まるで裁判所で隠滅したはずの証拠を突きつけられているかのようだった。 「お前は隠しごとが上手だな」 竹谷の皮肉っぽい言い方が胸に刺さった。 「隣に座ってもいいか。夢菜さんも、いいですか」 「うちはかまへんよ。ちゃんさえよかったら」 「……座って」 私の隣に久々知、竹谷が並んで腰を下ろした。公共の場で取り調べを受けているようだ。早鐘を打つ心臓を宥めるように深い呼吸を繰り返していると、夢菜がぎゅっと手を握ってくれた。 硬い表情で久々知は私がいつから鉢屋の居場所を突き止めたのかを尋ねた。もう正直に話すしかないのだと腹をくくり、今まで胸の内に隠していたことを全て吐露した。私が鉢屋の居場所を知るようになった経由から、私がどうして鉢屋に近づこうと思ったのか。それは全て、鉢屋と仲良くなりたいという私の願望そのものだったのだけれども。久々知は私の答えを聞いて、納得はできずとも思い当たる節があるような表情をしていた。彼らがこちらの世界では二次元的存在であって、鉢屋三郎という人物のことを間接的に私が知っているという事実をしっているのは久々知と鉢屋だけだ。そういう意味で、私が鉢屋に好奇心を抱いて近づいて行ったというのは恐らく久々知は共感できずともなんとなく解るという風に考えたのだろうと思う。私の答えを聞いても何も言わなかった。ただ竹谷は眉を盛大に歪め、不機嫌そうに告げた。 「……なんで、見ず知らずのが、三郎と仲良くなりたいなんて発想を持つんだ。俺にはさっぱりと理解できなんだけど」 「関わりがないわけじゃないから。初めて会ったときも、その後も話をしたし。四人に大きな関わりがある人だとわかりきってるし」 「ああ、そう」 短い返答に体が震えた。竹谷が怒るところを見る機会は少なかった。否、四人の中で誰が一番短気かといえばそれは彼なのだけれど、ここのところとんと甘やかされていたように感じていたのでムードメーカーでもある竹谷の機嫌の悪さには戸惑いを隠せない。ただ、非は全て私にあるのだ。四人―特に不破が―鉢屋の行方を必死に追い求めていたのも承知の上で身勝手にも鉢屋の方を選択した。それは己の判断の結果だ。 「怒ってるわけじゃない」 久々知は短くそう言った。 「三郎の居場所を追い求めていた雷蔵は、また違うだろうが。俺は特にそういうわけではないし、隠しごとをするなといった覚えもない。それを咎められるほど深い仲ではないだろう。ただ、アイツに何かされていなかったか、それだけだ」 「……それは、大丈夫。されないから、こうやって会いに来てるんだし」 「なら、俺はもうとやかく言わない」 私は言葉を無くした。 「兵助が優しい」 「そこまで吃驚されると俺も傷つくんだが」 久々知は苦い笑いを浮かべた。そして、こほんと一つ咳払いをしたのちに、未だ隣で渋い表情をしている竹谷に視線を向けた。私もつられるように竹谷を視界に収める。 「はっちゃんは?」 「……俺は」 「彼は拗ねてるだけやないんですか」 竹谷は弾かれたように顔をあげて、初対面であるはずの夢菜を睨んだ。睨まれた本人はぷいと顔を背けてグラスに口を付けている。竹谷は声を荒げようとして、その一寸のところで押し留まった。頬を赤く染めた明らかに素面ではない女性に対して怒鳴ることはできなかったのだろう。ぶるぶると怒りを飛ばすように顔を横に振った。大分、伸びてしまった髪の毛をぐしゃぐしゃと苛立ったようにかき混ぜて、小さく息を吐いた。 「もういいよ。は良かれと思ってやってたんだろ。なら、責めることはできねーだろ」 必ずしもそこに私欲がなかったとは言い切れないのだが、鉢屋を売るような事はできなかったし、修羅場を懸念していたということも事実だったので特に否定はしなかった。久々知は竹谷の言葉を聞いて、この話はもう終わりだと言わんばかりに話を切り替えた。 「実はまた別に本題があるんだ」 「本題?……何かあったの?」 「詳しくは、また自宅に帰った時に説明したいのだが、恐らく三郎が今回のトリップの鍵となるべき部分を握っているらしい」 「どういう意味?」 「こっちにもに隠していた秘密が結構あるんだ。はっちゃんや俺がのことを責められないのはこういう理由もある。……兎に角、三郎が何をしようとしているのか、を突き止めることが先決なんだと。これから三郎を捕まえて問いつめることになると思う。俺は、にもその場にいてほしいんだが」 鉢屋の抱えている内情がトリップに関係しているとは。私は素直にそうなんだと理解できなかった。―そんな馬鹿な話があってたまるか、という鉢屋の声が聞こえてくる気がする。とんでもない話であるにも関わらず、論理的な久々知までがそう言っているのだから、何か確信めいたものがあったに違いない。でも、それほどの核心とは一体なんだ。ぐるぐると頭の中で単語が舞っている。考えても解るはずがない。しかも、問いつめるとはどうにも生易しい空気ではない強制的なものがそこからは汲み取れる。私は返答をすることを躊躇った。想像が駆け足で脳の中を過ぎていく。無理強いをするのではないか、暴力的な何かが起こるのではないか、と。そのような考えに行きつくのは、私が彼らの本職はなんであったかということをきちんと覚えているからだった。青白い顔色を見てか、竹谷が慌てて言葉を足した。 「大丈夫だ。そう酷いことはしない。ていうか、にはそれを止める役割になって欲しいと思ってる。さすがに、俺達も女子供の前でしようとは考えないだろ。あとは、捕まえた後に当然の部屋を利用させてもらわなければならないから、その為でもある」 「……参加してみたら?」 「夢菜!……人ごとだと思って」 「やって、ちゃんだからこうやって声掛けてるんやないかなってうちは思ったんやけど。とても、赤の他人には聞かせられない内容なんやろ」 口を挟んできた夢菜の言葉を聞いて、彼らが私をその場に入れることのもう一つの意味での重大さを知った。第三者である夢菜に指摘されて、初めてその事実に気が付いたというのはなんとも鈍い話だ。はっとしたように手の動きを止めた私を後ろから押すように、夢菜は言葉をつづけた。 「それに、三郎くんもマスターも戻ってこんし。案外もう彼は逃げ始めとるんやない?急いだ方がええと思うで」 「では彼女を借りてもいいということか」 「勿論。今度、兵助くんが学生服のコスプレするって約束してくれるなら」 「……考えておきます」 夢菜の最後の一言に久々知は一瞬顔を顰めたもののしぶしぶそう答えた。同意を得た後の行動は素早かった。私は久々知にきつく腕を握られその場から連れ出された。勘定がまだなのに、と呟けば明るい笑顔で夢菜が払っておくからと朗らかに手を振った。その気前の良さは別の場面で見たかった、と心の中で零しながらもさすがに大の男の腕力にかなうわけもなくずるずると寒さが残る外まで連れて行かれた。ドアのすぐそばに不破が待機していた。外から様子をうかがっていたようだ。 「三郎はついさっきここから逃げた。南西の方角。今は勘ちゃんが追ってる。携帯で繋がってるから」 「了解」 不破は、二人に携帯電話を差し出した。久々知と竹谷はそれを受け取ると不破が示した方向へ一気に駆けだす。私は、その手際の良さに唖然としながら二人の後姿を見送ることしかできなかった。ぽかんとした表情の私を見て、不破はくすりという笑みを零した。 「僕らはちゃんの家で待機」 ふんわりと笑う不破の表情に黙って頷いたあとに、いきなりぽんと背後から背中を叩かれた。もちろん、不破ではない。彼は私の視界に背中を向けて立つようにして収まっているので可能性は零だ。ということは一体誰だ。恐る恐る後ろを振り返れば、その動作を可笑しく思ったのか、背後の人はゆらりと肩を震わせた。 「初めまして。立花仙蔵と申します」 すっかり洗練された現代人のような雰囲気を醸し出している立花―私の耳が可笑しくなければその名前は彼らと同じ、にんたまの世界でよく目にした名前だった―が微笑みかける。否、微笑んでいるというよりは笑いを一生懸命堪えているという表現の方が正しい。吃驚して言葉もでない私を見た不破は、立花に向って脅かさないであげてくださいよ、と言っていた。新しい漫画の世界からの登場人物に胸を躍らせながらも、このいざこざがどうやら最終幕に近づいてきていることを察した。私の中で立花仙蔵という男はラスボスに値する存在であるからだ。また酷く個性の強い人がやってきたものだ、と緊張に震える身体を宥めるため深く息を吸った。 |