*鉢屋視点

 鉢屋が仕事を終えるのはいつも夜遅い。バーでアルバイトをしているのだからそれは仕方がないことである。それでも自分が働いているバーは早朝までやっていることがほとんどない珍しい店であった。金、土と多くの人が次の日に差し支えのない日は別だけれど。鉢屋はシャワーを浴びて先に寝室へ籠った鉄次を見送り、一人リビングのソファで酒を飲んでいた。風呂上がりのビールは美味い、と鉄次に言われたためになんとなく一人で酒を飲むときはビールになってしまっていた。日本酒だとか焼酎だとかそちらのほうがよっぽど鉢屋は好きなのだが、ビールの軽い苦みも悪くはないと思い始めた。電灯の明かりを消して、カーテンを開き、窓の外の月を眺めながらちびちびと缶に口を付ける。

 その時不意に携帯が震えた。この携帯に連絡を寄こすのは鉄次と、もう一人。だけだ。こんな遅い時間になんだろう、と鉢屋は気の進まないままメールを開封した。そこには、こう書かれてあった。

「明日いってもいい?」

 何処へ、とは聞かなくとも解ることだった。もちろん、鉢屋が働いているバーにやってくるのだ。最後に彼女がやってきたのは、確か、バレンタインデーとかいう妙な日だった。もう一ヶ月経つのか、と月日の流れの速さにやや驚きながらも、そのメールを閉じた。携帯の受信トレイには、からのメールで溢れかえっている。彼女はしぶとくメールを送ってきた。内容は本当に些細なもので、食べた物とか、今日何があったとか、そういうことを聞いてくる。手紙が何日も、時には何週間もの時間を要して運ばれていた時代に生まれ過ごしていた鉢屋にとってはこの意味のないメールというものが不思議でならなかった。何時でも、何処でも送信できるそれは、繋がっている、という錯覚を起こす。溜まっていくメールをいつの間にか見返している時間も増えていった。

「一人で来るなよ」
「もちろん、友達連れて行く」
「ならいいけど」

 短い言葉だけがぽつぽつと続く。最後の文字を打ち終わったところで、鉄次に名前を呼ばれた。卓也という偽りの名が廊下に響く。ぱかり、と折りたたみ式の携帯を閉じて、軽くため息を吐きながらリビングへ向った。自分はいつまでこのような生活を続けるつもりなのだろうか。真っ暗な世界へと一歩、足を進めた。

 翌日、鉢屋はいつものように、グラスの準備をしながら開店を待っていた。基本的に居候の身である鉢屋は定休日以外は毎日シフトに入っていた。それくらい働かないと家に置いてもらっている恩を返せない。否、それでも十分に返せているとは言えないのだが。店の開店と同時に、夢菜に連れられたが入ってきた。

「いらっしゃいませ」

 にこやかな笑顔を浮かべて鉄次はそう声を掛けた。続けて卓也も営業用の笑顔を顔に貼りつけた。鉄次との友人である夢菜は旧知の仲のようで、ここに訪れるどのお客よりも親密であるように鉢屋の目には映った。というよりも、鉄次が夢菜の扱いを心得ている様で、彼女の口数の多さをものともせず上手いこと相槌を打っていく。厄介なのは、そうなると必然的にの相手を自分がしなければならないということだ。

「お疲れ様」
「ああ」

 はそう声を掛けながらカウンター席、それも鉢屋の目の前に腰を下ろした。一ヶ月ぶりに姿を見るが、大して変わってはいなかった。少し、髪の毛が伸びたくらいだろうか。髪の毛の色もこの世界では好きに変えられるのか、明るい茶色から艶のある黒になっていた。薄らと化粧を施しているのか、ピンク色に染まった頬をあげて彼女は微笑んだ。

「今日は、飲む気で来たから」
「ああ、誕生日、過ぎたんだっけ」
「そう。向こうでは、誕生日の習慣がないんだよね。ケーキ買って帰ったら驚いてた。誕生日ってなんだ、って」

 メニューを見ながら、どれにしようかな、と目を輝かせる彼女を見て軽く息を吐く。間接的に、四人がそれなりに仲良く暮らしているという事実をつきつけられて、妙に心が痛くなった。は、基本的に、あの四人の話はしない。気まずくなる空気を予想しているのだろう。余計な気遣いなのだが下手に会話に上っても何を話せばいいのやら、となるので鉢屋にしてみれば有難かった。キュキュ、と無言のままグラスを拭いていると、がばっと顔をあげた。

「カシスオレンジで」
「定番のな。マスター、カシオレ一つ」
「卓也が作ってくれないの?」
「作る約束なんてしてないだろ」
「けち」

 不貞腐れたようにじとりと睨みつけられるが、丁度そのとき裏方を手伝ってほしいと呼ばれた。マスターに彼女の注文を口頭で告げて逃げるように店の奥へ入った。不服そうに彼女は眉を顰めるけれど、ひらひらと手を振って自分を見送ってくれた。

 鉢屋はまだアルバイトを始めて二ヶ月程度しか経っていないので、ここでは新人も新人である。それ故に裏方の片づけを任されることが多い。今日は運が悪いのかとの会話を打ち切ったまま長いこと裏で調理を担当させられてしまった。ほどよく一杯になったゴミを外のバケツへ運ぶことも主に下っ端の仕事で、店の裏で片づけを行っていると、不意に鋭い視線が鉢屋に突き刺さった。まだ肌寒いというのに、ひやりとした汗をかいた。

「……あれほどばれねぇようにしろっつったのに」

 外の空きビンを並べるゴミ捨て場に立っていたのは、よく知る人物だった。ただ、それが、あの四人の中では最も話のわかりそうなやつだったことは幸いした。久々知だ。尾浜でも不破でもなかったことに、内心ほっと胸をなでおろしていた。背後にもう一人いるようだが、そっちはどうってことない。暗がりから現れた一つの影に対して、緩く笑みを浮かべた。

「流石、上手く化けたな。元は利吉さんといったところか」
「そりゃどうも。そっちは気付くの遅すぎだ。常日頃、アイツを尾行して監視しているかと思ったが、これだけ時間が掛ったということは大分、野放しにしてたんだな。……警戒心無さすぎじゃねぇの」
はあれで隠すのが上手いんだ。不審な点は微塵も見せなかった」
「へえ。……で、わざわざ出向いてきて、何の御用なわけ。言っとくけど私はアイツには手、出してないぜ。兵助に恨まれる覚えもないし。そこの後ろにいるのにはあれから関わった覚えもない」

 背後からぱっと燃えるような殺気が突き刺さった。短気なところは相変わらずなようだ。けれど襲いかかってくるような事はしない。通路を塞ぐために、ただじっと背後で構えている。もちろん武器も所持しているはずだ。自分も懐には常にクナイを入れているが、前後を挟まれてしまっては、身動きできない。なによりクナイだけで対応できるような相手ではない。そんな自分の思考を読み取ろうとしているのか、漆黒の深い瞳がまっすぐにこちらを見つめていた。黒が怪しく光る。

「俺も、別にお前が何しようと関わりがないと思ってはいるのだが、そうも言ってられないらしい。お前が抱えていることが、このトリップに深く関連しているようなんだ」
「はあ?どこのデマ情報だ、それ」

 久々知の口ぶりに大げさに首を傾げて見せた。内心では、久々知の確信めいた様な言い草がとても気に食わずイライラとした感情が胸を襲っていた。忍は与えられた任務を極秘のうちに例え仲間であってもやり遂げなければならないという規定がある。だが、今自分が抱えている任務には規定は関係なく自分の都合でその内容を誰にも漏れない様に死守しているのだ。簡単に口を割るわけにはいかない。眉をあげて抵抗を示す様な口ぶりで問いつめると、彼はさらりととある人物の名を口にした。

「立花先輩からの情報」
「……あの人もこちらの世界へ来ているのか」

 久々知の口に上がった名前は、久しく聞いていなかった先輩の名前であった。よりによって立花かよ、と愚痴る。一癖も二癖もある彼は侮れない。学園時代に散々敵視していた、あの過去は簡単に蘇ってくる。

「この異常現象に私の事情が関係しているとは思えないのだが」
「それは、先輩に直接話を聞いた方がいい。ややこしいんだ。とにかく、口を割るのかどうかはっきりしてくれ。答えによっては強制的に吐かせる。なんせこちらには拷問を専門とする奴がいるからな」
「勘右衛門、な」

 そんなことせずとも、尾浜はところどころ鉢屋の内情を知っていると思うのだが。目の前の彼らはその事実を知らされていないようなので、鉢屋もそれは心の中に留めておくだけにした。尾浜は意外にも交わした内容を守っているらしい。に近づくな、と言われた契約を破っていることを恐らく彼はもう承知のはずなのだが。尾浜の行動が全く読めず、鉢屋は小さく舌打ちをした。そして、努めて冷静な表情で久々知を一瞥する。

「聞いて、得するようなもんじゃないし、そもそもトリップとは何の関係もないと思うぜ。きっと後悔する」
「構わない。可能性に少しでも縋りたいだけだ」
「あっそう」

 どちらにしても、もしここで自分が口にしなければ、いずれは尾浜の口から暴露されてしまうことは間違いがなかった。彼との契約を自分は早速破っているのだし、彼に隠し通す義理は全くもってない。腹を括るしかないのか。このまま逃走しようにも、完全に二人を巻ける可能性は皆無だ。バーテンダーの格好は目立つ。それに大した武器もない。頭の中で今後の算段を計算しながら、すすっと取っ手を隠れた左手で撫でた。瞬間、ぴくり、と三人の肩が動いた。何か別の気配が近づいている。しかし二人は動こうとしなかった。そのまま、ぱたん、と裏口の戸が開く。

「……あれ、お客さん?」
「マスター」

 鉢屋はとんでもないタイミングで雰囲気を壊すようにやってきた救世主の顔を見上げた。一般人の前でさすがに二人が暴挙にでることはない。鉄次は目の前に広がる緊迫した雰囲気に少しだけ眉をひそめたがあくまで優しげな雰囲気を壊すことなく、鉢屋の前後を囲むようにして立っている彼らに告げた。

「表の入り口からどうぞ。彼に用事があるのでしたら、申し訳ありませんが閉店までお待ちください。大切な従業員なので」
「……わかりました」

 彼の雰囲気にのまれたのか、久々知は一度頷いてから、竹谷の名を呼んだ。万事休す、か。否、事態は一層深刻になったのかもしれない。久々知の目も、竹谷の目も、全く諦めていなかった。





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*110115