*竹谷視点 完全に日が昇っていない、しんとした住宅街に規則正しい呼吸音が響いていた。竹谷が体がなまることを恐れて、空いた時間にランニングをするようになってから随分経つ。忍としては、やはり日ごろの鍛錬が物をいうので欠かすことができないのだが、さすがにこのビルに囲まれた都市で武器や手離剣の練習はすることができず基礎的な体力づくりでなんとか現状を維持していた。どちらかというと術の精度の高さよりも体力勝負なところがある竹谷にとって筋力維持はとても大切なことだった。向こうの世界でもよくしたことだ。日の出の遅い冬の季節だとこうして霜の降りた静けさのある薄暗い中走ることも多い。周りの景色は違えど、感じる冷たい空気はこちらの世界も向こうの世界もなんら変わりはなかった。つんと肌に突き刺さる様な寒い空気は眠気を完全に吹き飛ばしてくれる。特に最近はバイトの日程の都合で朝早く起きることが多いため、今朝のような青みがかった空をよく目にしていた。夜明けの空は、始まりと同じ。とても、綺麗だった。 ジョギングコースは決まっていた。しばらくすると右角にコンビニが見えてくる。二十四時間営業しているというそこには朝早いのに、既に人の出入りがあった。それを横目で見ながら通り過ぎる。コンビニを過ぎれば、そろそろいつもの折り返し地点にたどり着く。これでラストだ、と心のうちで考える。広い大学の門を目印にくるりと踵を返そうとしたところで、竹谷の目に人の姿が止まった。そのまま自分の足も人物に引きつけられたかのように動きを止めた。 「あれは、確か……」 滴る汗を拭いながら、目を凝らして自分の視界の隅に映った姿をじっと見つめた。大学の目の前に存在する公園のベンチに座っている一人の女性を竹谷は一度見たことがあった。いや、見たことがあるだけではない、幾度か会話もしたはずだ。脳内に浮かぶ掠れた記憶を繋ぎ合わせながら、少しずつ距離を進めた。顔がはっきり見えてくるにつれて、確信に変わる。やはり、一度会ったことがある。足音を立てながら近づいてくる竹谷に気が付いていないのか、彼女はぼうっとそこに座っていた。こんなに朝早く女性が公園に居たことなど竹谷はみたことがない。何か予期せぬことがあったのではないか、と躊躇いがちに声をかけた。 「えっと、律子さん?」 確かが彼女のことをそう呼んでいたはずだ。竹谷の声に一瞬遅れて彼女は顔をあげた。こわごわとしていたが声をかけたのが竹谷だとわかると少しほっとしたように体の緊張が緩んだ。その表情に、ああきちんと彼女も自分のことを覚えていたのだと竹谷も胸をなでおろした。気になったのは赤く染まったその目だ。泣き明かしたのだろうか瞼も少し赤く腫れていた。隣いいですか、と問いかけると無言で首を縦に振ってくれたので竹谷はベンチの隣に腰かけた。しかし、座ったものの中々言葉が出てこなかった。女性を慰めることに慣れていないのである。何を話せばいいのやらさっぱりわからない。長い沈黙が辺りを包んだ。それを破ったのは黙って座っていた律子の方からだった。 「振られたんです」 見ればすぐにおわかりでしょうけれど、と彼女は自嘲気味に呟いた。静かな朝の中なので、小さな声でもよく聞こえる。ちらり、と彼女の表情を盗み見れば、思ったよりも気丈な表情をしていた。くしゃくしゃに泣き崩れてはいない。散々、泣いてしまったので涙も枯れてしまったのだろうか。 「私が一方的に好きになってしまったんですけど。告白したら好きな人がいるからって、見事に玉砕しました」 口元は薄らと笑みさえ浮かべていたが、無理やり作っているようで痛々しかった。すっぽり心が抜け落ちてしまうほどその人が好きだったのだと。振られた今になってようやく気が付いたと彼女は告げた。彼のことを好きだと意識し始めたのは比較的最近だという。その彼を好きだと気が付いた時、彼女には遠距離を続けていた付き合いの長い彼氏がいた。その付き合いの長い彼氏を振ってまで、彼女は新しい恋を追いかけたのだ。けれど結果、結ばれることはなかった。一人で盛り上がって、一人で悲しんでしまっただけだった。なんて無残な結果なんだろう、とそればかりが浮かんできていたそうだ。 彼女になんと声をかければいいのか、話を聞けば聞くほど上手い言葉がでてこなかった。失恋した女の子を慰めた経験は一度もない。忍という職業柄、恋愛というものから遠い存在であることもその一因かもしれない。だから、表立ってアイツのことが好きなんだ、なんて仲間同士で打ち明けることもなかった。ほとんど見ず知らずの自分に対して律子がこのように自分の身の内を話していることも酷く不可解ではあった。だが、誰かに話を聞いてもらいたいという気持ちはわからなくもない。 「後悔をしているんですか。前の彼氏を振ってまで、彼に告白したことを。しなければよかったって」 竹谷は単刀直入に告げた。下手をすれば彼女の心をもっと傷つけることになっていたかもしれないけれど、悲しそうに嘆く彼女にどうしても聞きたかった。一瞬の間が空いた。考えて、答えようとして、それでも何か違う、と首を振る。しばらく黙りこんだあと、律子は口を開いた。 「後悔していないとは言えないです。でも、私は自分の気持ちに正直でいたかった。良くも悪くも一直線な性格なので、自分勝手だと思われるでしょうが、結果的にどうなろうともあそこで元彼と付き合い続けるという選択肢は私にはありませんでした」 語尾につれて声がはっきりとしてくる。まるで自分に言い聞かせているようにも聞こえたが、表情がからりと変わっていくのが目に見えて分かった。 「ちゃんと好きだと伝えられて良かったです」 結論としてはやはりそこに行きつくのだ。律子は涙目で笑った。伝えられて良かった、と。端から伝えられないとわかりきっている気持ちを抱えている竹谷はその笑顔がとても辛く見えた。伝えられることができたらどんなに楽なことだろうとさえ感じてしまう。このまま伝えられないで黙っていることが後悔につながるのだろうか―否、自分は後悔したとしても、やはり伝えられないであろう。正直な気持ちを伝えることだけが評価されることではない。伝えなくていい気持ちは沢山存在する。伝えることで、相手や自分に何か不利益を蒙ってしまう場合。人間は素直なまま生きてはいけない。闇に葬りさって隠すことで上手く機能していく場合も山ほどある。 「誉めてあげてもいいと思います。きちんと相手に気持ちを伝えられた、その勇気を」 かといって律子の行った行動を全て否定するわけでもなかった。目の前の小さな女性が告白までの決断にどれだけ苦渋し、悩みぬいたのかそれは竹谷の想像では到底計り知れないことであった。竹谷がその選択肢を選ばないというだけである。自分の言葉に律子はやんわりと肩の力を抜いて目にたまっていた雫を拭った。話している間に随分と気持ちが落ち着いていたようだ。張り詰めていた空気がじわじわと緩んでいく。ふう、と大きく深呼吸をした律子が立ち上がった。 「すいません。こんな話をしてましって」 「いや、こちらこそ。変なこと聞いてしまってすいませんでした」 「そんなことないです。……聞いてもらえてすっきりしました。落ち込んでばっかりいられませんからね」 ようやく彼女の表情に薄らとした笑みが浮かんだ。彼女に同調するように、白く輝く太陽が薄暗い雲の間から顔を出した。冬の太陽はとても神聖な気持ちになる。二人揃って太陽が昇るのを見届けて、はは、と顔を見合わせた。 「には内緒にしといてください。心配をかけるのは嫌ですから」 「わかりました」 長い間外にいのたであろう彼女のために近くにあった自動販売機で暖かいお茶を買って手渡した。彼女のアパートもこの大学の近辺らしく、ここからそう遠くない距離だったので送った。歩いている間は無言の時間だったが少なくとも竹谷にとっては苦ではなかった。自分の脳内に彼女の告げた言葉がぐるぐると響いていたからだ。玄関まで見送った後の帰り道でぽつりと呟く。 「自分に正直に、か」 その選択肢を選ばない、と竹谷は心の中で決めつけていたが彼女に出会ったのがこのような時代ではなく、元の世界だったらもっと違った選択肢ができたのではないか、と。律子の自分に素直な態度を羨むような気持が芽生えなかったわけではなかった。彼女がきちんと部屋に入るのを見届けてから竹谷はいつもと同じようにジョギングを再開した。余計な考えを蹴散らすようにただただ走ることに集中した。 |