複雑な表情でバイト先のドアをくぐった私を見るなり、夢菜はカウンター席で待っていてくれと告げて奥に入っていった。もうバイトも終盤だったようだ。身体が冷えていたのでホットココアを頼み、ふうふうと冷ましながら口に含む。暖かく円やかなココアの甘さが広がった。胸の中の小さなしこりが解されていくような感覚だった。白い湯気をぼんやりと眺めながら先ほどの情景を振り返った。とてつもない後悔が襲いかかる。怒りにまかせて吐いてしまったあの言葉が脳内を幾度も木霊した。あまりにも子供じみた言動に、人一倍優しいと形容される不破でさえも呆れかえってしまっていた。冷えた笑顔や、どうしようもないなという溜息が焼き付いている。 (心配してくれてた、っていうのは分かってたんだけど) 後悔するのは簡単だ。しかし、あの時、理性のままに思い留まるのは難しかった。他の女性と肩を並べて歩く不破の姿を見て、何も悪くないはずなのに言葉にし難い負の感情がふつふつと沸き上がってきたのだ。それは、腹立たしくもあり、嫌悪感もあり、悲しいという気持ちが混ざり合ったものだった。そして、結局、自分の感情を抑えられずあのような言い方をしてしまった。 「待たせて勘忍なー」 暖かいコートに身を包んだ夢菜が少し疲れ気味の声で駆け寄ってきた。テストが明け、レポートの提出から解放されたあとのバイトだったからこそ、疲労が溜まっているようだ。けれども、そんな疲れを隠すかの如くにかっとお得意の笑顔を浮かべた。私は間の抜けたような声をだして彼女の名前を呼んだ。珍しい行動に夢菜は首を傾げてきょとん、としてしまった。 「どしたん?なんか悪いものでも食べたんか」 「なんでもかんでも食べ物のせいにしないでよ。私がただの食いしん坊みたいじゃん」 「事実やん。食べ物やなかったらめっちゃ眠いとか」 「夢菜の中の私って一体何なの」 じゃれるような言葉の掛け合いはいつものことだ。夢菜との付き合いは短いけれど、このようなことを出会いがしらにポンポンと言い返せるのだから、私にとってかなり気を許した相手なのだろう。だからこそ、夢菜も私の望んだような普段通りの気を使わせない言葉を返してくれる。帰ったら聞くからはよかえろ、と背中を叩いて急かす仕草に今ここに彼女がいてくれてよかったなあとしみじみと感じた。 幾度も訪れた彼女のアパートはいつ何時でもきちんとしてあった。ただ、タンスの奥や押し入れなどを開けてしまえば見え隠れするオタクグッツが可愛らしい部屋にはミスマッチだった。いや、奇想天外な髪色のウィッグや丈の短いスカートなどなど私としては違和感のないものなのだけれども。身につけていたマフラーやコートを脱ぎ捨てて空調の電源を入れると、彼女はすぐさま台所へ立った。 「なんがええ?」 カタカタと食器が触れ合う音がする。先ほどココアを飲んだばかりだったが、ココアがいい、と口にした。置いてあったふわふわとしたひざかけを勝手に拝借して、ソファの上で縮こまっていると、二人分のカップを持った夢菜がやってきた。甘い匂いが辺りに広がる。さて、と早速、夢菜は話を切り出し始めた。 「原因はなんなん。こんな落ち込んどるちゃんは久し振りに見るわ。……まあ、大体予想はつくけど。今のちゃんの頭ん中はあの五人でいっぱいやろうしなあ」 「その通りです」 さすがに事情に通じているだけあって、彼女の理解は早かった。しかし、どれほど自分のオタクという趣味を暴露してある彼女でも今回の事の成り行きを全てしゃべってしまうのは恥ずかしさもあって到底できたものではない。掻い摘んで、どうして不破にあの場面で出会ったのか、そこでどんな会話をしたのか、どう事が転んだのか、なるべく話が通じるように端的に語った。当初、夢菜は鉢屋と私が個人的にコンタクトを持っていたことに驚いていたが―夢菜と飲みに行ったあとの話を実は私は彼女にしていなかった―そのあとに続けて私の感情の変化を告げれば面白そうにへえ、と片眉をあげた。夢菜は初見では空気を読むことが苦手そうな印象を受けることが多いそうだが、内実を知れば意外と鋭いところもあるということに気がつく。またストレートな性格なので、疑問に思ったら大抵のことは問いただしてしまわないと気が済まない性質だ。そんな彼女が問いただすわけでもなく、ただゆるりと口元を歪ませた。嫌な予感がするというのはこのことだ。ひくり、と頬が引き攣った。 「何その笑い方」 「別になんでも。気にせんで。けど、ちゃん、結論はもうわかってるんやろ」 「……結論」 気にするなと言われれば気にしたくなるのだが、急かすように答えを迫られて口ごもった。言葉にしてはいけないのかもしれない、と私は戸惑う。けれど、強く攻めるような目がじっと見つめてくるので、観念するしかない。視線だけで、ほら言え言ってしまえ、と脅されているようだ。私は諦めて口を開いた。 「雷蔵のことが好きなのかもしれない」 「かも?」 「……うん、かも」 いちいち揚げ足を取るんじゃない、と聞き返した夢菜にかもの二文字だけ強調するようにはっきりと言った。ここでの好き、というのは普段私が口にしている好き、とは異なる。もちろん、不破のことが好きか嫌いかと言われれば好きと答えよう。元々、私はにんたまというジャンルで一番好きだったのは不破雷蔵その人だった。けれど、今、私たちが話題にしているのは恋愛感情としての好き、だ。夢菜もその意味で私に問うているし、私もそのつもりで答えている。この感情は果たしてただのキャラ萌えなのか、現実の恋としてなのか、どちらなのだろうか。この二つは似通っているようで全く異なる。少なくともキャラ萌えに関しては、二次元的存在であるからこそだということができる。どれだけ好きになってもけして届くことはない。それは芸能人に恋をするのと似ているのかもしれない。けれど、特に二次元だからこそ、空想の世界であるからこそ、その人を自分の思うがまま婉曲することが可能なのだ。現実の恋は、そうはいかない。思い通りに彼は私の望む言葉を囁いてはくれないし、彼の欠点らしい欠点も見えてしまう。なにより、生きている人間としてそこにいる。触れて、会話ができて、自分と同じように心臓を動かしている人なのである。不破は本来ならばけして手の届かない前者であった。けれど、彼は何が起こったのかはわからないがそれらを飛び越えへ三次元の世界へとやってきてしまったのだ。有り得ないことが起きてしまっている。 不破雷蔵は魅力的な男だ。いつ、本気で恋をしてしまってもおかしくはない。しかし、事実はどうあれ彼を好きにはなりたくなかった。ドリームと現実は別物だと区別しているからだ。一度そこまで辿り着いてしまうと私は立ち直ることができそうにない。散々今で、二次元に行きたい、と心の中で叫んではいたものの、実際に自分の前にその人が現れると恋という気持ちを全否定している。なんとも滑稽な話だ。自分の考えを夢菜に悟られない様に、早口でまくしたてた。 「だって、そうでしょ。私のこの感情はただの嫉妬だし。嫉妬なら友達同士でもしてしまうことはあるから決めつけるのは早いと思う」 私は不破のことを恋愛感情として好きとまではいかなくても少なからず意識をしている。ぐるぐるとした頭を整理して出てきた結論はこれだった。すぱっと言いきったところで、けれど、と夢菜は私の主張を覆い隠すように口を開く。 「友達間や、親しい人を他人に取られたという感情なら、きっとちゃんは表に出さんかったんやないかな。こうやってぼそぼそうちんとこに嘆きに来ることはあったのかもしれんけど」 「……あそこでああいう風に拗ねてる私はらしくないって?」 「うちはそう思う」 「そんなに感情コントロールが上手いわけじゃないんだけど」 買いかぶりすぎだ、と首を振る。私はそれほど大人ではない。子供じみた嫉妬や、感情的に心情を吐露してしまうことは昔に比べてそりゃあ少なくはなってきているけれど、まだまだ理想の大人像にはほど遠い。だから今回みたいな子供っぽい態度を晒してしまったのだ。 「ああ、別に、誉めてるわけやないで。冷静すぎて面白みがなかったって言いたかったんや。少しは悩んでる姿くらい見たかったっていうのが本音」 「よく考えれば普段は全く逆の立場だもんねえ」 「せや。だから実は今ちょっと優越感がある」 人が悩みを抱えているというのに夢菜は得意げに笑った。彼女の素直な感情の出し方は羨ましいほどだ。人の気も知らないで呑気に、と思わないこともないが、夢菜が言うと嫌味に聞こえないのだから不思議だ。 「それにな。もしも雷蔵くんに恋したのだとしても、重要なのはそこからどう行動するかだとうちは思う」 「どう行動するか?」 「ん、そう。まあいつでも話聞くし。ゆっくり決めていけばええんやないの」 ぽん、と夢菜は私のより随分と小さい手でぐりぐりと頭を撫でた。背も小さい同い年の友達にそれをされるのは恥ずかしくもあったのだが、何故だかこのときはそれを甘受していた。急に夢菜が大人になったようにみえたからかもしれない。オタク同士だと最近はまっている漫画の話ばかりになってしまって、普段はあまりこういった恋愛ごとなど話したりはしないので夢菜の恋愛事情を私は全く知らなかった。けれど、こうして話を聞いていく限り彼女は彼女で今現在恋をしているのだろうとなんとなく感じた。 「まずは仲直りだけど」 「ああ!せやったな」 絶対零度の微笑みを浮かべていた不破を思い出して、頭を悩ませる。どちらにしても、きちんとした謝罪を述べることが大切なのだろうけど。果たして、彼は許してくれるのだろうか。なんとなく、こじれ始めたバランス関係に私は不安を隠せなかった。 |